もふもふ的世界

主に、音楽制作・言語学・心理学・哲学・文学・音声学・音波・システム開発 等々色々と呟いて参ります。

鑑賞(3)

2012-07-22 17:54:58 | ブログ
これからのメディア(特に芸術分野)において、必要なことは何であろうか。

フィギュアスケートの大会を例に挙げてみよう。
視聴者、即ち情報の受け手には「私は全体像を見たい」「私は周りの様子はどうでも良いから、その演者に間近に寄った映像を見たい」などといった様々な欲求がある。
この欲求を満たすには、どのようなシステムにすべきか。
情報の提供側(即ち送り手)は一つのチャンネルから、複数のカメラの映像を同時に送信し、また受信する側では各々の知的欲求に基づきカメラを選ぶ事ができるようにする必要がある。
即ち、カメラのスイッチング(切り替え)も視聴者の側が行えるようにする、というのが私が考える少し未来の「メディアを介しての芸術鑑賞」の姿である。
選ぶという行為を、その受け手自身が実際に行うのだ。
機材や権利関係で様々な壁が想定されるが、こうした手法が、「メディアを介して芸術を『鑑賞する』」ということにおいては忠実だといえる。
なにも、スケートの映像でステップの場面になったからと言って、全員が全員、スケート靴のドアップを見なければならない理由がどこにあるのだろう。
そのステップの際の身体全体の動きを見たい人だっていても良いではないか。どのようにバランスを取っているのかとか、全体としての美しさを味わいたいとか、そういう思いで見ていたって良いではないか。
なぜそれは許されないのか。

自分たちで選び取る、ということをせずにただ「これを見よ」「これこそが良いものだ」などと向こうから一方的に提供されたものを受け取るだけでは、何の人間的成長もない。
疑いを持たない人生など、つまらないではないか。
「これを見よ」の裏には、「これ以外は見るな」が常に含まれている。
「これこそが良いものだ」の裏には「これ以外のものは、これよりも良くはないから選んではならない」が常に含まれている。
後者に関する詳細な説明を一切省いたまま、「これを見よ」などと指示だけされ、それを実際に「する」。その「する」には自分の意志などどこにも無い。
「なぜ、これ以外は見てはならないのか」ということの理由を明確に説明することもできないまま、言わば自身の能力不足・無知を棚に上げ、禁忌の力を借り、説明した「つもり」になっている。
まことに愚かな行為である。
「なぜ」に対して答える為には、自分自身がそれについて「よく知っている」ことが前提となるはずなのに。

そもそも「良いものだ」と言われるものがあるとして、それを「良い」と決めたのは一体誰なのだ。
親か? スポンサーか? 先生か? 絶対的な権力者か? 国か? 社会か?
善悪、良し悪しほど、一見絶対的なものに感じられるのに相対的なものは、他には無い。
どこまでいったって、相対的でありつづける。

もちろんある程度の年齢までは、自分だけで判断をすることは大いに危険をはらんでいる。
だから、保護者が「保護」という名の操作をしなくてはならないし、社会では「道徳」という名の道標が示される。
それに従っていれば、判断をすることにより起こるかも知れない危険からは逃れられるかも知れない。
しかし、ある程度自我が形成され、「自分はこう思う」というものが明確になってくると、「これを見よ」の裏にある「これ以外は見るな」というメッセージにも気づく事ができるようになる。


これからは、今以上に大容量データ通信が可能な時代になってくる。
何番組も同時に録画することができる機器も既にあるこの時世、一つのチャンネルで複数の映像を送り出すなどということもできるようになるのではないだろうか(私は放送の仕組みに関しては素人ですのであくまで勝手な想像ですが)。

可能な限りフラットな状況でその芸術に触れることが、「鑑賞」なのであると私は思う。


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