もふもふ的世界

主に、音楽制作・言語学・心理学・哲学・文学・音声学・音波・システム開発 等々色々と呟いて参ります。

鑑賞(1)

2012-04-20 16:38:43 | ブログ
今回の記事を書くことに何の意味があるのだろうか。
今私は、そういった疑問を抱いているものの、そのすぐ背後には、「このブログはなぜ存在しているのか」という素朴かつ巨大な疑問が見え隠れしている。

そうした根本的な疑問に答えるにはまだまだ時間と経験が必要になるであろうから、とりあえず今回はそんな大物には目をつむり、「誰かが読んで、『あー、私もそう思う』と同意されたい」という願望を抱きながら、掲題の件を書くこととする。


「芸術をテレビで鑑賞することについて」

「芸術」を「鑑賞する」という行為には、以下の要素が含まれていなくてはならない、と私は考えている。

1)美術館など、芸術に触れることが出来る「場」
2)その芸術作品が兼ね備えている「芸術的な要素」
3)その芸術作品の芸術的な要素を感じ取る「心(感受性)」

特に3)が非常に重要だ。
どれだけ、素晴らしい美術館が完成し、素晴らしい芸術作品が並べられていても、それを美しい・素晴らしい、と感じる人間の「主体的な心」が無くては、それはただの「場」でありただの「物」でしかなくなる。

では、テレビで芸術鑑賞をする際のことを考えてみよう。
まず、テレビカメラの基本的な機能として、ズーム(イン・アウト)やパン、手ブレ補正などがある。
テレビカメラは、もともと人間の目の構造を模して設計されており、人間の目にも、上記に似たような機能は備わっている。
しかしながら、テレビカメラは人間の目と同じではない。

人間の目では、数十メートル離れている人間の顔の皺なんて見ることは(おそらく)不可能だし、そもそも日々の生活においてそこまでの性能は必要とされていないため、仮に、ずっと遠くに離れている人の顔の皺が分からなかったとしても、何ら支障はない。もし、相手の顔の皺の様子を見ることで、相手の年齢を想定しなくてはならないような喫緊の場合には(そのような場合があるとは到底思えないが)、相手の背格好や行動から総合的に推察することにより、「相手の年齢を想定する」という目的は達成できる。

テレビカメラは、言うならば「見えすぎてしまう」のだ。撮影者の意図を過剰なまでにくみ取ってかなえてしまう。それが、今われわれの身近に存在しているカメラの実態なのである。


…少しずつそれてきたため、軌道修正をする。(次回へ続く)


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