コドモの王国

文部科学省解体による教育自由化で、
効率のいい学習方法が日本中に広がる、
と思っているブログ。

「子どもが変わった」という言い分に対して(2)

2008年05月31日 | weblog
今書かれていた言い分を、学校に遅刻した生徒の言い分に
置き換えると、「プロ教師の会」と同じ思考パターンの
生徒はこんな言い訳を、胸を張って言うのだと思う。

【ボクが「遅刻してしまった」ことに、ボク自身は
あまり責任がない。自分で決められた時刻に起きられなく
なる時代だからこそ、ボクは「遅刻してしまった」のである。

ただ、ボクに真に責任がある点は、パソコンやゲームに
現代的個人のボクが、時間も忘れて夢中なることに気づいて
なかった。

パソコンやゲームの魅力に対してまったくの無防備だった。】

こんなコザカシイ言い訳をする生徒がいたら、「プロ教師の会」の
先生も「やかましい!! 変な言い訳すんな!」と怒鳴り散らすだろう。


この本の言い分はこの手のオンパレードである。
いやほんとにヒドイ。

一番ヒドイ主張が、勉強の「できる子」「できない子」を論じて
いるところで、言い分としては、「できない子」は先天的に出来ない。
(運動能力にも、個人差が生まれつきあるのだから、それ自体はうなずける。)
「先天的」にできない子は、「授業態度」も悪く集中できない。そして
それは「家庭環境」のせいである。という言い分で終るのだ。

「え?それで終わり?」呆気に取られた。
どうすれば授業に興味を持たせられるか、とか、勉強が本当に苦手な子には
どういった能力を変わりに見に付けさせるべきとか、そういった提案が一切
ないのだ。

ようするに、こう言いたいのだ。
「勉強のできる子だけで授業を受けさせるべきなのだ。
だってできない子は、本人が先天的にバカだし、親自体のバカな生活習慣が
そのまま引き継がれるのだ。
だから間違ってもボク達教師はなんにもわるくないんだよ。
だってそうなんだもん!」

もう呆れ果てた。いや、疲れた。

この人たち「プロ教師の会」が、日本中の教師全てを代表して
世間に主張するとしたら最悪である。

あまりにもスポークスマンとして、印象が悪い。

教師全員が、言い訳ばかりのプライドモンスターだと
思われてしまう。



「子どもが変わった」という言い分に対して(1)

2008年05月31日 | weblog
1980年代に入り、「校内暴力」が問題視されだすと、
それまでのように言う事をきいていた子どもたちとは、
異質の子どもたちが現れたため、それまでの方法論が
通用しなくなった。

この事を世間が認知しないから、教育議論は間違った
方向に進むのだ、という意見が述べられます。

「アホか・・・」というのが、その意見に対する
私の正直な感想です。

70年代まで通用してたメッキが剥がれただけだろ?
それが80年代になって表面化しただけなのに。

プロ教師の言い分はこうです。

【だいたい、子ども(若者)たちが「こうなってしまった」
ことには学校や教師はあまり責任がない。学校や教師が子どもたちを
育てられる時代でなくなったからこそ、子どもも・若者たちも
「こうなった」のである。

ただ、学校や教師に真に責任がある点は、戦後教育が社会や集団や
まわりに決定づけられない、真に自己そのものに依拠した近代的個人
がありうることを想定していたことであろう。

個人とは個人そのものではなく、その対極(内面)に「普遍」や
「絶対」や「全体」を内包したものでなければならないことに
気づいていなかった。

近代そのものや近代的個人の恐ろしさをまったく予測しないで
子どもを教育しようとしたことであろう。近代に対して
まったく無防備だった。】

おそろしいほど堂々と、自分たち教師は悪くないと、
宣言しているこの醜さ。





教育大混乱

2008年05月31日 | weblog
『教育大混乱』(プロ教師の会・編著)を読みました。

教師が書いた、「私たち教師は全然悪くない!」という
内容の本です。

この程度で「プロ教師」を自称してることに寒気がしました。

なまじ学校の「お勉強」が出来て、そのまま教師になり、
世間から非難されることに、チョモランマより高いプライドが
傷つけられ、「ボクは全然悪くないのに、みんなヒドイよ」という
鬱憤から書かれた本だな、という感想です。正直なところ。

私は別に「先生」が「嫌い」でも「軽蔑」もしてません。
裏返せば「好き」でもないし「尊敬」もしてません。

トラックの運転手や工事現場で働く人を眺めてる時と同じように、
「嫌い」でも「好き」でもなく、「軽蔑」でも「尊敬」でもなく、
無数にある職業の一つに過ぎないと思ってみています。

だから普通の職業だと大変な事、やってられない事を
「先生」だからという理由だけで我慢しているなら、
もちろん同情しますし、普通の職業なら当然のことを
不平不満を言うなら、「甘えんな」とも思います。

そんな自分が感じたこの本の感想を書きたいと思います。





「訳者あとがき」の感想

2008年05月25日 | weblog
橋爪貞雄さんが書かれたこの「訳者あとがき」は
昭和53年(1978年)に書かれている。
いまから30年も前のことである。

そこで指摘されたことは、ますます顕著になって
あらわれているように思えます。

そういえば、昔のドラマだと、子どもに塾や習い事を
させる母親は、子ども自身ののびのびとした感性を
押しつぶそうとする「悪者」として描かれていて、
それを演じられる女優さんも、いかにも神経質で
すぐヒステリーを起こす人物として演じられてきた。

それを現代にあてはめると、世の中の大半のお母さん方は
「悪者」になってしまうが、今のテレビドラマの中で、
子どもに塾通いさせてるだけで、悪者扱いするものは、
皆無だろう。

これは、「正規の学校教育だけでは不十分だという感覚が
これほど一般化し」と指摘されてたことが、国中の隅々まで
浸透しつくした、という感である。

もうこれは、塾や家庭教師のような「個別能力主義」の教育カリキュラムに
対して、落ちこぼれをフォローできない無責任な『全体主義』学校教育の
完全な敗北なのではないか、と私は思います。







学校の無力化

2008年05月25日 | weblog
【『不平等』の「訳者あとがき」(橋爪貞雄・著)より】

本書が、わが国(日本のこと)の教育に投げかける問題点を
拾ってみよう。

学校教育で修得されるアカデミック・アチーブメントが、家庭や階層と
いう条件、いいかえれば、本人の責任に帰せられない諸条件によって、
かなり大きく規制されるというのであれば、学校の直接的効果は疑問視
されることになる。

最近の大学進学状況をみると、そのような兆しは十分指摘できる。

有名国立大学の合格者の家庭的背景をみると、父兄の職業は管理、
専門・技術が多く、所得も比較的高い層が大半を占めるように
なってきている。

伝統的イメージが描いていた貧家の優等生というタイプが
少なくなったわけである。

正規の学校教育だけでは不十分だという感覚がこれほど一般化し、
学校での落ちこぼれは家庭と本人の責任において補充しなければ
ならないという考えが異常と感じられなくなった今日、

恵まれざる階層の子弟の担う家庭的背景のハンディキャップが、
在学期間中に縮小よりもむしろ拡大に向かうことは、わが国でも、
いや「コールマン調査」の行われた時代のアメリカよりも、
現代のわが国のほうが、もっと深刻なのではあるまいか。

われわれの学校が子どもの背負っているハンデを取り除いて
やれない、これはまさに学校の無力化である。




『不平等』を読んで

2008年05月24日 | weblog
「不平等」(C・ジェンクス著)を読みました。

アメリカの教育を「人種」「家庭的背景」「経済的背景」など
様々な面から、生徒にとって平等なものなのか、を資料に基づいて
研究したものを発表した本です。

正直、「つまんなかったー」という感想です。
アメリカの話だからなのか? とにかく退屈しながら
ながして読みました。

訳者である橋爪貞雄さんが「訳者あとがき」の中で、
日本との関連について、ご自身の意見を述べられて
いるのですが、そこは面白かったので載せたいと、思います。


『硫化水素』の事件について

2008年05月18日 | weblog
硫化水素を使用した自殺が頻繁に起こり、
マスコミを賑わしています。

そして「一家心中」というカタチをとった「他殺」まで
起こり始めています。

このブログでは「教育」に関して言いたいことを
語らせてもらっています。
「硫化水素」と「教育」は、何の関連もなさそうですが、
「教育」の中にある「いじめ問題」というものだと、
結びつきを感じてしまいます。

いじめによる自殺報道が落ち着いたとはいえ、いじめ自体が
なくなるとは思えません。

「硫化水素」を自殺に使う生徒は現れているだろうし、
もっと恐ろしいのは、いじめた生徒、傍観者としてのクラスメート、
何もしてくれなかった先生らを標的にした他殺事件です。

アメリカで、学校に怨みを持った生徒が、銃の乱射による
無差別大量殺人事件を起こしても、銃を所持しない我々日本人には
関係のない話で済んでいましたが、そうはいかなくなりました。

簡単に「硫化水素」を作れることが、最近の事件により、
知れ渡ったのです。

教室でそれを発生させたら、全校集会の体育館でそれを発生させたら、
・・・・・・。

だからもっと即効性のあるいじめ対策を、学校関係者にはお願い
したいし、もし「自殺」や「他殺」を本気でかんがえている生徒の人が
いるなら、そこまで追い詰められているなら、その追い詰めたものを
見つめ続けることで、「心の闇」にはまってしまっているなら、
もう見るのはやめていいんじゃないか?と思います。

「学校」を見つめることで、「教室」を見つめることで、
「クラスメート」を見つめることで、追い詰められて
恐ろしいことをするなら、もう学校に行かなくていいと思います。

家族にも、自分がどれだけ追い詰められて、恐ろしいことをしでかすか
分からないことを、正直に打ち明けて、学校に行かないことを
納得してもらいたいです。

もしそれでも家族が学校に行かそうとし、自分の中の恐ろしい
衝動を抑えられそうにないなら、家出しても構わない、
それぐらい私は思います。

中学や高校に行かなくて、20代を迎え、好きな車に乗り、
隣には彼女か彼氏がいて、気の会う仲間とバカ話をして盛り上がる、
その日は天気が良くて、最高の一日が過ぎる。「そういえば、
中学、高校ロクに行かなかったけど」と笑いながら話す日がくる。
学校に行かなくても、家出をしてもそんな日は、ピカピカの
眩しくて楽しい日々は必ずやってきます。
     

でも「自殺」「他殺」は、そうはいきません。
取り返しのつかないことをするなら、学校ごとき行かなくていいんです。

屋上の少女 (180秒)

















読み終えて

2008年05月17日 | weblog
『人はなぜ学歴にこだわるのか』を読み終えて、
かなり言いたい放題のこの本は、痛快さと不愉快さが
入り混じる感想を抱きますが、作者のこの本に対する
「誠実さ」は一貫して感じました。

「一般論で語っている限り、学歴は、決して正体を現さない」と
主張する作者が、中卒の職人を父にもち、自分が早稲田大学に
入学したときの、父親の態度やそれをどう自分が感じたかを
プライバシーを晒してまで語る態度は、「読者に腹を割った」
本気さが伝わります。

とにかく言いたい放題で、「カップリングパーティ」の男性参加者に
求められる「条件」から、世間がきれいごとを言っても、学歴、身長、
年収を問題にしていることや、テレビであるアイドルが、同じグループ
のメンバーに「彼は中卒だから」と言ったあと、CMあけに、司会者が
「ただいま、番組の中で不適切な発言がありました」とわびるコメント
自体が実は、テレビ局の人間が中卒の存在を蔑視しているあらわれと
指摘したりと、なかなかの面白さがある本でした。

気心の知れた仲間同士で、賛成、反対関係なく思ったことをを口にする、
そういうリラックスした気分で読めた本です。






時間差裏口入学

2008年05月17日 | weblog
【『人はなぜ学歴にこだわるのか』(小田嶋隆・著)より】

明治以来の日本が、世界でも例外的な飛躍をとげた背景には、
学歴身分制の成功があったと言ってよい。

近代の日本は、学歴という「一代限りの身分」がドラスティックに
機能した国であり、そのことが階級間移動の比較的自由な、流動性の
高い社会を生んでいたわけだ。

結局、学歴社会は、大筋において、国民の間に健全な競争を促し、
また、全般的な教育水準の向上にも寄与してきたのである。

ちなみに子供の学力は、低年齢であればあるほど、親の教育水準
および経済状態をストレートに反映する。このことはどんな国で
統計を計っても必ず同じ結果になる。

わが国は、受験の低年齢化が進んでいる。
先ほどの統計を援用すれば「親の身分をほぼそのまま反映した
学業成績を重視する傾向」ということである。

こうしてみると〔お受験〕というのは、時間をかけた裏口入学
だな。大学の付属校には、付属校経由で十二年ローンを組む。
この春に慶應幼稚舎に入学したケンイチ君は、十二年後に
めでたく慶應義塾大学に時間差裏口入学を果たす。

私は「学歴は後天的な身分だ」と言ったが、高い身分に
ある者は、その身分を世襲しようとするものである。

この国を活性化した学歴というものが、百年を経て、ついに
システムとしての老齢期を迎え、階級固定の道具となり、
社会的競争の阻害要因になった。



後天的な身分

2008年05月17日 | weblog
【『人はなぜ学歴にこだわるのか』(小田嶋隆・著)より】

江戸時代の身分秩序が崩壊し、代わって現れたのが、
学歴システムによる身分社会の再編成だった。

要は、世襲による固定的な職業選別が機能しなくなった時、
より柔軟で流動性の高い選別システムが用いられるようになった
ということだ。

つまり、学歴は身分の尻尾をひきずっているのだ。
学歴を「後天的な身分」と定義してしまうと
一番すっきりするのかもしれない。







学歴ランキング

2008年05月17日 | weblog
【『人はなぜ学歴にこだわるのか。』(小田嶋隆・著)より】

学歴ランキングは、その序列がおよそ画一的かつ平板であるという
特徴を備えている。しかもその影響力は不当に大きい。
であるから、結果として、学歴は、学歴以外の多様な価値や
ものの見方を圧殺する。

ワインの好みみたいな調子で評価がバラけるなら、こんなに
息苦しいことになっていないだろう。
ではどうして「学歴」のランキングはバラけないのだろう。

だって、日本人のほぼ全員が関わっているこのランキング作成作業で
ある学歴は、「客観的な価値」であるという世評を確立してしまって
いるからだ。
そしてそれは、人々が様々な分野について抱いている「主観的価値観」を
まったく問題にしない影響力を持っているからだ。

世の中には自分の判断に自信が持てない人々がいる。

そういう人々は、世間に流布している学歴ランキングを金科玉条の
如くに尊重する。というよりも、彼らは、他人が決めたランキング
でないと信用できない。

生まれてこの方、自分でランキングを作ることを学ばず(つまり、
自分固有の価値観を持たず)、他人にランキングされることだけに
慣れてきた人々は、結局、他人に押しつけられた価値観の中に
身を置いて自己確認をするほかに生きる術を持たない。

彼らは「客観的な基準」に自らの判断を準拠させようとする。

さてしかし、いま、「客観」と書いたばかりだが、そんなものは
実はこの世界には実在しない。

われわれが客観だと思っているのは、「他人の主観」に過ぎ
なかったりする。でその他人の主観の実態はというと
「世間様の評判」であったりするわけで、その最たるものが、
ブランドとしての学歴だ。

彼らが信じているのは、いわば「他観」である。


集団的自己欺瞞

2008年05月17日 | weblog
【『人はなぜ学歴にこだわるのか。』(小田嶋隆・著)より】

世の人々の多くは反学歴主義者だ。
いや、冗談を言っているのではない。世間の圧倒的多数は、
学歴に対して批判的な意見を抱いている。

ところが、受験戦争が緩和された兆候はまったくないし、
受験戦線の低年齢化は進む一方だ。
どういうことなのだろう。

答えは簡単。
当事者と傍観者の間で、意見が食い違っているからだ。
同じ一人の人間が、当事者として行動する時と、傍観者と
して発言する時で、意見を変えているのです。
学歴偏重の世相を嘆いている人間が、他方では幼児教育に
狂奔しているみたいなことがごく普通に見られるわけですよ。

すると人々は、観光地の混雑を嘆く観光客みたいなもので、
自分が混雑の元凶であるという自覚を欠いているのだろうか。
いや、そんな無邪気な話ではない。
むしろ、欺瞞です。念の入った、集団的自己欺瞞です。

誰もが、子供にはのびのびと育ってほしいと願っている。
が、その一方で、息子が65点を取ってくると簡単に
逆上する。

われわれの考えている「のびのび」は、翻訳してみれば、
「のびのびと子供時代を満喫しつつ、学校のテストでは
100点とまで言わないまでも、85点平均ぐらいの点数を
取って、最終的には一流大学に進んでほしい」
といった程度のもので、甘ったれた楽観以外の何物でも
ないわけだ。

だって、きょうびの小学校は、塾にも通わずにのんびり
やっている野生派のガキが85点平均取れるほど甘くは
ないんだから。

で、「のびのび」と「85点」が両立できない現実に直面
した時、われわれは、自分の息子を進学塾に送り込む
決断をする。

しかも、ここが大事なところなのだが、そうやって小学校
三年生の息子を週四回の進学塾に叩き込んでおきながら、
それでも自分が学歴には冷淡な人間だと考えている。

なぜかって?
だって、オレは息子に100点を取れなんて望んでないから。
まだ三年生なんだし、85点で十分じゃないか・・・・。




人はなぜ学歴にこだわるのか。

2008年05月16日 | weblog
『人はなぜ学歴にこだわるのか。』(小田嶋隆・著)を
読みました。

作者が、自分の主観をあけっぴろげに書いているので、
読んでる側も気楽に、作者の意見に同意したり、反対できる
読みやすい本でした。

その中で面白かったものを紹介します。

読んだ感想

2008年05月11日 | weblog
『チョムスキーの「教育論」』は、それなりに面白かった。
ただ内容のほとんどが「アメリカ批判」なので、その辺は
ながして読みました。

もう一冊「なぜ教育論争は不毛なのか」という本も読みました。
正直何が言いたいのか分からなかった。
インタビュー形式の問答のページの部分が、読んでてつらい。
自慢話を聞かされてるみたいで。
たぶんこの本との相性が最悪なのだろう。
いいことが書かれているのだろうけど、私の頭に入って
こないのだ。

「観念論で論争するから教育論争は不毛なのだ。だから、
データーに基づいて論争しようよ」と言いたいのだと思う。
それはすごく共感できた。
で、その先は?
私が読みたかったのは、データーに基づいた論争の
先にどんな学校や生徒や先生のいるものになっているのか、
というものだった。
その事には書かれていなかった。と思う。
     
また教育に関する本を読みましたら、感想を述べたいと
思います。






「良い生徒」とは?

2008年05月11日 | weblog
【『チョムスキーの「教育論」』より】

「良い生徒」とは、「ただ教育内容を反復し、批判的思考を
放棄し、模範に順応する」生徒であり、
社会秩序に都合のいい教育内容を受け入れる以外、
何もしてはならないのだ。

良い生徒とは、大きな嘘を喜んで無分別に受け入れる
生徒である。

だからこそ、虐げられた非常に多くの生徒たちは、
ドロップアウトすることで抵抗するのだ。
彼等の多くがピンク・フロイドの歌にでてくる歌詞
「教育なんか望んでいない。思想統制なんか望んでいない・・・」
に共鳴するのは多分この理由のためである。

Pink Floyd - Another Brick in the Wall


≪アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール (Another Brick in the Wall) は、1979年に発表されたピンク・フロイドのアルバム『ザ・ウォール』の収録曲。アルバムからの先行シングルとして発売され、英米チャートで第1位を獲得した。作詞・作曲はロジャー・ウォーターズ。

アルバムではPart I~IIIの3部に分けられており、Part IIがシングルとして発売された。いずれもメロディは同じである。シングルカットするにあたって、冒頭に約8秒のイントロを追加し、またエンディングのギターソロをカットしている。1981年に発表したベストアルバム『時空の舞踏』に同曲が収録されているが、収録されたバージョンはスタジオ盤のテイクにシングル盤のイントロを加えたものである。

ピンク・フロイドはヒットシングル不要というポリシーを持っていたが、プロデューサーのボブ・エズリンはアルバムのプロモーションのためにシングルリリースを提案したのだった。しかし当初はバンドに反対にあっている。エズリンは、子供たちにコーラスで歌わせるというアイディアを思いついたところ、バンドの気に入るところとなり、最終的にはシングルリリースに同意することになった。

閉塞的な学校教育への反発を歌ったメッセージ・ソングで、発売当時は物議を醸した。"We don't need no education"(教育なんて必要ない)という一節は有名である。特に、中学生(当時)のコーラスが大々的に取り上げられており、反社会的な歌を歌わせているとして非難の対象になった。レコーディング参加の依頼を持ちかけられた音楽教師が「生徒に音楽産業の現場を見せる絶好の機会」と承諾したものの、実際にスタジオに行き、歌詞の内容を見て青ざめたというエピソードもある。しかし、そうした話題性もあってか、ピンク・フロイド最大のヒットに繋がった。≫