さて、4月に書いた「鑑賞(1)」という記事の続きを書こうと思う。
先の記事においては
1)美術館など、芸術に触れることが出来る「場」
2)その芸術作品が兼ね備えている「芸術的な要素」
3)その芸術作品の芸術的な要素を感じ取る「心(感受性)」
以上3点が芸術鑑賞において必要である、という旨を書いた。
その中の特に3に関連してであるが、これはやはり先にも書いたとおり、カメラは人間の目と同じ「構造」でありながら、人間の目と同じ「機能」には成り得ない物である。
構造は確かに同じだ。しかし、それは原理的なものであり、それ以上の心理的なものにまでは及ばないのである。
人間は一般には、何かを見たいという欲求が生まれると、まぶたを開けて見たいものを見る。見たくない時にはまぶたを閉じればその光景は見えなくなる。
そこが大事なのである。
では私が何故このような事をわざわざ書いているか、というと、それはひとえにフィギュアスケートの大会をテレビ中継する際のあのカメラワークがどうにも腑に落ちないからである。
(この記事を、後々、この番組やそれに関係する方々が見ることも考えられるが、私の本意を感じ取ってくれるであろう事を切に願って、はっきりと述べる。)
もちろん、スポーツ的な要素も兼ね備えたものであるとは承知しているし、スポンサーの意向や、ディレクターの手腕なども充分に発揮した上での我々視聴者への提供であることは分かっている。
あくまで私は、放送やその関連する業界全体のシステムのことを述べているにすぎない。
やはりフィギュアスケートは芸術である。
どの技が決まったから何点入る、とか、同じ映像(失敗したのも成功したのも)を何度も何度も見せる、とかそういう部分的なものではない。
芸術とは総体で捉えるべきものだ。
部分的具象にこだわるべきものではない。
そう私は思う。
だからこそ、技が失敗してしまったとしても、それ以外の要素によって充分上位へとくい込めるのである。
その事が何よりも証となると言える。
……またまた長くなったため次へと続く
先の記事においては
1)美術館など、芸術に触れることが出来る「場」
2)その芸術作品が兼ね備えている「芸術的な要素」
3)その芸術作品の芸術的な要素を感じ取る「心(感受性)」
以上3点が芸術鑑賞において必要である、という旨を書いた。
その中の特に3に関連してであるが、これはやはり先にも書いたとおり、カメラは人間の目と同じ「構造」でありながら、人間の目と同じ「機能」には成り得ない物である。
構造は確かに同じだ。しかし、それは原理的なものであり、それ以上の心理的なものにまでは及ばないのである。
人間は一般には、何かを見たいという欲求が生まれると、まぶたを開けて見たいものを見る。見たくない時にはまぶたを閉じればその光景は見えなくなる。
そこが大事なのである。
では私が何故このような事をわざわざ書いているか、というと、それはひとえにフィギュアスケートの大会をテレビ中継する際のあのカメラワークがどうにも腑に落ちないからである。
(この記事を、後々、この番組やそれに関係する方々が見ることも考えられるが、私の本意を感じ取ってくれるであろう事を切に願って、はっきりと述べる。)
もちろん、スポーツ的な要素も兼ね備えたものであるとは承知しているし、スポンサーの意向や、ディレクターの手腕なども充分に発揮した上での我々視聴者への提供であることは分かっている。
あくまで私は、放送やその関連する業界全体のシステムのことを述べているにすぎない。
やはりフィギュアスケートは芸術である。
どの技が決まったから何点入る、とか、同じ映像(失敗したのも成功したのも)を何度も何度も見せる、とかそういう部分的なものではない。
芸術とは総体で捉えるべきものだ。
部分的具象にこだわるべきものではない。
そう私は思う。
だからこそ、技が失敗してしまったとしても、それ以外の要素によって充分上位へとくい込めるのである。
その事が何よりも証となると言える。
……またまた長くなったため次へと続く