他者と対話をするということは、自分の考えを「伝える」必要性が発生する、ということです。
その時の自分がどのように考えているかを、言語の形へと落とし込まなければなりません。
すなわち、自己を「ありのままの自己」から「客観的にも捉えられる自己」へと変換するプロセスを経ることになります。
私は、「ありのままの自己」は、はっきりと捉えきれないものである、と思っています。
それが、上記の変換において、自己は言語という限定された型枠の中へと押しこめられるのです。
この「自己を枠へ押しこめること」に対して、正直なところ私は耐えられません。
出来る事ならこの「枠」を意識せずに、「ありのままの自己」をありのままの形で「伝え」られたらどんなにか楽なことでしょう。
……枠とは、言語であり、それは言わば世間の常識であり、共通理解であります。
「伝える」という作業を通じて、私は常にこれらと自己との差異を痛感しています。
しかし、この「伝える」ことをせずに生きることは、もっともっと辛いものです。
伝えないと、孤独を感じてばかりの日々になってしまいます。
「ありのままの自己」をそのままの状態で「感じる」のは、自己対話です。
これが芸術の芽生えであり、これを表出させる(すなわち、他者にも捉えられるものにする)ことが創作であります。
そう考えると、芸術作品とは既に作者の「今」の感覚からはズレたものであるといえます。
「あの時、このように感じていた」ということを形にしているに過ぎないのです。
では、なぜ作品を作り続けるのか。
それはやはり、自己との対話をし、その時感じたことを形に残すことで、「自分が過去のその時生きていたのだ」という証拠を積み重ねたい、という欲求が有るがゆえでありましょう。
自己を振り返ることを繰り返し続けないと、今の自己が危うく感じられるのです。
なんとまぁ、不器用で手間のかかる存在なのでしょうか。
その時の自分がどのように考えているかを、言語の形へと落とし込まなければなりません。
すなわち、自己を「ありのままの自己」から「客観的にも捉えられる自己」へと変換するプロセスを経ることになります。
私は、「ありのままの自己」は、はっきりと捉えきれないものである、と思っています。
それが、上記の変換において、自己は言語という限定された型枠の中へと押しこめられるのです。
この「自己を枠へ押しこめること」に対して、正直なところ私は耐えられません。
出来る事ならこの「枠」を意識せずに、「ありのままの自己」をありのままの形で「伝え」られたらどんなにか楽なことでしょう。
……枠とは、言語であり、それは言わば世間の常識であり、共通理解であります。
「伝える」という作業を通じて、私は常にこれらと自己との差異を痛感しています。
しかし、この「伝える」ことをせずに生きることは、もっともっと辛いものです。
伝えないと、孤独を感じてばかりの日々になってしまいます。
「ありのままの自己」をそのままの状態で「感じる」のは、自己対話です。
これが芸術の芽生えであり、これを表出させる(すなわち、他者にも捉えられるものにする)ことが創作であります。
そう考えると、芸術作品とは既に作者の「今」の感覚からはズレたものであるといえます。
「あの時、このように感じていた」ということを形にしているに過ぎないのです。
では、なぜ作品を作り続けるのか。
それはやはり、自己との対話をし、その時感じたことを形に残すことで、「自分が過去のその時生きていたのだ」という証拠を積み重ねたい、という欲求が有るがゆえでありましょう。
自己を振り返ることを繰り返し続けないと、今の自己が危うく感じられるのです。
なんとまぁ、不器用で手間のかかる存在なのでしょうか。