kochikika ノート

旧「こちら某中堅企業企画室」。リーマン話、時事の話、パリーグ話など。ぼちぼちやってます。

『邪魅の雫』を読んでの話

2006-11-01 00:09:16 | 読・観・聴
邪魅の雫

講談社

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家では読まず通勤時のみの読書でしたが、途中日本シリーズのワンセグ帰途もあって、昨日ようやく読了。

一応この人のこのシリーズは一部の短編を除いて読ませてもらっております。当方も京極氏ほどじゃないですけど、妖怪や神社仏閣が好きなものですから。

ただもう最近はミステリ小説はとんとご無沙汰であります。
ですんで、その線でこの本の読書感想を語るのはやめといて、たまたま本作では従来作以上に個人が殺人に至るまでの心の内を描写するシーンも多いこともありますので、その線でいくつか所感なぞ。

よくミステリを語る上で、犯行の手口はもちろん、動機についても合理性が無いと真のミステリとは言えぬ、犯人が合理的思考のできぬサイコなどもってのほかだという考えがあります。

ですが、リアル経済と同様、すべての人間が合理性のみで行動するなんてことはありえないわけで、否―(w、
合理性はあるんだけれども、それは人それぞれであって、他人が理解できるできないに関わらず、あるいはレベルが高かろうが低かろうが、その人の中で合理性のループが完成しておれば、そして他人には理解しにくいその人の合理性を納得しうる筆致で描ければ、充分ミステリの物語の登場人物たりうるわけであります。

本書では、そうした人それぞれの閉ループがいく通りも描かれています。それも殆ど人として魅力を感じないような人物のループが描かれています。
まずその点がいい。本作以前でも描かれてはいたんだけれども、より中心位置に持ってきたのがいい。たくさん出てくるのがいい。

まあ初読時にはこういう描写はうざったいし、そのループを巡るうちに最後の一線を超えるまでの過程が不十分な人物もいたように思えました。
しかしどうなんでしょ、ミステリ上は本来よくないけれど、この際そういうのはどうでもよくて、一線を超えるまでの各人のループ描写が、本書のポイントではなかったかなと思うのですね。
否(w―、取るに足らない人を描かなければ、本書の設定は生きなかったというべきでしょうか(この点、ネタバレですんで以下自粛)。

小説上で「殆ど人として魅力を感じないような人物のループ」が描かれるということは、これは市井に近い人ともいえるわけで、さすがに感情移入とまではいきませんが、人によってはその絶望的なループが身につまされることもあるんじゃなかろうかと。

そうして描かれたループ主の中でも、書中で「莫迦である」とストレートに形容される大鷹という登場人物がいるんですが、この人がなぜ「莫迦である」のかについてのねちっこい描写が、当方にとってはなかなか辛かった。

大鷹は物事の構造を立体的に理解することは不得手だが、記憶力も理解力も人並みにはある。とびきり良くはないけれど、驚く程悪い訳でもない。
ただ、複数の情報を関連付けて論理を構築することが出来ない。
苦手ではなく、出来ない。

知ってはいるが理解は出来ない。だから知らぬ振りをするしかない。情報は混沌としていて、頭の中は空である。

大鷹は予感と予測の区別がない。後悔はするが反省は出来ない。来し方の経験を行く末に活かすことが出来ない。

大鷹にとって学習と云うのは単なる情報量の増大でしかない。学べば学ぶだけ、生きれば生きるだけ情報は増えるが、人としては成長しない。

・・・ああ、これは俺のことだよ。。

正確には、意識している分だけ、ときどきは「出来る」と思う。さすがに。
でもまあ言い方はアレだけど、それは気合が入ってるときだけ。
油断してるときの自分は、「出来ない」。
で、そういうときの自分は、自分でも意識できるくらい、隙だらけになってしまう。
ときどき、その隙がわかってて止められないときがある。

大鷹も物語上では一線を超えてしまうのですが、こういう人間が一線を超える瞬間ってのが、そういう隙だらけの瞬間だとしたら、他人には非合理に映るんでしょうなあと。

・・・まあ最後はわかり辛かったかもしれませんが、己の中で完結してれば良いということで、ひとつ。。





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