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伊予国は愛比売と謂ひ

四国は伊予松山での嫁さんと息子の三人暮らしの日々と気になる出来事を徒然に綴ります。

玉祖神社

2007-03-20 21:24:09 | 御朱印蒐集
玉祖(たまのおや)神社は式内社(名神大社)で、旧社格は国幣中社。周防国一宮である。同市内にある同名の神社三社、および大阪府八尾市にある玉祖神社は当社から勧請を受けたものであり、玉祖神社の総本社である。

延喜式神名帳には「玉祖神社二座」とあるので祭神は二柱ということになる。一柱は玉祖命(たまのおやのみこと)であるが、もう一柱は不詳であり、石凝姥命とする説などがある。玉祖命・石凝姥命ともに日本神話では岩戸隠れの段に初出し、天孫降臨の段では五伴緒として天孫とともに天降った。

玉祖命は玉祖連の祖神とされる。岩戸隠れの際に勾玉を作った神であることから宝石関係者、レンズのことを「玉」ということから眼鏡関係者、水晶を使用することから時計関係者より信仰を集める。

社伝によれば、玉祖命がこの地で亡くなったため、社殿を造営して祀ったのに始まるとされ、附近には玉祖命の墳墓と伝えられる「玉の石屋」がある。平安時代には周防国一宮として崇敬を受け、中世以降も歴代領主から崇敬された。神階は康保元年(964年)に従一位まで昇った。
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山陽自動車道防府西インターチェンジから西に少し行ったところに鎮座。社務所にいっても誰もおられず、「社務所にいないときは宮司宅へ」との張り紙に従って、宮司宅に伺ったところ、神社にいてますよ、とのことで、再び行ってみると、社務所の中から話し声が・・・。行き違いになったらしい。参道から社前にかけては一般の道のようになっているが、きれいに整備されていた。


玉祖神社鳥居


拝殿と本殿

千光寺 (尾道)

2007-03-07 23:44:11 | 御朱印蒐集
ハローワークの認定日の手続きも終わり、単身赴任への準備も、母と妹の手伝いもあって終了した。6日は倉敷のホテルに宿泊し、3人で7日に北九州へ向けて出発。この日は天気が良く、途中、尾道に寄って千光寺に参拝。

福山西ICから国道2号線松永バイパスを通って、尾道へ。
2号線沿いの立体駐車場に車を入れてロープーウェイ乗り場へ。お客は我々3人のみでガイドのお姉さんにちょっと申し訳ない気分。しかし、ロープーウェイからの尾道水道と千光寺公園の眺めはなかなかよかった。

ロープーウェイの山上駅から千光寺へは「文学の道」を下っていくことになる。
道の途中には文学には疎い僕でも知っている林芙美子の放浪記や志賀直哉の暗夜行路の文学碑、また、いろいろな歌人の句碑があり、興味深い。

千光寺は真言宗ということで大師堂もある。ご朱印はここで頂いた。大師堂横の客殿前からは鐘楼があり、その向こうに尾道水道が見えるという尾道を象徴する眺めが望める。ここで写真を撮ればだれでも傑作が撮れそうだ。

本堂は赤堂と呼ばれ、本尊は千手観音。これからの仕事の成功と帰路の安全を祈った。

久しぶりに旅行に出た妹と母は楽しんでもらえたろうか。本当の意味での旅行ではなく「旅行」というのは恥ずかしいのだが、また旅行にいかせてあげれたらなと思う。



最上稲荷

2007-03-04 22:47:30 | 御朱印蒐集
今日は天気が良いので、最上稲荷までドライブとご朱印を頂きにでかけた。参拝は2002年に一度いったから5年ぶりか。岡山のもうしばらくなので今のうちにという気持ちがあって出かけた。

国道2号線バイパスで倉敷の市街地をかわし、マスカットスタジアムの横を通って、岡山へ抜ける道をいく。途中、吉備路へ抜ける道を通って国道180号線へ。国道180号線を総社方向へ走るとJR吉備線備中高松駅付近にたどり着く。このあたりから巨大な鳥居が見えてくる。県道241号線に入るとすぐにその鳥居が立っている。付近では備中高松城跡や豊臣秀吉による水攻めの際築かれた築堤を見ることができる。


大鳥居

岡山空港方向へしばらく走ると到着。1000台収容の広大な駐車場であるが、車のそんなにいないので、参道入り口で車を置く。料金は300円。境内までは仲見世を通っていくことになる。日曜日であったが意外と人出は少ない。正月や節分の後だったからだろうか。

ところで、最上稲荷とは総本山妙教寺と最上稲荷奥の院一乗寺と日蓮宗最上教総本山龍泉寺の総称である。この3社はいまは別の組織になっている。今回私も妙教寺だけが目的である。最上稲荷は、岡山県で唯一明治初年の廃仏毀釈の被害を逃れた所といわれている。よって寺院と神社それぞれの特徴を色濃く残している。総称が稲荷であるし、鳥居も狛犬もある。社殿も神社そのものの形である。一方で、出入りする人はお坊さんであり、読まれるのはお経である。私の中では一応、寺として分類してみた。

山門はインド風の建物。本体である妙教寺は昨年に修理が終わり、きれいな姿に変わっていた。目の前の階段を上ると見えるのが、霊光殿。最上稲荷のシンボル的建物であるが、とにかくデカイ。形は昨日の吉備津神社に似ている。本宮はその右の階段を上ったところにある。以前の本殿(岡山県の重要文化財)が建ち、その周辺を末社が取り囲む形をしていた。熱心な人はこの末社の群れに線香を一本ずつ上げてゆくのである。


霊光殿

今回は本宮脇から稲荷山の中腹にある「お題目岩」と「八畳岩」を目指す。まずは長い石段があり脇には小さな祠が並ぶエリアがある。きれいにされていて、あまり怖い怖い雰囲気ではない。その上に水垢離を行う本瀧と呼ばれるところがある。寺なので荒修行の場所があるのは当然か。これを過ぎ、さらに上ると大きな岩がせり出した下に出る。ここで日蓮宗最上教総本山龍泉寺にいく道と分かれる。ここで石段をさらに上へいくと、大きな岩がせり出したところに出る。このあたりに「お題目岩」がある。よくみればお題目が岩に刻まれている。モーゼの十戒のようではないか。このあたりの祠は痛みが結構来ていて、ちょっと怖いかな。さらに進むと森が切れ尾根を行くようになる。赤い鳥居が連なった独特な雰囲気である。しばらく上ると道が分かれる。右へ行くと奥の院一乗寺への道となり、左へ行くと「八畳岩」へいくことになる。八畳岩は最上さまが降臨したところであり、高松城攻防戦で妙教寺が炎上した際、本尊を避難させたところでもある聖地だが、ドラム缶があったりと整備がされていない印象。大きな岩の下の隙間がお祭りされており、おそらくここがその霊地であろうと思われる。ここからは眼下に足守の様子が一望でき、昼間はいい気分だが、一転、夜ともなると辺りは真闇であったろうから、ここで修行した報恩大師の艱難辛苦は並みではなかったろう。ここまで約20分で到着。

ここから元のコースをたどり本宮へ戻った。膝が笑うかなと思ったが意外となんともない。若干汗をかき、よいハイキングコースだったかなと思う。寺務所で御朱印をいただく。「妙法」の文字が書いてあった。


最上稲荷朱印

吉備津神社(備後)

2007-03-03 22:18:46 | 御朱印蒐集
前出の住吉神社参拝から山陽道を走って三井三原ICで国道486号線へ。田舎道を快適にドライブ。山里という雰囲気がなかなか良い。府中市に入り市街地に入っていく。その先が目的の新市町である。新市駅前から県道26号線に入る。ちょっといくと右手に池が見えた。吉備津神社の御池である。左手に細い路地があり、その先に吉備津神社の鳥居が見えた。恐る恐る車を路地に入れ、鳥居と一つ目の随身門をくぐらせる。広い広場のような駐車場に止めてこれからは歩きである。なお、広場には大公孫樹がありこれは天然記念物である。

参道の階段を上ると二つ目の随身門。随身門が二つある神社は非常に珍しいとのこと。神楽殿を通りさらに階段を上ると拝殿。これは慶安元年(1648)福山藩主・水野勝成が旧規模にならって社殿を造営したもので、国の重要文化財。境内には吉備津彦ゆかりの十二神を祀る十二神社などの摂社のほか多数の末社がある。面白いのは現在の境内の外にも末社がいくつか点在していることである。昔は広大な敷地であったのが街道が通り、門前町ができていく過程で狭まってしまったのであろう。なお、門前町はなかなかに風情のある建物が多く、調べてみると面白いのではないかなと思った。

そうこうしているうちに2時間近くも滞在してしまった。帰りは福山市を経由して国道2号線を東に向かった。

 
吉備津神社拝殿                                吉備津神社朱印


住吉神社(下関)

2007-03-03 20:50:35 | 御朱印蒐集
日本三大住吉のひとつである下関市の住吉神社に参拝(他の二社は大阪の住吉大社、福岡の住吉神社)。九州側からいくと、関門国道トンネルを抜け、長府方面へ抜ける国道2号線の左手に社叢が見える。今回は社前で道路工事が行われていて、社前のきれいな写真が撮れなかった。

『日本書紀』神功皇后紀によれば、三韓征伐の際、新羅に向う神功皇后に住吉三神(住吉大神)が神託してその渡海を守護し、帰途、大神が「我が荒魂を穴門(長門)の山田邑に祀れ」と再び神託があり、穴門直践立(あなとのあたえほんだち)を神主の長として、その場所に祠を建てたのを起源とする。

創建の由緒から軍事と海上交通の神として厚い崇敬を受けた。境内の階段を上って随神門をくぐると本殿と拝殿である。本殿は応安3年に大内弘世により造営されたもので、国宝に指定されている。5つの一間社を合の間とともに一列に連ねた九間社流造で、中央の第三殿の前に拝殿がある。拝殿は毛利元就の寄進したものであり、現在は重要文化財に指定されている。

境内には社叢の中にいくつかの摂社末社があり、お池にも厳島神社が祭られている。境内東側には御神殿もある。社殿のある小高い丘は森になっており、気持ちよかった。

 
住吉神社拝殿                                住吉神社朱印

伊佐爾波神社

2007-02-16 19:27:29 | 御朱印蒐集
前回は朱印帖を持っていなかったので、語朱印がもらえなかったので、再チャレンジ。伊佐爾波神社は道後の東部の小高い丘に鎮座している。伊予鉄道市内線道後温泉駅から、まっすく東に向かう道とその先にある長い階段の参道、そしてその上に楼門が見える。自動車はその脇の小道を上っていくのだが、まず、狭い。しかも意外と車が通るのである。(ホテル等があるため)しかも坂を上ったところの左カーブがきつく切り返すか、回り込む必要がある。車の場合、社殿の裏に到着する。


参道

伊佐爾波神社は社伝によると神功皇后・仲哀天皇御来湯の際の行宮跡に建てられたたのが始まりという。昔は湯月八幡とも道後八幡とも呼ばれていた。元々は道後公園山麓に鎮座していたが、河野氏による道後城築城の際に今の地に遷した。現在の御社殿は江戸時代に入り江戸城で弓の競射を命じられた三代藩主松平隠岐守定長公が八幡様に必中を祈願し、それが成就したお礼に飛騨の工匠を招いて建て替えられたものである(寛文4(1664)年6月起工、寛文7(1667)年5月竣工)。京都の石清水八幡宮を模したと言われ、大分の宇佐神宮と並び全国に三例しかない整った八幡造りの社殿で、昭和31年6月本殿が国の重要文化財に指定、昭和42年6月全体が追加指定を受けた。


楼門

社殿は本殿を取り囲むように回廊がめぐらされた構造で、柱や壁に赤や朱が多用されてとても華やかな印象だ。特に平成12年から14年にかけて塗り替えられた本殿の朱は目に鮮やかである。また回廊内の庭にはソテツも植えられ独特な感じがした。

 
本殿                                   ご朱印

備中国総社宮

2007-02-13 18:22:00 | 御朱印蒐集
今日はリサイクルショップに不用品を出した後、まだ返せずにいた破魔矢などを備中国総社宮へ返納しに行った。

備中総社宮は岡山市東部にある総社市の総社というところにある。
主祭神は大名持命(おおなもちのみこと:大国主命)と須世理姫命(すせりひめのみこと)。相殿に御鎮魂八柱神(高御産霊神(たかみむすびのかみ)、神産霊神(かみむすびのかみ)、魂留産霊神(たまつめむすびのかみ)、生産霊神(いくむすびのかみ)、足産霊神(たるむすびのかみ)、大宮売神(おおみやのめのかみ)、事代主神(ことしろぬしのかみ)、御膳神(みけつかみ))を祭る。
また、備中国内大小神祇三百四社の神々を祭り、ここ一社を参れば、備中国すべての神社を参ったことになるそうだ。総社とはその国の国司が国内の神社の巡拝の煩わしさを避けるため、国府の近くに社を建てて神々を合祀したので、ここではこれが市の名前になっている。

総社宮の前庭は三島式庭園となっており、古代の様式を今に伝えている。



境内には長い回廊がある。



本殿は昭和期に焼失再建されたものであるが、それ以外は江戸期のもの。




ご朱印

南からの参道の入り口には明治43(1910)年に建築された旧総社警察署の建物がある。現在は「まちかど郷土館」として利用されている。



総社は遺跡や旧跡が多く、これ以外にもたくさん見所がある。機会があればそれらにも行って見たい。

石清水八幡宮と流れ橋

2006-10-09 23:27:28 | 御朱印蒐集
今日は、神戸を離れるご挨拶も兼ねて、京都の先輩の家を嫁さんと訪問。
先輩んちの子供もずいぶん大きくなり、特に下の子は3才ながらしっかりしている。嫁のことがお気に入りで、見るなりいろいろ話しかけてきた。やっぱ2番目は上の子がいるおかげで、喋りだすのも早いのだろうか。

さて、今日は先輩の旦那さん(も自分にとって先輩なのだが)の運転で、石清水八幡宮へ行くことになった。京滋バイパスを横目に見ながら、三川合流地点を渡り、しばらくいくともう石清水八幡宮だ。駐車場に車を入れると、目の前は高良神社。今昔物語であまりの賑わいに仁和寺の法師が石清水八幡宮本殿と間違えたそれである。いまはひっそりとしている。頓宮を通ってケーブルカーの駅へ向かった。


摂社 高良神社


石清水八幡宮の鳥居

ケーブルカーに乗る。今年で復活50年とのこと。ここでも「スルッとKANSAI」に対応している。お客の数は少なかった。われわれの他に老夫婦と子供連れのみ。ケーブルカーに乗るのは地元の皿倉山以来。懐かしい。出発してしばらくいくとトンネル。そこで上からの車両とすれ違うと、なかなかいい眺めが広がった。三川合流の様子がよくわかる。再びトンネルを通ると山上駅に到着。約5分の旅だった。山上駅には改札がない。出口に改札機があるから不要ということらしい。


男山ケーブルカー


車内からは三川合流の様子がよく見える。

ここからは、遊歩道を歩く。遊歩道が終わるともう境内だ。摂社の三女神社がまず見えた。参道を通り、本殿へ向かった。そして、南総門が見えてきた。その向こうに見える本殿は・・・。(知ってたけど)工事中。石清水八幡宮は平成23年まで社殿を全面的にやり直しているのである。そして現在は本殿を修築中。一番肝心なところがシートに覆われみえませーん。まあこれも貴重なワンシーンなのかな。八幡神様は現在は若宮社に移されています。


南総門


本殿


若宮社(現在は仮本殿)

ここのご朱印帳はなかなかいいデザインなので、いただこうと思ったが、品切れしており断念。また来ることもあるでしょう。境内の見学もすんだので、ぼちぼち帰ることに。展望台にも上がりましたが、この時期なのに蚊がすごかったです。それも大きい。どうなってんだろ。
(帰宅後、石清水八幡宮のHPを見ましたが、昔はたくさんの坊があったんですね。現在でも山中のいたるところにお宮があり、それを全部参ろうと思ったら歩いていくしかありません。こりゃ大変だ。)

ケーブルカーで山を下り、今度は流れ橋を見に行くことに。
やわた流れ橋交流プラザ「四季彩館」に車を止め、しばらく歩くと石田神社が見えてきた。丁度お祭りの日だったらしく、御神輿を飾っていた。当番で管理していた人によると担ぎ手がいないためこうして置いて飾って、見てもらっているのだそうだ。担ぎ手がいなくて御神輿巡幸ができないのはさびしいことだ。


石田神社

集落を抜けるとすぐに、前方に木津川の堤防が見えてくる。斜面を上がると、堤防の上は、木津川と嵐山を結ぶ45kmのサイクリングロードになっている。手前の河川敷きには茶畑が広がり、前方の芦原の間から、川の水面が見え、対岸にのびる木橋が架かっている。あれが「流れ橋」だ。

 この橋の正式名は上津屋橋(こうづやばし)といい、歩行者・自転車専用の橋だが、れっきとした府道である。以前、ここには府営の渡し船があったが、1951年に廃止され、橋が架けられた。木橋としては日本最長級(全長356.5m)といわれる。だが、永久橋だと経費がかかるため、節約型の木橋となったという。
 大雨や台風により、川の水位が上がり、上流から流れてきた流木などが橋で堰き止められ、橋が流されたり、堤防が決壊したりという大惨事につながる危険を避けるための方法として考えられたもので、橋板がワイヤーロープで連結されており、増水したとき橋板だけが水に浮き吹き流しのように流れる。そして、洪水が去った後、これをたぐり寄せてまた橋脚に乗せ、元にもどすようになっているのだ。橋板が流れるというその独特の構造から「木津川の流れ橋」と呼ばれ、親しまれている。
 堤防に建てられた看板によると、昭和26年3月に架設されて以来、平成9年7月までに通算15回の流出を記録しているそうだ。

 堤防から橋に近づいたとき、突然、激しい車のエンジン音が聞こえてくる。目を向けると、橋の近くの河原でドロドロになった4輪駆動車が数台、水たまりや土の起伏をわが物顔に走っている。近ュには住宅も無いので、彼らには絶好の遊び場なのだろうが、流れ橋を見に来た人や関係のない人たちには迷惑なことだ。
 まずは、その橋の上を歩いて対岸の久御山町側に歩いてみる。橋板がところどころゴトゴトと音をたてる。乗せているだけなのがわかる。

 「アッ、単車が落ちている!」という相棒の声に、橋の下を覗くと、橋脚に引っかかるように単車が1台水面から半分車体を出して転がっている。「多分、盗んだものでここに捨てたんじゃないかな・・」と相棒は言う。よく見ると直ぐ近くにも、もう1台沈んでいる。そんなに傷んではいないので、事故ではないようだが・・・。

 この付近一帯は砂地の河原が広がり、コンクリート護岸や電柱もないので、自然の風景にとけ込んでだこの橋をバックに、時代劇のロケなどにしばしば利用されているらしい。そう言えば、昔の東映映画やテレビで何度か見たような気もする風景だ。


日が暮れてよく見えませんが、流れ橋です。

夕食は四季彩館にある流れ橋清修庵でお蕎麦をいただいた。なかなか美味。

これで先輩たちとも遠くなってしまうかと思うとちょっと残念だなと思ったのだった。

甲子園素盞嗚神社

2006-09-21 21:43:20 | 御朱印蒐集
阪神甲子園球場の西側に鎮座する「甲子園素盞嗚神社」。俗に「甲子園神社」「タイガース神社」とも呼ばれています。創建年代は不詳。元禄年間に再建の記録があるので、300年前には鎮座していたことになります。 牛頭天王社と呼ばれ、大樹に囲まれた荘厳な神域だったそうです。大正時代に甲子園球場が建設され、白砂青松のお宮も大きく様変わりしました。

阪神甲子園駅から甲子園球場方面へ歩きます。クラブハウスのあるほう(西側)をぐるっと回ると境内が見えてきます。境内はそんなに広くありませんが、いつもきれいに掃除されています。


拝殿

それもそのはず、阪神タイガースの試合があると、風向きによっては大量のジェット風船が境内に落ちてくるのです。昨夜もナイターがあり、地面にはありませんでしたが、サクラの枝に引っかかっているジェット風船がたくさんありました。ファンには無くてはならないものですが、後片付けは大変です。

境内には「野球塚」というのがあります。


野球塚

揮毫は阪神タイガース監督岡田彰布氏によるものです。野球上達を願う子供達やタイガースの勝利を願うファンが訪れるのだとか。写真には写っていませんが、敷石がホームベースの形になっています。目下厳しいけど、阪神タイガースのセリーグ連覇をお願いして帰途につきました。


ご朱印


甲子園球場。そろそろ改修工事が始まります。
このような姿を見れるのもあとわずか。
現在の蔦も取り除かれ、種から育てた二世が
新しい甲子園球場を再び覆う予定です。
ちなみに高校野球開催期間中、蔦の苗が
販売されているらしいです。





浄土寺(兵庫県小野市)

2006-09-03 23:21:57 | 御朱印蒐集
今日は小野市にある浄土寺へゆきました。浄土寺は新西国三十三ヶ所の客番札所です。(客番って何だ?)建久年間(1190年~1198年)の創建で、開山は俊乗坊重源(しゅんじょうぼう ちょうげん)。多数の文化財を所有する古刹として知られ、大仏様(だいぶつよう)建築の浄土堂と仏師快慶の大作「阿弥陀三尊像」は特に著名です。神戸に来たら必ず行きたいと思っていましたが、ようやく叶いました。

神戸市中心部からだと西神中央から国道175号線に出て、三木市を経てゆくのが一番わかりやすいと思います。国道175号線は兵庫県明石市から、京都府舞鶴市に至る一般国道で、神戸市と三木市の境目あたりは片側1車線ですが、それ以外は片側2車線に整備され、走りやすかったです。途中、道の駅「みき」がありましたが、今回はスルー。

浄土寺は小野市の中心部から北東部の郊外にあります。国道175号線の浄谷町南交差点から浄土寺のほうへ走ります。周辺は田園地帯ですが、割と住宅も建っています。お寺の入り口前にある駐車場に車を入れて境内へ向かいました。



境内への階段を上るとすぐ国宝の浄土堂が見えます。そしてその横には何か工事現場のような・・・。がーん、鐘楼が修復工事中である。私は何かと修復中に出くわし、見れないということがある。今回もそれかと思いました。ところが、どうやら今日はその鐘楼の修復が完成したと言うことで、見学会をしていたらしいのです。足場を登って間近で見ることができるとの事で、少々待ち時間があるが、参加してみることにしました。その待ち時間の間、境内を見学してみました。


兵庫県指定文化財の鐘楼。
9月末まで修復工事中だった。

境内の東側には不動堂、本堂、開山堂が建っています。本堂は宝形造、本瓦葺。薬師如来を祀っているところから薬師堂とも呼ばれています。国の重要文化財に指定されています。1197年(建久8年)創建とされ、現在のものは焼失後の1517年(永正14年)築です。


本堂(薬師堂)。室町時代築。

開山堂は宝形造、本瓦葺。兵庫県指定文化財です。創建不明で、現在のものは焼失後の1520年築です。


開山堂。室町時代築。

さて、この浄土寺は池を中心にして、西に浄土堂(阿弥陀堂)、東に室町時代の薬師堂(本堂)が建っています。この配置は東方浄瑠璃世界の教主・薬師如来と西方極楽浄土の教主・阿弥陀如来の居所を意味しています。また、北面には鎮守として八幡神社を配しています。これは八幡神が古くから仏教と習合し、781年には仏教保護の神として八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の神号が与えられ、全国の寺の守護神として八幡神が勧請されるようになった影響だと思われます。お寺の中に神社。明治以降の我々にとっては変な感じもしますが、本来はこれが自然な姿なのかもしれません。


郷社 八幡神社。

鐘楼見学の順番が回ってきました。ヘルメットをかぶって入ります。
鐘楼堂は創建不明、現在のものは1632年築です。入母屋造で兵庫県指定文化財です。説明によりますと本瓦葺だったのですが、解体調査の折、雨だれでうがたれた石の位置を見ると屋根よりも先に突き出しており、創建当時は本瓦葺ではなく、別の葺き方(茅葺か桧皮葺?)と考えるのが妥当であるとなりました。隣に建つ八幡神社の本殿が桧皮葺であることから桧皮葺とすることになったそうです。桧皮葺の鐘楼は珍しいとのこと。


こんなところに上れるのはめったにありません。

さて、浄土堂です。重源によって建てられたもので、本尊として快慶作の阿弥陀三尊の巨像を安置します。建久5年(1194年)に上棟し、同8年(1197年)に完成供養を行ったと記録されています。当時の中国(宋)の最新式の建築様式を採用し、この様式は大仏様と呼ばれるます。鎌倉時代以後の寺院建築に大きな影響を与えた様式ですが、重源が手がけた大仏様建築で現存するものはこの他に東大寺南大門と同寺開山堂のみです。堂は方三間〈正面・側面とも1辺に柱が4本立ち、柱間が3つあるという意味)の単純な平面構成。1つの柱間が約6メートルもあり、内部空間は広大である。屋根は宝形造(ほうぎょうづくり、四角錐状の屋根形)、本瓦葺きで、平面の大きさの割に立ちが低いことと、屋根の形づくる線にほとんど反りがなく直線的であることが特色。比較的地味な外観に比し、堂内部は貫(ぬき)、梁(はり)などの構造材をそのまま見せたダイナミックな構成になっています。天井を張らず、屋根裏に空間をつくらず、構造材をそのまま見せて装飾を兼ねていること、貫(複数の柱を貫通する水平材)を多用することなどが大仏様建築の特色です。
内部は撮影禁止です。拝観料500円を納めて入ります。ご朱印もここで頂きます。

内部に祀られている阿弥陀如来三尊像は浄土堂中央の須弥壇に安置されています。仏師快慶の代表作です。巨大な三尊像で、阿弥陀如来は像高5m30cm(須弥壇を含めると7m50cm)、両脇侍の像高は各々3m70cm。快慶の作品には像高3尺(約1メートル)の阿弥陀像が多いのですが、本作は珍しい大作です。堂の屋根近くまで高さがあります。3体とも立像であり、各像の立つ蓮華座の下には雲が表わされており、阿弥陀三尊が西方極楽浄土から飛雲に乗って来迎する情景を表現したものです。堂の背後の蔀戸(しとみど、建物の内側または外側へ跳ね上げる形式の戸)を開けると背後からの光が入るようになっており、西日を受ける時刻になると堂内全体が朱赤に深く染まり、雲座の上に位置する三尊像が浮かびあがって来迎の風景を現すという劇的な光の演出効果を備えています。

ですので、浄土寺を訪れるときは西の空がきれいに晴れている日がお勧めです。拝観時間がちょうど良い時間になる前に終わってしまうのが残念ですが、拝観終了間際なら堂内に光が差し込み、堂内の朱柱の照り返しによって三尊像に後光が差したようになり、すばらしい情景が浮かび上がります。目の前に座っているとなんともいえない感じです。これは是非見ていただきたいです。

 
浄土堂とご朱印。

西側は現在田んぼが開けていますが、ここに大きなマンションが建ってしまうと西日の光が入らなくなってしまいます。これからも景観を守っていけるのか、神戸市のベットタウン化が進む中、心配です。