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伊予国は愛比売と謂ひ

四国は伊予松山での嫁さんと息子の三人暮らしの日々と気になる出来事を徒然に綴ります。

三津厳島神社へ

2022-04-12 16:08:38 | 御朱印蒐集

今日は、三津厳島神社を参拝。ソメイヨシノは既に葉桜になっています。

花手水は「始まりとエール贈り」。ニュウサイラン、孔雀草、ミニバラ、アカシア、チューリップです。

そして天満宮の手水にはクリスマスローズ。

今月の特別御朱印は、Luminaere 萩森美菜さんのアルコールインクアートだそうです。耐水紙の上にアルコールインクを垂らし、その上にアルコールを垂らした後、ドライヤーの風を使って動きの中で独特の模様が生まれるという幻想的で自由なアートだそうです。桜をイメージした春らしいデザインです。

ここ最近、春らしい良い天気が続いています。このまま、夏に突入??


文月特別御朱印(三津厳島神社)

2021-07-07 23:15:41 | 御朱印蒐集

今日は七月七日、七夕です。三津厳島神社ではこの時期、夏詣でというのをしております。

夏らしく、 山門に風鈴や風車が飾られていて、気持ちのいい音が響いています。

夏らしいといえば、花手水。今月は、

先月と趣が少し変わっていますね。夏越祭が終わったので、茅の輪がなくなって、ユリが追加されています。


厳島神社の夏越祭

2021-06-30 15:50:23 | 御朱印蒐集

厳島神社では昨年から新型コロナ感染症への対策として6月26日から30日までを夏越祭としていて、今日は最終日です。

神門のところに、茅の輪があります。写真では写っていませんけど、ひっきりなしに参拝の方がこられていました。

花手水。いつもきれいにしてますよね。

もうひとつの手水鉢。こちらはシンプルに布袋葵。


雄郡神社の夏越祭

2021-06-30 15:42:31 | 御朱印蒐集

6月30日は夏越祭です。各地の神社にも茅の輪が作られて、健康などのお願いをしながら茅の輪くぐりをする参拝者を見かけます。雄郡神社はそんなに有名ではないと思うのですが、夏越祭では露店も出るし、神社も夏越祭のお札が販売されていて、力が入っています。御朱印もちょっと凝ったものになっていますよ。(まだスキャンできてないけど)


初詣

2021-01-05 19:56:23 | 御朱印蒐集

今年は、新型コロナ感染症の拡大を防ぐため、初詣も分散で行うよう、自治体から要請がありました。私も三が日は避けて、会社が始まってから、三津厳島神社へ月参りを兼ねていくことにしました。三が日はそれなりの人出だったようですが、さすがに平日はいないだろうと思いましたが、それでもボツボツと参拝の方がおられました。

 

おなじみになってきた花手水。今回は、三番町にある花乃真央というお花屋さんの作品のようです。

  

御朱印は、厳島神社と寿老人の見開き限定御朱印。大洲和紙に金箔貼りの技法であるギルティング加工がされたものだそうです。


熱田神宮

2010-12-01 23:24:38 | 御朱印蒐集
名古屋にせっかく来たので、最後は熱田神宮に参拝することにしました。


一の鳥居

熱田神宮は祭神を熱田大神(あつたのおおかみ)とし、三種の神器の一つである草薙剣(くさなぎのつるぎ。天叢雲剣)を神体としている神社です。相殿に天照大神(あまてらすおおみかみ)、素盞嗚尊(すさのおのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、宮簀媛命(みやすひめのみこと)、建稲種命(たけいなだねのみこと)を祀っていて、伊勢神宮の次に社格の高い神社とされています。西暦113年(景行天皇43年)創建とされ、2013年(平成25年)に創祀1900年を迎えます。

日本武尊のお話は小さい頃、本で読みました。父王に疎まれ都から遠ざけるために熊襲退治など辺境制圧を何度もやらされ、最後は伊吹山の神の祟りにあって死んでしまい、白鳥になって飛び去るという話は子供ながらによく覚えています。


二の鳥居

僕の中で熱田神宮と言えば、織田信長が今川義元を討った桶狭間の戦いへ赴く際、戦勝祈願をした神社であるという印象が強いです。織田信長はその後、合戦後、信長は勝利の御礼として塀を築いており、今でも信長塀として一部が現存しています。


信長塀

本宮は神明造り。伊勢神宮の古材を利用し戦後建てられたものです。
朝からたくさんの人が参拝していました。
神社にお参りするのはなかなか気持ちがいいものです。


本宮

帰りは名古屋からJRにて帰りました。6時間ぐらいかかったので、少し疲れました。
途中、国土交通省の幹線鉄道動態調査に遭いましたが、たまにしか乗らない人が答えて大丈夫?なんて思いました。


明治神宮と花園神社

2009-03-02 21:52:37 | 御朱印蒐集
原宿駅を降りて右にゆくと神宮橋があります。それを渡ると明治神宮。広い境内を覆う森は椎や樫、楠が多く、神社にありがちな杉や檜が少ないです。意外ですね。
この森は常磐の森と呼ばれ、神宮御鎮座にあたり、全国から献木されたおよそ10万本、365種の人工林で、面積は70万平方メートルあるそうです。

明治神宮は明治天皇と昭憲皇太后をお祀りする神社で、大正9年11月1日(1920年)に両御祭神と特にゆかりの深い、代々木の地に御鎮座しました。神社のある内苑を中心に、聖徳記念絵画館を始め多くのスポーツ施設を持つ外苑と明治記念館とからなっています。初詣は例年日本一の参拝者数を集める神社としても知られます。そのほか、大相撲横綱土俵入りが行われることでも知られます。

明治神宮公式サイト


原宿から山手線で新宿へ移動。新宿駅から東へ10分ほど歩くと花園神社に到着です。花園神社は、徳川家康の江戸開府(1603)以前から新宿の総鎮守として重要な位置を占めていました。徳川氏が武蔵野国に入った1590年より前に、大和吉野山より勧請されたとされています。花園神社は寛永年代(1624~1644)までは現在の場所より約250メートル南、今の伊勢丹デパートの付近にありました。しかし、寛政年代に朝倉筑後守という旗本がこの周辺に下屋敷を拝領したため、社地は朝倉氏の下屋敷の中に囲い込まれてしまったのです。そこで幕府に訴えたところ、現在の場所を拝領することになりました。その場所は、徳川御三家(将軍家に次いで格の高い尾張藩・紀州藩・水戸藩)筆頭の尾張藩下屋敷の庭の一部で、たくさんの花が咲き乱れていたそうです。この美しい花園の跡に移転したので花園稲荷神社と呼ばれたのが社名の由来とされています。

花園神社公式サイト

安陪清明神社と阿倍王子神社

2008-09-03 20:22:52 | 御朱印蒐集
今日も大阪へ講演会を聴きに出張しました。それまで時間があったので安倍清明神社と阿倍王子神社を参拝しました。

安倍清明神社と阿倍王子神社がある天下茶屋へは天王寺から阪堺電気軌道に乗ります。阪堺電気軌道は路面電車部分と専用軌道の部分が入り組んだ路線で、伊予鉄にも少し似ているかもしれません。

雑踏のような天王寺駅前を出ると阪神高速の高架下を通過し、松虫駅を過ぎたあたりで専用軌道に入ります。そして次が東天下茶屋です。


東天下茶屋

東天下茶屋には小さいながら商店街があります。神社へ行くにはそちらへ歩いてゆきます。神社は見えませんが、看板があるので迷うことはないと思います。


安倍清明神社

しばらく行くと安倍清明神社です。ここが陰陽師で有名な安倍清明の生誕地と言われています。安倍晴明は、安倍氏の伝える系図によると、大膳大夫の官にある下級貴族安倍益材(あべのますき)の子として摂津国阿倍野(現・大阪市阿倍野区)に生まれました(奈良県桜井市安倍を生誕の地とする伝承もある)。阿倍仲麻呂の子孫を称するが、系図では竹取物語にもその名が登場する右大臣阿倍御主人の直系の子孫であるという説が有力です。生年は定かではありませんが、寛弘2年9月(1005年)に85歳で亡くなったと記録されていることから逆算して延喜21年(921年)生まれと推定されます。

『葛乃葉(くずのは)伝説』によると、晴明の父は大阪市阿倍野区阿倍野の出身とされ、

「いまから千年以上昔、阿倍野に安倍保名(あべのやすな)という男が住んでいました。あるとき、和泉(いずみ)の信田明神(しのだみょうじん)にお参りをすませて帰ろうとした保名の元へ、狩りで追われた白狐が逃げてきて、これをかくまってあげました。
その後、白狐は女の人になって、保名のところへ来ます。名前は葛乃葉と名乗りました。ふたりは結婚して阿部神社の近くに住み、やがて子供が生まれ、安倍童子(あべのどうじ・晴明の幼名)と名付けました。」

とあります。狐は古来から、霊力を持った動物として崇められており、白狐であった母親を持つ晴明は、天才陰陽師として君臨することになります。安倍晴明神社に伝わる『安倍晴明宮御社伝書』には、安倍晴明が亡くなったことを惜しんだ上皇が、生誕の地に晴明を祭らせることを晴明の子孫に命じ、亡くなって二年後の寛弘四年(1007年)に完成したのが、安倍晴明神社であると記載されています。


本殿

境内には生誕の地を示す石碑や産湯井の跡などもありますが、やはり占いの受付をしているところが、清明関係の神社らしいところでしょうか。ただし、小さな神社で、次にゆく阿倍王子神社の末社であり、いつも神職がいるとは限りません。僕の時もいませんでしたので、ご朱印はそちらでもらうことになりました。


熊野街道

安倍清明神社の目の前を通る道は「熊野街道」といい、熊野への参拝の道でした。それを南へ50Mほどゆくと阿倍王子神社があります。王子とは参詣途上で儀礼を行う場所で、主たる儀礼は奉幣と経供養(般若心経などを読経する)ということで、神仏混淆的であったといいます。最盛期には100ほどありましたが、その数を減らし、現在残っているものでは、この阿倍王子神社が一番最初となるそうです。ちなみに先日行った堀越神社の境内にも王子がありました。


阿倍王子神社


拝殿

こちらはさすがに大きな神社でした。楠木の保存木がいくつかあり、結構鬱蒼としていました。平日でしたが、ひっきりなしに参拝者があり、そのほとんどが安倍清明神社を目的としていたようで、いまだに清明の人気の高さを感じさせられました。


堀越神社

2008-08-25 22:56:56 | 御朱印蒐集
講演会まで時間があったので、大阪市天王寺区茶臼山町にある堀越神社(ほりこしじんじゃ)に行ってみました。

聖徳太子が四天王寺を創建した際、崇峻天皇を祭神として茶臼山の地に社殿を造営したのが最初と言われます。788年(延暦7年)和気清麻呂が、大和川の水害を除くため、摂津・河内両国の境に河を掘って堤を築き、平野川を茶臼山の南に導こうとしましたが、清麻呂の死によって完成せず、神社の南側に在った堀は、明治まで残っていて、その堀を渡って参詣したのが社名の由来だといわれています。また、古くから「一生に一度の願いを聞いてくださる」と、尊崇を集めています。

電車で行こうと思うと天王寺駅から谷町筋を北に15分ほど歩きます。境内は樹木が多く、閑静な雰囲気です。


境内入口


拝殿

茶臼山は大坂夏の陣では徳川家康が、大坂夏の陣では真田幸村が陣を張ったところです。大坂夏の陣では徳川家康が茶臼山稲荷に危機を救われたことから、家康の信仰が厚かったと言われています。大坂夏の陣の後、現在の処に祀られるようになりました。徳川時代、大阪城代が新たに任に就くと、茶臼山の家康陣所の跡に敬意を表するを例としましたが、その都度堀越神社に詣で幣帛(へいはく)を奉り、燈籠(とうろう)を献じ、盛んに礼典に尽くしたと伝えられています。


茶臼山稲荷神社

また、境内には平安時代に「蟻の熊野詣」といわれるほど賑わった熊野詣の出発点であった「熊野第一王子之宮」が合祀されています。(元は上町台地の北の渡辺津(現在の天満辺り)に在った。)


熊野第一王子之宮

狭い境内ながら、いろいろ面白いものがあってよかったです。まだ天王寺周辺にはいろいろとあるようなので、また行ってみたいと思います。

堀越神社HP

遍照院(今治市菊間町)

2008-07-21 17:32:55 | 御朱印蒐集
今治へ行く途中、今治市菊間町にある遍照院に寄ってみました。国道196号線沿いの菊間港そばにある遍照院は「やくよけ大師」として知られています。弘仁6年(815年)、真言宗の御開祖である弘法大師が四国御巡錫の折、自らの42歳の厄除けと末代緒人厄除けのために、自身の像をきざみ、もってここに本尊として安置し、厄除けの秘法を残されたと伝えられます。
毎年節分の日には厄除けの行事が催されます。瓦の特産地で鬼瓦も生産する菊間町では、豆まきの掛け声は「福は内、鬼は外」ではなく「福は内、鬼も内」です。また、その年の厄年の男女がわらじを履いて厄を脱ぎ、福を授かる「わらじ祈祷」や、41歳の厄男たちによって大鬼瓦の御輿がかつがれ境内を練り歩きます。(普段この大鬼瓦は海側の門の左右に据えられています。)


境内


山門
写真ではわかりませんが、門の内部に鐘が吊られています。


本堂


国道196号線沿い(海側)から境内
こちらの門の内部に大鬼瓦が収められている。


菊間港

僕らが行った日も厄除けをしたいという人がひっきりなしに訪れていました。
結構有名なんですねえ。