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伊予国は愛比売と謂ひ

四国は伊予松山での嫁さんと息子の三人暮らしの日々と気になる出来事を徒然に綴ります。

大山祇神社

2007-05-20 23:23:10 | 御朱印蒐集
今日は大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)を参拝しました。大山祇神社は、今治市の大三島に鎮座しています。大山積神を祭神とし、全国の山祇神社、三島神社の総本社です。国宝8件、国の重要文化財75件(2005年現在)を有し、天然記念物「大山祇神社のクスノキ群」がある。源氏、平家をはじめ多くの武将が武具を奉納し、武運長久を祈ったため、国宝、重要文化財の指定をうけた日本の甲冑の約4割がこの神社に集まっています。

しまなみ海道の大三島ICを降りて宮浦方面へ15分ほど走ると大山祇神社が見えてきます。お土産屋さんの無料駐車場に車を止めさせてもらい、参拝です。


大山祇神社社前

広い参道をいくと、乎千命御手植の楠が見えてきます。樹齢2,600年ともいわれる大クスです。ほかに、伊藤博文手植えの楠もあります。こちらは樹齢約100年です。


乎千命御手植の楠

神門をくぐり拝殿へ向かいます。


神門

ちょうどお土産屋が案内するツアーの団体がなんこかやってきて、境内はたくさんの人と入ることになってしまいました。そこでは拝殿の目の前で記念写真を撮る(神様にお尻を向けてVサイン)というちょっと考えられないおばさんの姿を目にしてしまいました。思いきり引いてしまいましたねえ。また、ご朱印をお願いした時の神社の方の対応は観光客の多さに辟易していたのか、すごくつっけんどんで、ほんと悲しかったです。もっとたくさんの人が押し掛ける他の神社でもこんなつっけんどんな対応をされたことはないのに、どうして?と問い詰めたい気持ちでいっぱいです。折角、参拝してすがすがしい気持ちになったのに、一気に悲しい気持ちにさせられてしまいました。
ゆっくり参拝したいのならこのツアー客のいない時間帯が良いです。(やはり、朝いちばんが一番いいのかもしれませんね。)


拝殿

気を取り直して境内を散策です。本殿は三間社流造、両脇に摂社が並んでいます。またいくつかの摂末社が点在します。


本殿

ここには宝物殿があります。


宝物館入り口

入館料は1,000円。普通は入らないことろですが、ここには、国宝の武具が8つもあり、特に「伝源義経奉納 赤糸威鎧大袖付」は必見なので、入ることにしました。宝物館3階にそれはありました。武具といっても繊細な感じで、また、赤い色調で派手だなあという印象でした。それに相対する形で置かれている「伝源頼朝奉納  紫綾威鎧大袖付」は地味というか、いかにも武具という感じでした。なんだか二人の性格が出ているような気がしました。また日本史の教科書で見る有名な名前がどんどん出てきてすごいなと思いました。その中で大山祇神社の大宮司・大祝安用の娘、鶴姫の甲冑はきれいでした。女性用ということで、胸部が大きくなっているほか、腰部はきゅっと引き締まって、女性的なシルエットの甲冑でした。なお、これは日本で唯一の女性用の胴丸だそうです。ほかに海洋博物館があるのですが、こちらは資料が古いです。もうちょっとなんとかしたほうがいい気がしました。

ちーとばかし嫌なこともありましたが、最終的には来て良かったかなと思いました。

吉備津彦神社

2007-05-19 23:22:32 | 御朱印蒐集
吉備津神社より東へ少し行ったところ、吉備中山の東麓に吉備津彦神社が鎮座しています。主祭神は吉備津神社とおなじ、吉備津彦命です。元々、備中、備後、備前の三国(さらには美作)は吉備という古代国家だったのが、その強大な国力を大和政権から危険視され、7世紀ごろに三国に分割されたといいます。そのとき、吉備津彦命も分祀されたようで、備前の国はこの吉備津彦神社がそれにあたります。ちなみに、備前と備中の国境は二つの神社が鎮座する吉備中山を通るように設定されています。

吉備津神社や岡山市からは国道180号線を走り、吉備津彦神社交差点前で神社への道(県道61号線)に入ります。国道2号線からは県道61号線に直接入ったほうが楽かもしれません。社前にはJR吉備線の一宮駅があります。


吉備津彦神社社前

境内を東西に貫く参道は夏至の日、本殿から見ると参道の向こうから昇ってくるそうです。参道の南北に神池があり、北側にツル(あめかんむりに鶴)島神社、南側に亀島神社が島のように鎮座しています。随神門をくぐると参道の階段。両脇にあるのは安政の大鳥居。日本有数の高さを誇ります。階段を上ると拝殿。


拝殿

中では結婚式が行われていた。


厳かな結婚式

社殿は四つの棟がつながった壮麗なもので、戦国時代?の争乱で社殿は失われたが、岡山藩主の池田氏が元禄のころ再建したという。しかし、昭和に本殿を除いて焼失し、その後再建されたものだという。


本殿

境内には多くの摂社、末社があるが、特に子安神社は池田公に子供が授からなかったのが、子安神社を参拝したところ、子供を授かったことから、社殿を奉納したのだという。末社の一部は本殿の玉垣内にあるが、正月には玉垣内に入ることが出来、参拝できるそうだ。

境内社の稲荷神社の脇から中山の御陵への山道1.9キロが伸びている。(御陵は吉備津彦命の陵とされる中山の峰にある全長120mの全方後円墳。宮内庁が管理している)ハイキングコースとして紹介されており、楽そうに見えるが、急で雨後だったためもあり、歩きなれない人には辛いかなと思った。


山道

一キロ弱上ると、元宮磐座への道が分かれている。こちらはハイキングコースでないため、けもの道のような道を行くことになる。300mほどいくと、突然大きな磐が現れた。ここが元宮磐座である。古代では神社は社殿を持たず、巨石を「依り代」として祭祀をおこなっていたそうだ。ここでは現在でもそのような祭祀をおこなっているとのこと。


元宮磐座

少しのぼると八大竜王の社がある。ここが中山の最高峰である。東から南にかけて開けていて岡山市内が一望できた。時間がなかったため御陵へは遊歩道を歩いて行くのをあきらめた。

車を再び中山の西麓、吉備津神社に向かわせた。吉備津神社の脇から吉備埋蔵文化財センターへの道が出ている。それが、この道が急で狭い!そのくせ、車の数が多いときている。ひやひやしながら上った。埋蔵文化財センターに車を置き、遊歩道を少しのぼると、もう御陵である。吉備津彦命は天皇の御子であることからその陵も宮内庁が管理している。こんな山の上に前方後円墳を築いた古代吉備の支配者はどんな力をもっていたのだろう。


御陵

出かける前は雨が降っていたが、神社に着くころにはすっかりあがり、中山に登るころには快晴になっていた。さすがは「朝日の神」だ。中山は神の居る山として昔から大事にされてきたことで、大昔の植生がいまに残されている。大部分を占める落葉樹の若葉の裏は白く、それが風を受け、日の光を反射してキラキラと輝いて、山全体が輝いているようだ。大昔、西日本は大部分の山がこのような感じだったのだろうか。まさに「山笑う」季節。僕の一番好きな季節です。


山笑う

吉備津神社本殿・拝殿修復工事

2007-05-19 21:17:06 | 御朱印蒐集
吉備津神社は50年ぶりの本殿・拝殿の屋根の吹き替え工事を行っており、6月末までの土曜日に一般公開されているので、見学に行ってみた。これは岡山デスティネーションの一環だそうだ。

吉備津神社は桃太郎のモデルといわれる吉備津彦を祀る神社で備中国一宮である。
本殿の大きさは桁行き48尺3寸(約14.6m)、梁間58尺3寸6分(約17.7m)、棟高(土台下端から箱棟上端まで)39尺6寸(約12m)、建坪78坪3強(約255㎡)の大建築入母屋の千鳥破風を前後に二つ並べ同じ高さの棟で結び桧皮で葺き、ひとつの大きな屋根にまとめた大胆極まる構造で、上から見ると棟はカタカナの「エ」の字型になっている。建築学上では『比翼入母屋造』と云い、全国で唯一の様式であるので、単に『吉備津造り』とも云う。拝殿は本殿の正面に接続して突き出した建物で、本殿と同時期の再建で柱間は正面1間(26尺6寸4分)、側面3間(32尺2寸8分)、棟高39尺(約12m)、建坪23坪強(約78.5㎡)の大きさである。現在の本殿・拝殿は今から約600年前の室町時代、将軍足利義満の時代に約25年の歳月をかけて応永32年(1425)に再建されたものである。本殿と拝殿はもともと一体のものとして設計された建物で、国宝目録にも『吉備津神社本殿・拝殿』として一体に数えられている。

吉備津神社は我が愛車が交通安全のお祓いを受けた神社で、岡山在住時代はよくドライブの途中によったものである。いつものように駐車場に車を止め、参道へ向かう。参道の階段下からでも本殿・拝殿を覆う上屋の大きな屋根が見える。


上屋と吉備中山

境内に上がって、まずは拝殿で参拝。しかし、御神霊はこちらにおられるのかな。受付でパンフレットとヘルメットを受け取り、上屋の中へ入るスロープを上る。屋根の中ほどぐらいを取り囲むように見学者用の通路が設置されている。高さは結構高い。


上屋から見た風景

中へ入ると吉備造りの本殿の屋根が大きく広がった。すでにかなりの割合で桧皮が葺かれているが、一部見学者のために内部の構造が見えるようにしてあった。学芸員らしき人が見学者にいろいろと解説をしていた。いつもは作業をしている人がいるそうだが、今日は休みだったらしく、見ることはできなかった。うーん、残念。


檜皮葺き替え現場

なかなか見られないところを見学できて、よかった。平成20年には吉備造りの美しい檜皮葺の屋根が姿を現すことだろう。そのころにまた参拝したい。

乃木神社 (山口・長府)

2007-05-05 23:56:53 | 御朱印蒐集

乃木神社は栃木、東京、京都、北海道など各地にあり山口の乃木神社もそのうちの一つ。郷里の山口県下関市長府にある。前出の忌宮神社のすぐ近くだ。地元では学問の神様として知られているらしい。明治時代の軍人、乃木希典大将を祀る。乃木大将は日露戦争で第3軍を指揮し、旅順攻略などを行った。学習院の初代院長になり、昭和天皇も厳しく指導されたという。明治天皇が崩御しその大喪の日(大正元(1912)年9月13日)の夜に妻の静子と共に自刃した。その後、乃木大将を奉祭しようという機運が高まり、各地に乃木神社が建てられた。なお、日露戦争でロシアを破ったことで開放された北欧・東欧の国では、彼を慕って今でも名前に「ノギ」とつける人も少なくない。旧社格は県社。大正3年(1914年)、郷里に乃木記念会が結成され、乃木希典が幼少時代を過ごした旧家を復元し、乃木の幼少期の像や遺品などを展示する乃木記念館とした。大正8年(1920年)、乃木記念館に隣設して乃木希典を祀る乃木神社が造営された。記念館には辞世の下書きの真筆などが残されている。また日露戦争で戦死した二人の子息の軍帽も展示されていた。地元では学問の神として知られているというだけあって、「軍神」というイメージよりもその人間性を前面に出した展示が多かったように思う。


忌宮神社

2007-05-05 23:43:22 | 御朱印蒐集

忌宮神社と書いて「いみのみやじんじゃ」と読みます。城下町として有名な山口県下関市の長府の町に鎮座します。第14代仲哀天皇が熊襲討伐のため7年間にわたり仮の皇居とされた豊浦宮跡といわれ、宮に付属して斎宮を建て神祇を祭られたのが忌宮の起こりと伝えられる。仲哀天皇は熊襲征伐中に崩御され、その御遺体をここより南方の土肥山に仮埋葬(殯斂)し神霊を鎮祭し豊浦宮と称した。のち聖武天皇の神亀5年筑前国橿日宮から神功皇后の神霊を勧請して忌宮と称し、さらに応神天皇を祀り豊明宮と称した三殿別立の古社であったが中世における火災で豊浦宮、豊明宮が焼失 忌宮に合祀し一殿となったという。幾度の兵乱や火災により社殿の焼失をみたが大内・毛利両氏の崇敬篤くその都度、造営改築が行われた。現在の社殿は明治10年6月に造営されたものを昭和56年に改修したもの。

長府観光案内所の駐車場からしばらく歩く。小雨だったのが、参拝後、急に激しく降り出した。境内をいろいろ見ていたら神職が傘を貸してくださった。ありがたいことだ。

多家神社

2007-05-03 21:52:07 | 御朱印蒐集
広島安芸道路の出口から東へ。府中町の役場から川沿いに北に上ると見えてくるが、止めるところがわからない。迷った挙句、「駐車場はこちら」の看板を発見。と、これが狭い道で、途中に切り返さないと曲がれないようなところもあり、ちょっと怖かった。後でみると、下にも止めることができたようだが、そこに入れることができたかどうか…。境内地は急な参道を登った丘の上に位置する。
さて、多家神社は神武天皇が東征中に立ち寄った地であるとされるが、中世にどこだったかわからなくなり、二社が「こちらである」と言い張り、論争の結果、二社を合わせ、広島場内にあった稲荷神社の社殿を移築し現在地に鎮座させたという曰くがある。というわけで、境内には広島城内にあった稲荷神社の社殿が宝殿として残っている。広島城は原爆で全焼してしまい、この宝殿だけが、唯一残った遺構であるという。

(デジカメのバッテリーが切れ銀塩カメラで撮影したので画像データなし)

沼名前神社

2007-04-08 22:29:27 | 御朱印蒐集

読み方の難しい神社である。沼名前と書いて「ぬなくま」と読む。
福山から県道22号線で南下し鞆の浦へ。町の入口にある市営の駐車場に車を入れ、神社へ向かった。

この神社は鞆祇園宮(ともぎおんぐう)とも称され、大綿津見命(おおわたつみのみこと)、須佐之男命(すさのおのみこと)をお祀している。今から千八百数十年前、第十四代仲哀天皇の二年、神功皇后が西国へ御下向の際、この浦に御寄泊になり、この地に社の無きことを知り、斎場を設け、この浦の海中より涌出た霊石を神璽として、綿津見命を祀り、海路の安全をお祈りになられたのが、当社の始まといわれる。神功皇后御還幸の時、再びこの浦にお寄りになり、綿津見神の大前に稜威の高鞆(いづのたかとも:弓を射る時に使った武具の一種)を納め、お礼をされたところから、この地が鞆と呼ばれるようになったという。
参道わきには重要文化財の能舞台がある。豊臣秀吉が作った伏見城にあったものを元和六年伏見城解体の際、福山城主水野日向守勝成が徳川二代将軍秀忠から拝領、のち万治年中当社に寄進されたである。

門前町を行くと、遠くから神社の拝殿が見える。随神門くぐり、参道を登ると目の前に拝殿。境内は高台にあるため仙酔島がよく見える。折しも桜が満開。鞆の浦のうららかな春の日であった。

野間神社

2007-03-27 21:59:34 | 御朱印蒐集
松山から岡山へしまなみ海道をつかって、移動する途中で、野間神社に寄る。
野間神社は今治市の神宮(かんのみや)に鎮座する神社で、国の重要文化財の宝篋印塔がある。国道196号線の神宮交差点から山手に入り、途中まで完成している県道をどんづまりまで生き、右折。狭い道を恐る恐るいくと、社前に出る。

重要文化財の宝篋印塔は境内の一番奥にある。2mほどあり、結構大きい。
社殿の前の狛犬は結構特徴的だった。


社前


山門


拝殿

速谷神社

2007-03-20 21:49:09 | 御朱印蒐集
速谷神社(はやたにじんじゃ)は広島県廿日市市にある神社。1700年あまりの歴史を持ち、かつては厳島神社よりも格の高い神社であった。交通安全祈願の神社として知られ、「車を買ったら速谷さん」と遠方からの参詣者も多い。広島電鉄のバスが御払いを受けることでも有名。

建立された時期については定かでない。弘仁二年(811年)に名神大に列され、室町時代からは安芸国桜尾城主だった藤原親実以下、大内・毛利・福島・浅野など歴代領主の崇敬を受けた。山陽道を往来する旅人が長旅の平安を祈願した由来があり、今日も交通安全の守護神として尊ばれている。
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広島岩国道路廿日市インターから東へ、国道433号線を車で5分ほど上ると鳥居が見えてくる。社前の駐車場は異様に広い。お払いを受けるために一度にたくさんのバスが止まるからか?社殿は最近やりなおしたようで、とてもきれいで立派だった。山門からは広島湾と宮島が見える。厳島神社を見下ろしているわけで、昔は速谷神社のほうが社格が上であったという話も妙に納得できるかな。交通安全の神様ということで、私もこれからの移動の安全を祈った。


鳥居


拝殿

防府天満宮

2007-03-20 21:38:05 | 御朱印蒐集
防府天満宮(ほうふてんまんぐう)は、山口県防府市にある菅原道真を学問の神様として祭った天満宮。道真が亡くなったすぐ翌年、延喜2年(904年)に出来た日本でも最も古い天満宮である。かつては「松崎天満宮」・「宮市天満宮」あるいは単に「天満宮」と称した。1873年に近代社格制度のもとで県社に列格し、松崎神社と改称した。戦後の1953年には防府天満宮と再び改称した。京都の北野天満宮、福岡の太宰府天満宮と並んで、「三天神」と言われている。

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防府市内、天神山の山腹に鎮座。菅原道真公は九州に流される途中、防府に立ち寄り、とても気に入り、「自分が死んだときは魂はここに戻ってくるだろう」と言い残して出発したという。その後、道真公の死後、最初に道真公を祀る廟が建てられ、これを最初の天満宮としている。
境内は山腹ということもあるせいか、大宰府天満宮と比べると意外と狭い。大宰府同様境内には梅がたくさん植えられている。時期のときはとてもきれいだろう。春風楼からの防府市内の眺めがよかった。まだ三田尻と呼ばれていたときは、海が近くまで入り込み、もっと美しい眺めだったことだろう。


一の鳥居


楼門


春風楼:最初は塔を建てるつもりが、計画が頓挫し、
後年、楼閣として完成されたもの。