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伊予国は愛比売と謂ひ

四国は伊予松山での嫁さんと息子の三人暮らしの日々と気になる出来事を徒然に綴ります。

有馬温泉

2006-08-21 08:56:39 | 御朱印蒐集
今日は、突然有馬温泉に行きたくなったので、神戸電鉄に乗っていってみました。
(そんないい加減な動機でいいんだろうか?)

神戸市の西部から電車で有馬温泉に行くには二通りのコースがあります。
第一は市営地下鉄三宮駅から西神山手線に乗って新神戸そのまま北神急行鉄道で谷上にいって、そこから神戸電鉄で有馬温泉まで。
第二が新開地駅から神戸高速鉄道から神戸電鉄に乗り換えて有馬温泉へ向かうコース。
前者は値段は高いが速達であり、後者は安いが時間がかかります。しかし、後者には「電車が急坂を上っていく」という醍醐味があり、これを捨てるわけには参りません。今回は新開地経由のコースとなりました。

神戸高速の新開地駅ホームから階段を上がると神戸電鉄の新開地駅。古い1000系の鈴蘭台行きが出発を待っていた。その間に、ヒロタのシューアイスを購入。黒大豆を使ったmのと、白桃を使ったものがあったが、黒大豆のほうがおいしい気がする。さて、列車はホームを離れ、湊川へ。新開地が見えそうなぐらいの近さだ。ここでは神戸市営地下鉄と連絡する。湊川駅を出ると列車は地上へ出る。右手に円形校舎のある東山小学校、そして湊川ずい道が見える。列車はこの辺りから急な坂を登り始める。長田駅はそんな急坂の途中にある。さらに列車は登っていく。丸山、鵯越を過ぎ、列車はモーターのうなりをあげ、どんどん登っていく。休止中の菊水山を通過するとようやく登りも終わり、鈴蘭台へ。鈴蘭台は山上に作られた町なのだということが良くわかる。この列車は鈴蘭台止まり。三木方面から来る列車に乗り換えなければならないので、ホームで待つことにしました。

ほどなくして、2000系が登場です。ここからもアップダウンと急カーブの続く鉄路が続きます。谷上では北神急行と連絡。乗り入れている神戸市営地下鉄の列車も見慣れない場所で見るとなんだか違和感大有りです。神鉄六甲を過ぎると、有馬口です。2月の脱線事故を受けて、線路の改良工事が行われています。列車はウッディタウン中央行きなので、またここで乗換え。しばらく待っていると、有馬駅方面から列車がやってきました。列車は1000系のようです。本線から離れ、単線区間に入ってゆきます。うっそうとした森のようなところをゆっくりと走ってゆきます。途中ホームのようなものがありましたが、休止中の駅のようです。そして、トンネルへ。トンネルを抜けると、有馬温泉駅です。

有馬温泉駅は有馬温泉の中心部から少しはなれたところにありますので、しばらく歩かねばなりません。途中、有馬川が見えました。有馬川を過ぎると有馬温泉の繁華街です。バスターミナルへのバスの出入りが激しくてなかなか危険です。またあろうことか、マイカーで来る人もいます。これまた危険。これではおちついて歩くこともままなりません。

バスターミナルを過ぎて左手に曲がると「金の湯」が見えます。ここは公衆浴場でお金を払えば誰でも入浴可能です。鉄道会社のフリー切符にもよく組み込まれています。建物の外には足湯も設置されています。上から階段状になっていて温度が少しずつ違います。湯口はとても熱い!とても入れることは出来ませんでしたが、若いお姉ちゃんたちは平気で長い間入れていました。やっぱりクーラーのかけすぎで冷え症なんでしょうかねえ。さて、足湯で足が軽くなったところで、有馬温泉街の探検です。

まずは一番有名な通りへ。ここは古い家並が続いています。佃煮屋さんや炭酸煎餅のお店が並んでいます。また「有馬筆」と呼ばれる筆を起こすと可愛い豆人形がヒョコリと現れ、寝かせると軸の中に戻るからくりの筆を作っているお店もあります。ちなみにこのからくりは400年前から変わらないそうです。かわいかったので、一本購入。錦糸の模様がきれいで目移りしちゃいました。

昼食はどこにするか迷いましたが、結局は中の坊瑞苑の中にある和食処「猪名野」(いなの)にしました。値段は張りましたが、おいしかったです。特にハモがグッドでした。

細い路地を通っていくと「銀の湯」に着いちゃいました。ここも外湯です。有馬温泉特有の赤い湯ではなく、無色の湯です。六甲山登山からおりてきた人がよく使っているようです。その前を行くと、有馬温泉の源泉の一つ、極楽源泉です。そしてその隣が極楽寺。本尊は阿弥陀如来です。伝承では593年、聖徳太子の開基で、現在の堂宇は1782年に再建されたもの。阪神淡路大震災で庫裏が半壊しましたが、修築中の基礎の下から豊臣秀吉が築造した「湯山御殿」の遺構の一部が発見され、遺構は茶器や瓦などの数多くの出土品とともに神戸市文化財史跡の指定(1997年)を受け、遺構の上に建設された「神戸市立太閤の湯殿館」で1999年より一般公開されています。中を見ましたが、遺構が発掘当時の姿で展示されており、興味深いです。

道を挟んで建つのが、念仏寺。本尊は阿弥陀如来。室町時代(1532年)の創建で豊臣秀吉の正室北政所(ねね)の別邸跡である現在地に移転。本堂は有馬温泉郷最古の建築物で江戸時代前期(1712年)の建立だそうです。チャイムを押しましたが返事はなく、ご朱印を頂くのは断念。

少し行くと、温泉寺があります。本尊は薬師如来です。724年、行基により開かれ、鎌倉時代の仁西を中興の祖とします。1576年に火災で全山焼失したが直ちに北政所によって再建された。 その後再び火災にあい、1582年に現在ある薬師堂が建立された。しかし明治時代初めの廃仏毀釈で、1590年に豊臣秀吉が有馬大茶会を開催したとされる阿弥陀堂も含め、薬師堂以外の堂塔は全て取り壊されてしまいました。その後、廃寺となった旧温泉寺の奥の院であった黄檗宗清涼院が寺籍を継いでいます。境内には資料館「御祖師庵」が設けられ、寺の歴史に関する資料が展示されています。ちょっと見学すると有馬の歴史がわかって面白かったです。

有馬の街は源泉がたくさんあって、湯気が立ち上っています。側溝も温泉が流れているせいか若干赤く色づいています。天神社にある天神源泉の周辺はもう真っ赤になっています。境内に温泉が湧く神社も珍しいでしょうね。

天気が不順で少し雨がぱらつきましたが、何とか持ちこたえました。帰りも神戸電鉄で新開地まで帰りました。ちょっとした小旅行でした。

太山寺(神戸市西区)

2006-08-19 18:56:22 | 御朱印蒐集
神戸市西区の神戸市営地下鉄伊川谷駅から北に行くと、太山寺(たいざんじ)があります。「播州太山寺縁起」によると藤原鎌足の子、定恵和尚の開山、霊亀2年(716)公の孫である宇合(不比等の子)の建立だそうで、藤原氏に縁の寺といえます。南北朝時代には支院四十一ヶ坊・末寺八ヶ寺・末社六ヶ社を持っていましたが、現在は龍象院・成就院・遍照院・安養院・歓喜院の五ヶ坊のみです。本堂は国宝に指定されています。これは神戸市で唯一の国宝の建造物だそうです。

さて、私達は太山寺の近くにある太山寺ラジウム温泉「なでしこの湯」の駐車場に車を置かせてもらう。(「なでしこの湯」を利用する人ならOKなので、あとで使うということにする。)このあたりは昔から温泉地として知られていたのか、古い温泉宿(今は使われているのか?)みたいな建物が散見される。少し2車線の道路を歩くと仁王門がある。室町中期の作。国の重要文化財に指定されている。もともとはどこかにあったのを移築してきたらしい。もともと重層の楼門であったが、上層部を撤去した時に大幅に改築、現在は入母屋造・本瓦葺・棟高8m の八脚門である。仁王門をくぐると境内へ入ることになる。といっても境内に民家があったりする。参道を歩いていくと、左右に塔頭寺院がある。屋根がわらぶきであるのが面白い。庭が名勝に指定されているらしいが公開時期ではないので、見ることは出来なかった。しばらく歩くと階段となり、中門に着く。ここからは300円の拝観料が必要。支払って中に入る。目の前に本堂。右手に三重の塔が見える。これは県指定文化財。貞享5年(1688) の建立とされている。更に行くと川がある。伊川という。これを渡ると奥の院なのだが、かなり荒れている。意を決して渡ってみる。稲荷舎・地蔵堂があるのだが、正直、不気味だ。もっときれいにしてくださーい。
早々に退散して戻ってくる。一段上には観音堂がある。観音堂なのに、鳥居。神仏混合の名残かな。羅漢堂、釈迦堂を巡り、本堂裏手を通って、阿弥陀堂へ。貞享五年(1688)に再建されたもので、阿弥陀如来坐像(重要文化財・ 鎌倉初期)は、時代は百五十年ほど違うが、宇治の平等院 鳳凰堂にある定朝作の阿弥陀如来坐像とほぼ同じ大きさ (約2.74m)・様式である。確かにどこかで見たようなお姿だと思ったが、そういうことなのか。最後に本堂へ。弘永仁年間(1293~99)再建されたものという。 規模は柱真々間で正面20.82m、側面17.76mと大きい。仏教の大衆化に伴う新しい仏殿の形式が成立した初期の例としてこの本殿は、極めて貴重な遺構だそうだ。近年に修理を行い、創建当時の赤い姿にしたとのこと。内部も赤い。本堂から見る景色は緑豊かで「これが神戸市?」という感じだ。神戸市も中心部を外れれば単なる田舎なのだ。それも鉄道沿線でなければ開発以前の姿が残っている。
最後に、受付のおばちゃんからご朱印をいただく。お寺の人は皆きれいに書きなはる。


太山寺ご朱印

帰りには「なでしこの湯」の野菜直売所で野菜を購入。以前いたところではこういったところがいっぱいあったが、神戸にはない。(田舎に行けばあるみたいだが)久しぶりにいけてよかった。

長田神社

2006-08-15 10:53:26 | 御朱印蒐集
 長田神社へ参拝。長田神社は我が家から歩いていけるほど近いので何度も参拝しているが今回は御朱印を頂くために参拝。
 神戸市営地下鉄西神山手線の長田・長田神社前駅から地上に出ると、長田神社前商店街の入り口が見える。赤い鳥居が目立つ。ここは道路が変な感じで交差していて知らない人が運転すると思わぬ方向にいかされてしまうのではないかと思うような交差点だ。(実際、私もやってしまったことがある。)



 さて、長田神社へはこの長田神社前商店街を通ってゆく。商店街といっても歩行者天国ではない。ダイエーをやり過ごすと道路とは分かれていよいよ境内へ。



赤鳥居をくぐると広場のようになっている。手水と社務所、車庫に使われているらしい絵馬堂がある。ここの境内の楠は神戸市の天然記念物に指定されているようだ。社務所でご朱印帳を預け、さらに奥へ。



 境内を二分する垣を通ると拝殿が見える。1995年の阪神淡路大震災で倒壊こそしなかったものの、大きな被害を受けた。2000年に復旧。拝殿は柱の朱色が印象的。



ちょうど若い神職が祈祷の所作の練習をしていた。拝殿と本殿の周りにはいくつかの摂社、末社があるので、順次参拝する。
 拝殿から左に向くと、出雲社、蛭子社がある。その奥に楠宮稲荷社。



ここは腫物(できもの)でも特に痔疾(じのびょうき)に効き目があるとして知られるが、何故そうなったのかはわからない。ご神木の楠が生い茂り、ここだけ涼しい。本殿の裏を周り東側には月読社と松尾社。(この他、本殿瑞垣内に天照皇大御神社と八幡社があるが見えない。)
 社務所に戻り、ご朱印帳をもらう。


長田神社ご朱印

今度は西の参道を通って戻る。



途中の橋が八雲橋。もともとこのあたりは海岸近くで、長田神社は苅藻川の河口近くの川中の中洲に建っていたのだそうだ。神社の由緒では神功皇后摂政元年春2月、皇后新羅より御帰還の途中、紀淡海峡を抜けて難波の港を目指していたが、武庫の水門あたりで同じところをぐるぐる回るようになり、祈祷したところ、天照大神のお告げがあった。「私の荒魂をムコの港の広田にまつり、この国の神々を生田、長田、住吉にまつるのだ。」とのお告げを受けて、長田には山背根子の女・長媛(ながひめ)を奉仕者として事代主命を祀り長田神社を創祀されたとのこと。(若干違う話もあるが)今では埋め立てが進んで、海は遠くなってしまったが、ここも神功皇后伝説の土地なのだ。そんなことを思いながら帰途についた。

岩屋神社(明石市)

2006-08-05 19:47:03 | 御朱印蒐集
買い物の途中、明石までドライブ。今日はいつもの国道2号線ではなく、久しぶりに山側の県道21号神戸明石線を通ってみる。須磨寺の裏手はまだ空いていたが、マイカルが近づくにつれ、車が混んで来た。やはり、この道も渋滞路線か。神戸・明石間で空いた道はないのかな。名谷から県道486号線で垂水まで下りる。うーん、意味なかった。そこからは国道2号線。明石海峡大橋をくぐって、国道28号線へ。タコフェリーは今日は大賑わいで、「1時間半待ち」なのだそうだ。岩屋神社はフェリーのりばよりも西側、高速船乗り場のさらに西側にある。


岩屋神社


ご朱印

岩屋神社は社伝によると、143年(成務天皇13年)6月15日に成務天皇の勅命により、淡路島の岩屋より神を勧請して創建されたと伝えられる。(現在も淡路島の岩屋港近くに岩屋神社がある)同年夏に当地の子供に淡路島の岩屋の神が懸かり、当地に勧請するようお告げがあり、勧請したという伝承もある。1825年(文政8年)に渡辺容信によって著された淡路地誌『淡路草』にも淡路・石屋神社の御分霊を明石・岩屋神社に遷したことが記されている。明石浦の名主・前浜六人衆が新しい舟を仕立てて淡路から神を遷す際、海がたいへん荒れて舟を明石浦の浜に着けることができず、西方の林崎前の赤石(明石の名の起源)へ舟を着け、海難防止と豊漁を祈った。明け方には海も静まり、現在の地に無事神様をお迎えすることが出来たが、このとき地元の住民が沖まで泳いで出迎え、「ご神体と一緒に乗船するのは畏れ多い」と泳ぎながら舟を押して岩屋の地に着いたという。創建以来、稲爪神社と並んで東播磨地域の古大社として人々の厚い崇拝を受けた。特に明石城の産土神として尊ばれ、例年藩主自らが岩屋神社を参拝していたという。

実際にいってみるとこじんまりとした神社で、ちょうど初宮参りかなにかの御祈祷をやっていた。

このあと、県道716号線を西へ走る。適当なところで曲がるべきだったが、どこで曲がるかわからず、結局林崎海岸あたりまで行ってしまった。(奇しくも岩屋神社の御祭神が着いた浜辺である)そこからちょっと引き返し、西明石を経由して国道175号線を経て、西神中央へ。そしてようやく買い物の目的地、西神南駅のセリオに着いたのだった。

吉田神社

2006-08-04 23:54:04 | 御朱印蒐集
 京都大学の東側にある吉田山に鎮座するのが吉田神社。京都大学の正門からでも赤い鳥居が見えます。赤い鳥居から砂利の参道をいくと、祖霊社と末社の今宮社があります。祖霊社はその神社に縁の人々を祀るところです。今宮社は吉田町の産土神だそうです。参道の階段下にある手水舎では大学生のサークルがなにやら歌の練習をしていました。手水鉢の上に物を置いていろいりやっていましたが、参拝者の邪魔になるのであまり感心できることではないなと思います。
 さて、参道を登ると大きな杉の木と赤い柵が見えてきます。その奥が本宮です。清和天皇貞観元年4月(西暦859年)中納言藤原山蔭卿(ふじはらやまかげきょう)が春日の四神を勧請(かんじょう)し平安京の鎮守神として吉田山に創建したのが吉田神社の始まりです。だからでしょうか、ここの本殿は春日造りの本殿が4棟並だ春日大社と同じ形です。祭神は第一殿が建御賀豆知命(たけみかづちのみこと)、第二殿が 伊波比主命(いはいぬしのみこと)、第三殿が天之子八根命(あめのこやねのみこと)、第四殿が比売神(ひめがみ)となっています。社務所で御朱印をいただき、広い境内を参拝してみます。
 本宮の東側の高台には摂社の神楽岡社があります。神楽岡地主の神、又雷除の神として崇敬厚く、同町の氏神です。その南側にはこれも摂社の若宮社。初め本社の第二殿と第三殿の間に無社殿で祭られてあったのを、後醍醐天皇延元元年、吉田兼錣(かねひろ)が社殿を建て慶安元年(西暦1648年)現地に造営、明治10年摂社に定められたものです。
 本宮を出てすぐのところのえらく長い階段を上っていくと、末社の神龍社があります。吉田神道の創始者である卜部(吉田)兼倶朝臣を祀っています。明治13年末社に定められました。本宮から斎場所へ行く途中から枝分かれすると菓祖神社があります。京都菓子業界で作られた菓祖神社創建奉賛会が昭和32年11月11日兵庫県中島神社、和歌山県橘本神社、奈良県林神社の祭神田道間守命(たぢまもりのみこと)と林浄因命(はやしじょういんのみこと)を鎮祭したものです。林の中で赤い垣に囲まれた姿が目立ちます。道を戻り、斎場所のほうへ行く道の途中には藤原山蔭卿を祀る山蔭神社があります。山蔭卿は清和天皇貞観元年(西暦845年)奈良春日の大神を勧請し平安京鎮護の神として吉田神社を創建され、又吾が国に於いてあらゆる食物を始めて調理調味づけた始祖なのだそうです。小さいですが赤い社殿はきれいでした。坂を登りきると末社の斎場所大元宮です。これは左京室町に在った社を吉田兼倶が後土御門天皇文明16年(西暦1484年)に吉田神道の根元殿堂として現地に造営したものです。八角形の本殿に六角の後房を付けた、極めて特異な形状をしており、重要文化財です。祭神は天神地祇八百萬神(あまつかみくにつかみやおよろづのかみ)。内院は東神明社には天照皇大神、西神明社には豊宇氣比売神、東西諸神社には式内神三千百三十二座が祀られています。ちなみに内院は修復工事中でした。毎年節分には特殊神事が行われ多くの厄除祈願の参拝者でにぎわうのだそうです。道を挟んで反対側には末社の三社社があります。吉田家の邸内に鎮祭してあったのを仁孝天皇弘化元年(西暦1844年)現今の地に遷座しました。
 さて、道を跨ぐ形で赤鳥居があります。竹中稲荷社のものです。さらに坂を上っていくと赤鳥居がずらりと並んだ参道があります。ちなみに反対側は黒住教の創始者を祀る宗忠神社です。参道を行くと古い祠が二つあります。竹中稲荷社と天満宮社です。これらの周辺には小さな祠などがいっぱいあります。「○●明神」と彫られた岩もいっぱいありました。木が生い茂っていて暗く、昼間でもちょっと怖いです。在原業平の墓もあるそうですが、わかりませんでした。帰りは怖いながらも、もと来た道を通らずに、山の小道を通って本宮へ戻りました。まさか、稲荷社の裏がこんな怖いとは思わなかったなあ。



上御霊神社

2006-08-04 23:53:46 | 御朱印蒐集
上御霊神社は京都市交通局の地下鉄烏丸線鞍馬口駅を出て東に行ったところにある。上御霊通を東に行くと、楼門と鳥居が見える。


鳥居と楼門

この神社には政治的に弾圧され非業の死を遂げた人々の霊が祀られている。本殿には以下の八座が祀られている。
 崇道天皇 (光仁天皇第二皇子 早良親王)
 井上大皇后 (聖武天皇第一皇女 光仁天皇ノ皇后)
 他戸親王 (光仁天皇第四皇子)
 藤原大夫人 (藤原吉子命)
 橘 大夫 (橘逸勢命)
 文 大夫 (文屋宮田麿命)
 火雷神 (以上六所ノ荒魂)
 吉備大臣 (吉備真備命)
なるほど、非業の死を遂げ、御霊とされた人々の名前がずらりと並んでいる。


拝殿

1467年正月には、失脚した管領の畠山政長と畠山義就との私闘が境内で行われる。御霊合戦は翌年勃発の応仁の乱の前哨戦となる。鳥居のそばに「応仁の乱勃発地」の碑がある。


「応仁の乱勃発地」の碑

楼門を入ると境内には碑がいくつかある。一番有名なのは松尾芭蕉のそれだろう。舞殿を前にして西向きに拝殿、本殿が建つ。北側には多数の境内社、東側には神明神社、南側に福寿稲荷神社が鎮座している。境内南側は広く開いており、絵馬堂と神輿倉庫が建っている。絵馬堂は工事関係者や営業途中のサラリーマン(私もか)、配達中の郵便局員さんのお昼を摂る場所としてうってつけのようで、何人かお弁当を広げている姿を見た。


上御霊神社ご朱印

仕事で京都へ

2006-06-23 23:05:11 | 御朱印蒐集
 今日は仕事で京都へ行くことになった。
 目的は京都国際会館で行われている国際生化学会・分子生物化学会である。

 いつもより若干早い8時前15分に出発。いつもは地下鉄だが、今日は山陽電車に乗る。新開地で阪急に乗り換え。通勤特急で十三へ。京都線に乗り換え快速特急(訳わからん名前やな)で茨木まで行き、そこから普通で大山崎まで行く。ここで先輩の家へ株分けしておいたペラルゴニュームを届ける。花期が過ぎて花がほとんど落ちてしまっていて、申し訳なかったが、致し方ない。今度はJR山崎駅から普通電車で京都駅まで行く。京都駅からは京都市交通局地下鉄烏丸線に乗り換え。終点の国際会館駅まで行く。駅から京都国際会館までは連絡通路を通っていくわけだが、これがなまら遠い。新神戸駅の地下鉄とJR駅の連絡通路も長いが、それにも増して長い。なんとか到着したが、今度は今日の仕事先の企業展示ブースのあるイベントホールへ入れない。というか会場自体の入り口で止められてしまった。やむをえず、会場内に電話して迎えに来てもらい、なんとか入場。
 今回は代理店の一部を借りての営業。ブースに来る人が自分の会社の目当てかどうかわからないので、なかなか厳しい。しかも最終日。来る人も比較的少なかった。
 お昼休みは腰を痛めている嫁さんのために足腰の神社である「護王神社」に参拝。場所は京都御所蛤御門の前である。足腰平癒祈願のお守りをいただく。丁度、夏越の茅の輪が出来ていた。ここは和気清麻呂を祀る神社なので、狛犬ではなく狛猪である。和気清麻呂は弓削道鏡により失脚させられ、宇佐へ配流される際に猪によって難事を救われたとの伝説による。

  

 また近くの京都御苑内には、「白雲神社」と「宗像神社」がある。白雲神社は西園寺家の跡地にあり、西園寺家の家業が琵琶であったことから弁財天を祀る。御所の祈祷所であったこともあり、建物のつくりがお寺のようで興味深い。境内は大きな木々に囲まれていたが、面白いのが門扉の柱が西洋風なことである。そういえば西園寺といえば元老西園寺公望。彼が作った私塾「立命館」はここが発祥の地で、それが後の立命館大学となっている。

 

 宗像神社は延暦14年(平安京創立の翌年、すなわち「鳴くよ(794年)ウグイス平安京」の翌年)に後の太政大臣藤原冬嗣公が桓武天皇の命によって、皇居鎮護の神として祀られたのがはじまり。この境内には京都観光神社なるものもある。境内の北側にある楠木は樹齢が600年から400年のもので、京都では一番古いものだそうだ。

 

 さて、午後「もたちんぼ」である。最後には足が痛くなってしまった。他社のブースもいろいろ見て回ったが、今回はGEがえらく力を入れていたな。しかし、企業展示って何度も見るとどこもあまり変わり映えしないなと思う。担当の人もほとんど同じだし、企画も「いつものでいきますか」みたいな感じなのだろうかなあ。

初詣(その2)

2006-01-03 17:34:28 | 御朱印蒐集
山陽電車の「新春フリーキップ」が今日まで。おまけの縁起物をもらってないところがあるので、行くことにしました。ついでに湊川神社の大楠公の墓のご朱印ももらいたかったので、湊川神社に再チャレンジ。


大楠公墓所(後日撮影)


大楠公墓所ご朱印

高速神戸駅で降りて、出口を出ると目の前に湊川神社の神門。相変わらず人は多いが、元日ほどではない。楠公の墓をお参りして御朱印を頂く。湊川神社は楠木正成公(楠公)が湊川の戦で敗れ、自決した地に建てられた神社である。創建は明治時代。このように「人をまつる」「政府がつくった」神社は珍しい。しかも境内にお墓まであるのはここだけだろう。そういうことでこの墓所の御朱印が欲しかったのだ。

さて、高速神戸から山陽電車の須磨寺へ。ここから南へゆくと綱敷天満宮である。綱敷天満宮は大宰府へ送られる菅原道真公が休憩する際に綱を敷いたところに座って休憩したといういわれからくるもので、各地に存在する。ここもその一つ。
ここで、おまけの縁起物「干支おまもり」をもらった。

今度は須磨寺駅を越えて北へあるく。須磨寺がある。ここは886年に光孝天皇の勅願寺として聞鏡上人が創建した。源平合戦ゆかりの寺でもある。ここでは「箸」を頂いた。こちらでも御朱印を頂いた。


須磨寺本堂


須磨寺ご朱印

もう一つぐらいどこか参拝しようかと思ったが、時間がなく断念。
元は取れてないなあ、これじゃ。


坐摩神社と少彦名神社

2005-11-17 13:40:27 | 御朱印蒐集
今日は大阪へ出張がありまして、これまでいけていなかった「坐摩(いかすり)神社」と「少彦名(すくなひこな)神社」に参拝しました。

坐摩神社は大阪市営地下鉄御堂筋線「本町」から15番出口を出てちょっと南側にあります。船場のビルの谷間という印象もありますが、境内は静かでよかったです。五柱の御祭神・生井神・福井神・綱長井神・波比岐神・阿須波神を総称して坐摩神といいますが、これらの神を祀っています。神功皇后がこの神社に安産を祈り、生まれたのが応神天皇であると伝えられます。もともとは、天満橋の南詰の辺りに鎮座していたのですが、天正11(1583)年、豊臣秀吉が大坂城を築くため、現在の地に移されました。古くから安産、家庭守護、旅行安全の神として知られています。境内には陶器神社というのがあります。かつての西横堀川に多かった陶器問屋の守護神といわれます。また、繊維神社というのもあります。


坐摩神社拝殿


坐摩神社ご朱印

本町から中央線で堺筋六丁目、さらに堺筋線北浜まで移動。6番出口からちょっと南へ移動し、道修町(どしょうまち)の通りを西へ少し行くと少彦名神社があります。といっても、それこそビルの隙間で、「くすりの博物館」の看板がなければ見落としてしまいそうです。

22日と23日は少彦名神社のお祭り「神農さん」があり、すでにその準備が進んでいました。そのあわただしい中、御朱印を頂きました。さて、狭い参道を進んでいくと、ひっそりと小さな社が現れます。社の前後には大きな樟の木が茂っていて、ここだけ落ち着いた雰囲気です、というのが普段の姿なのですが、今日はお祭りの準備で人もいっぱいいてにぎやかでした。日本の薬祖神である少彦名命(すくなひこなのみこと)とともに、中国で医薬の神様である神農氏(しんのうし)をお祀りしていることから、神農さん(しんのうさん)と親しまれ健康を祈願する参拝客が絶えません。道修町は今でも製薬メーカーの多い町で、それらの会社の人も結構頻繁にお参りしているようです。


少彦名神社


少彦名神社ご朱印


わかひるめ餅

2005-11-09 11:01:06 | 御朱印蒐集
御朱印とは関係ないけど、生田神社御用達の「わかひるめ餅」のご紹介。
以前、ブログでも書いた新長田の和菓子店、幸福堂さん(本店は神戸駅前にある)が販売している「わかひるめ餅」。「わかひるめ」とは生田神社の祭神の名「稚日女尊(わかひるめのみこと)」に由来します。その意味は稚く瑞々しい日の女神様ということで、天照皇大神の御幼名とも伝えられています。
さて、問題の餅ですが、中は柚子餡です。そとは大福の生地のような感じでしょうか。切ると、黄色い餡がちょうど燦々と輝く朝日のようにも見えます。味も柚子の香りがしておいしいです。お茶請けにもちょうどいい一品だと思います。