失恋論

 忘れようと努力しても、出来なかった人に向けて書くブログ。同時に、恋をまだ一度もしたことがないという人に向けて。

トークショー内藤みかさん編公開

2006-04-26 13:38:01 | Weblog
 先月に三回行われた『失恋論』トークショー第一回、内藤みかさん編が公開され始めました。

 http://www.kadokawagakugei.com/renewal/topics/special/20060201_01/

 付記部分にも書きましたが、今回はダイジェスト公開なので、全貌もいつか世に出せたらと思います。
 題して『私たちの失恋論!』というような本が出来たらいいですね。
 ぜひ皆さんの待望の声(がありましたら)、お聞かせください!

世界大の表現

2006-04-25 00:35:08 | Weblog
 コンビニで週刊誌の立ち読みをしていたら、週刊現代で江原啓之という人が新連載だという一回目でいろいろ言っていて、「こりゃヤバイんじゃないか」と思いました。
 しょっぱなから週刊現代の記者に「あの世の存在を信じますか」と問い、あの世を信じてない人になにを説いてもしかたがないと宣言。
 そして「私には小さな頃から人のオーラが見えた」と断言。
 こうしたことを、いつもこの人が言っているのだとしたら、かなり、相当マズイのではないでしょうか。
 彼は「物質主義的価値観」を否定し、目に見えないものを感じ取れ、と言います。
 そこだけ受け取れば、まっとうなことを言っているように見えます。
 でも目に見えないものを、彼だけは特権的に見えているのだと断言します。これがおかしい。
 目に見えないものが目に見えないものとして「ある」というのではなく、彼には見えているというのです。
 
 そうした断言がどうしても許容できないと思うのは、『失恋論』では、恋というある意味宗教に近いものが、しかし自分の心の中でしか起こっていないということを見つめてきたからでもあります。
 僕はそのことを通して、たとえば音楽雑誌で音楽ライターが、いちいちひとつのライブを聴いただけで「音楽史が塗り代わった」などと書く理由を内在的に感得しました。前はそういうファンの引き倒しみたいなレビューをただバカにしていただけだったのですが、「そういうことってあるな」と思えてきたのです。
 客観的には、そんなにライブのたびに音楽史が塗り代わっていたらおかしい。
 けれど、内側では奇跡は起こっているのであり、それを表現するときに、世界大の言葉を使いたくなってしまうのです。
 僕だって言いたい。僕が好きになった人は世界で最高の人だし、日本の女性史を塗り代えたと(笑)。

 でも、だからこそ、それは客観的には夢のようなことだという綱引きが必要なのではないでしょうか。
 そういう精神の運動性をおのおのが持てる、そういうことってあるなという追体験の手助けを僭越ながらさせていただくのが出版活動というものではないでしょうか。

 僕はこの江原という人に関してはまったくの無知でしたが、一回だけ、ある雑誌から、彼の過去を調べているのだが同じ大学の出身としてなにか知っていることはないかと電話を受けたことがあります。その時、僕は彼のことを知らなかったからなにも答えられなかったし、それ以前に、有名人だからと過去までさぐられるのは気の毒だなと思いました。
 その気持ちはいまでも変わりませんが、付け加わったことがあります。
 同じ学校出身者として、この人の存在は少なくとも僕には誇りに思えない。
 まあ、僕と同じ学校だということに誇りを持てない人もいっぱいいると思うので、他人のことを言えませんが、この、なんともいえない強烈な違和感は表明しておきたいと思います。

「いまは」それでかまわない

2006-04-23 09:09:07 | Weblog
    そして僕は、あることに気づいた。
   失恋している人間は、必ずしも物語の中で失恋している登場人物に感情移入するわけではないことを。
   感情移入するのは、恋することの深みに対してなのだ。                    (『失恋論』p.31)

  たとえば『冬のソナタ』で、ユジンにフラれるサンヒョクはとてもかわいそうで、見ている間は主人公二人より彼に感情移入することが多かった。
  サンヒョクの態度で他人とは思えなかったのは、はじめはユジンの態度をなじるものの、彼が色んな点で譲歩しようとするところだ。
  君が僕を好きでなくてもかまわない。君と恋人同士でなくてもかまわない。
  でも、彼のそうした言葉には必ず「いまは」という三文字が頭に付くはずだ。
  それを、彼自身きっと自覚していない。
  
  愛する人が他の人をより好きでも構わない……そう思ったことが僕自身ある。
  だがそれはあくまで「いまは」という留保付きであって、いつかは自分が一番になってほしいという願いが込められていて、しかも自分ではそこに気づいていないのだ。

  だからサンヒョクの気持ちは痛いほどよくわかった。

  なのに……『失恋論』の「失恋図書館」を読み返してみたら、サンヒョクのことに一言も触れていない。
  
  おかしい。『失恋論』ならサンヒョクの気持ちにこそ焦点を当てるべきではないのか。

  自分でも疑問に思ったが、おそらく答えはこうだ。

  サンヒョクはあまりにも「被害者」でありすぎるのだ。
  十年も愛を育んできた、誰もが認める婚約者を、町ですれ違った、高校時代に好きだった男に似ているというだけの男によって奪われてしまう。
  その男が、実は死んだと思われていた男と同一人物であったとしても、サンヒョク本人にまったくいわれのないことであることには違いはない。
  もしこれが現実に起こったことで、周囲の人間が噂を聞いたとしたら、十人が十人、サンヒョクに同情するだろう。
  彼は、立場として正しすぎるのだ。

  それよりは、双方の親が揃う婚約式の当日に、町ですれ違っただけの男を見てパニックになって彷徨し、時間を大幅に遅れて会場に着いたとたん倒れてしまうという、誰が見ても異常行動に出てしまうユジンの不安定さ。そして、その男が高校時代のあの彼だということもわからない段階なのに揺さぶられてしまい、そんな自分の気持ちに戸惑いながらも抗えない前半十話の展開、そこにこそ僕の気持ちは一緒に揺さぶられてしまったのだ。

  僕はきっと、自分自身の不可解さ、理不尽さに向き合ってしまうことの方に揺さぶられてしまう。

失恋論短歌から その4

2006-04-20 14:30:10 | Weblog
  もう君のための時間を未来には使えないから夢ばかりみる (丸山太一)
  http://before-sleeping.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_a20a.html

   なんか「成仏」の一歩手前って感じで好きです。

  ケンカ腰のわたしの声をさえぎった おだやかな声 もう決めたのね(栗原あずさ)
  http://kuriharaazusa.blog23.fc2.com/blog-entry-32.html

   最後の七文字がカッコイイです。

  失恋をするとかしないは後にして君にぶらぶらぶらさがってる(嶋田電気)
  http://blog.livedoor.jp/headbads/archives/50076117.html

   『失恋論』まんまではあります。

  背格好だけ似た人に面影を重ねてぶれた 夢をみていた(秋野道子)
  http://melas.cocolog-nifty.com/melas/2006/04/post_170a_3.html

   よくある話だけど「ぶれた」というところがほんの少し好きです。

  恋しくて霧雨ですら沁みてくる 「心」という字に屋根がないから(宇津つよし)
  http://punk-boom-bang-ex.txt-nifty.com/draft/2006/04/post_d270_6.html

   でも雨が慰撫することってないですか?

  湘南のケータイはデブ大量の電話番号波に乗れない(宇津つよし)
  http://punk-boom-bang-ex.txt-nifty.com/draft/2006/04/post_c521_3.html

   狙いすぎなのかな、でもそれゆえこちらも判断力がなくなって面白いような気もした一瞬がありました。

  失恋もさせてくれないけちな人両手合わせてびゃくだん浴びて(二坂英之)
  http://nisaka-hideyuki.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_03b1.html

 後半の凝りようは僕にはよくわからんけど「失恋もさせてくれないけちな人」という叫びはわかるなあ。『失恋論』は好きになった人が失恋をさせてくれたから出来た本です。

  幸せにさせるつもりの角部屋を子猫ばかりが謳歌している(二坂英之)
  http://nisaka-hideyuki.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_03b1_1.html

   なんかせつない気もするし怖い気もします。

  恋人をなくす五十の方法という本だけが増刷されず(二坂英之)
  http://blog.goo.ne.jp/search/search.php?MT=%BC%BA%CE%F8%CF%C0&tg=all&da=all&st=time&dc=10&fr=11&dp=all&bu=&pg=2&ts=all&status=select

   増刷してほしいです。

  ねえ私 実はあなたのファンだった(funというよりフアンだったけど) (岡本雅哉)
  http://furyu.way-nifty.com/namajikka/2006/04/post_7811.html

   わかります。不安だから「ファンです」と言うんだよね。

心が裸になる

2006-04-18 10:25:14 | Weblog
※週刊朝日のいま出ている号の「週刊図書館」で『失恋論』著者インタビュー、出ています。よろしかったらご一読を!


 恋をした状態を「夢を見ているようだ」と言う人がいます。
  <夢>というと、つまり架空のことであり、「夢見がちな人」というと、それは現実を直視していない人、ということになるでしょう。しかし、恋が夢だと言うのは、妄想としての妄想を楽しんでいる、ということとは違うと思います。

    夜、寝ながら夢を見ているときには、起きているときの自分よりも正直になっている、ということはよくあるのではないでしょうか。
   起きているときは理性でセーブしたり、あるいはそこに向き合うのが怖くて考えないようにしていたことが夢に出てくることがある。夢に出てくることによって「ああ、自分はこんなことにこだわってたんだ」とわかるということが、僕にはあります。

   <本音と建前>という言葉があります。
   でも人間は、常に自分の<本音>を自覚しているのでしょうか?
   人は、他人の前だけでなく、自分自身に対してさえ取り繕う、というのが実際の姿だと思います。
   「いまさらこんなことにこだわるほど子どもじゃないよ」「あの人と自分が合うわけがないじゃないか」などと言い聞かせて。
   しかも普段は、そうやって取り繕っていることさえ意識しません。あまりにも日常の属性になっているからです。

   恋をすると、心が裸になる。
   普段の自分を覆っていたたてまえが取り払われる状態になります。
   それは夢と似ています。

   だからそれは、一般的に言う「夢見がちな」体験ではなく、自分自身を丸ごとそこに持っていってしまう体験なのです。

失恋論短歌の枡野さん評

2006-04-16 19:30:20 | Weblog
 「かんたん短歌blog」枡野浩一さんの失恋論短歌評、読ませていただきました。
 http://masuno-tanka.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_1.html#more
 以下、短歌としてではなく僕自身の失恋観から、枡野さんがあげた作品をみていきたいと思います。

 下の二作については、僕もいいと思ってあげました。
 後者は、なるほど枡野さんの言うように、逆にお題を隠した方が奥行きが出る気がします。

点滅が思ったよりも長いので 渡れたかも と思い続ける (伊勢谷小枝子)

四捨五入されるラインの境目で挑めなかったからだと思う (二坂英之)
 
 次の作品は、一般的に思い込みっていうのはそういうもんだよねっていう意味ではわかるけれど、恋の話としては、自分の中にある相手のイメージが干からびてしまうということなのか、自分の気持ちを後から客観視すると排泄物のように思えてしまうということなのか。
 僕は恋に関しては、後から冷めてしまうということもたしかにあったけど、それは成仏させるまでもないことだった気がします。

さっきまで私のなかにあったのにそこからだしてみるときたない (福々屋大福)

 次の作品は、言葉の成り立ちを別解釈するというのは頭の体操でいいのかもしれないけれど、失敗作に対応する成功作のイメージが僕の中にはない。自分の人生そのものが失敗というならまだわかる気もするけど。

失った恋ではなくて 失恋は 失敗作の恋ということ (仁尾智)

 次のは、わかる気もするけど、胴上げを誰も受け止めなかったら死んじゃうじゃん。フラれるというのは、そういう明確な悪意あってのこととはちょっと違うのではないか。
 むしろ、そこまでの悪意があった方が、自分の被害者意識に凝り固まることが出来るからむしろ気が楽……というところまで進んだ内容を読みたい。

浮かれてたあの日の気持ちにタイトルを! 「受け止めるひとのいない胴上げ」 (岡本雅哉)

 次のは、裏切ったのは相手なのか自分なのか……という視点があるのがいいですね。ただちょっと僕にはカッコ良すぎる。

信じてたことが私を刺している 違う私に私はなった(本原隆)

 次の作品は、失恋という言葉を使わないでその状態を示しているのが「失恋論短歌」だとすればなるほどと思いました。

君の恋 僕らの恋になったけど 今日からはもう僕だけの恋 (愛沢いさむ)

 次の作品は、枡野さんも評価に困っていましたが、その決め付け的な言い方に、なにか踏ん切りをつけようとしている痛みが伝わってくるような気もします。

しあわせになるためにある失恋だ ふることもない雨の真下で (はせがわゆづ)

片想い人生

2006-04-14 09:14:24 | Weblog
   誰かに恋をしたとき、他人に相談したくなります。
   僕はそうでした。
   呑み屋で友人知人と一晩中その話をしても、気がすみません。
   ある人とめいっぱい話しても、他の誰かにも話をし、また意見を聴きたくなります。
  他の人はどうやっているのか、少しでも手がかりが欲しくなるのです。

  でも、そもそも誰を好きになったらいいのかについては、たいていの場合、他人に相談などしません。
   相談したくなるのは、好きになった後からなのです。

   それはもちろん、恋をしているのは疑いようのない<自分>だけど、恋している対象は<他人>だからです。
   他ならぬ<自分>の心を掴んでいる存在でありながら、よそよそしい<他人>の象徴でもある。
   
   恋をすると、初めて自分以外の心に興味が持てるようになります。
   他人の心を知りたくなります。

   そして気づきます。
   ふだんはいかに、自分の勝手な理屈や都合でしか他人を見ていなかったのかを。
   「片想い」という言葉がありますが、これは恋の話のみならず、生きていることそのものが「片想い」なのではないでしょうか。
   自分の「片想い」を発見するということは、その人の人生を外側から照らし出すということなのです。


   考えてみれば、何を考えているのかわからない人間に、全身全霊を込めて恋をしてしまうというのも、不思議なことです。
   その不思議が「恋」そのものの本質かもしれません。
   不思議だからこそ、理由を知りたくなる。

   あの時、あの人の言動や表情の意味はなんだったのか。  
   どうして自分はあの人を好きになったのか。

   でも、理由がなんなのかを説明することが『失恋論』の目的ではなく、恋に照らし出されるということはなんなのかを捉え直してみよう――そうすればたとえ恋が成就しなくても、失恋から汲み取れるものがわかる。
   そう思って書いてみました。  


   ※MORGENという月刊紙に『失恋論』刊行記念トークが掲載されています。『失恋論』に取材等で協力してくれた四人の20代の女性と僕がお互いの恋について語り合っています。プロの書き手同士ではない、こういうトークの機会も面白かったです。全国の高校で壁新聞として貼られていることが多いとのことですが、読みたい方は直接モルゲン編集部(morgen@vesta.ocn.ne.jp HPはhttp://www.fujisan.co.jp/Product/1281680271/b/98793/)にご注文のご連絡をいただくか、雑誌専門サイト「富士山マガジンサービス」をご利用いただけらと思います。

失恋論短歌から その2

2006-04-10 13:37:31 | Weblog
 枡野浩一さんが募集してくださっている「失恋論短歌」についてふたたび。
 金曜日以降の作品から。

 失恋「論」短歌なわけですから、失恋の感情ベタではないのでしょうが、かといって、まったく恋なんてどうでもいいという距離の人が書いたものは、文字通りどうでもいい。
 切実さを通った上で、輪郭化しようとしている「せめぎ合い」を見たいです。

 http://nonnon-1971.at.webry.info/200604/article_5.html他の、紺野さちこさんの作品が印象に残りました。


名前より先に覚えたあの笑顔思い出じゃない忘れてないから

 僕は名前を覚えた方が先でしたが、恋として出会ったのは「あの笑顔」でした。
 だからこの気持ちはとってもよくわかるっていうか、甦ってきます!


いつか会ったら言われたい綺麗になったと言わせたい いつかのきみに

 最後の「いつかのきみに」は未来のきみとも取れるけど、あの日のきみともとれる。
 恋って、時間を超えて出会い続けるものだと思うんです。 
 だから、時が経ってもなかなか成仏できないんですけど。


全部あなたのものでしたあなたじゃないとダメと言う私だった頃

 わかるなあ。
 恋愛は「この人」じゃなきゃだめだし、その人を好きな「この私」を突きつけてくる。
 自分が自分であることをこれ以上突きつけられる体験はないのです。
 恋のことを「自分探し」だなんて言っている人間は、そこがわかってない。
 恋が到来したら、探すまでもないんだから!
 知ってしまったこの自分を、どうにかしようとする格闘が恋なのだから!

失恋論短歌

2006-04-08 12:27:39 | Weblog


枡野浩一さんが「かんたん短歌blog」でトラックバック募集してくださっている「失恋論短歌」。
http://masuno-tanka.cocolog-nifty.com/

 現在短歌をたしなむさまざまな方のブログに作品がたくさんUPされています。
 
 いくつか自分の意識に引っかかった作品を見ていきたいと思います。
 以下作品(カッコ内は作者名)、UR Lをまず記し、次に感想を記す順番でいきます。
 短歌としての技術的な批評は出来ませんが、あくまで「失恋論」の観点から感想を述べさせていただきました。


その恋を失うことでかろうじて私らしさが守られている(花夢)
http://blog.goo.ne.jp/hana_yume/e/7a547894f797bbd158f84cbe37a212ec

  この気持ちはわかりますねー。
  失った瞬間に照らし出されるものがある。だから恋は「あけぼの」と「たそがれ」に刻印されるのだと思います。

四捨五入されるラインの境目で挑めなかったからだと思う(二坂英之)
http://nisaka.way-nifty.com/poetry/2006/04/post_c5da.html

  これは一読しただけではわかりにくいけれど、なにかを見逃した感じは伝わってきます。「ダメなときはどうやってもダメ」と思っていても、割り切れないものがありますよね。

「とりあえずビール」と同じ口ぶりで「またいい人がいるさ」と言うな(若崎汐里)
「とりあえずビール」と同じことなんだ 「またいい人がいるさ」ってのは(若崎汐里)
http://blog.goo.ne.jp/waka-sio/e/6f841615297637d73d43be97d3aea483

  このビールネタは二つ目の方が僕は好きですね。

ああこれが恋かと胸にしみるのは 始まるまえと終わったあとと(若崎汐里)

  これはあまりにも『失恋論』に書いてあることまんまかなと。

いつまでもまっているから(片思いだって恋なら失恋じゃない)(あみー)
http://app.blog.livedoor.jp/ammy/tb.cgi/50409970

  この人のもまんまだな。

恋ごころを失ったのはきみなのに失恋するのはぼくなのですか(カー・イーブン)
http://d.hatena.ne.jp/kaibun/20060403#p1

  この人のもまんま。
まんまな人たちには一度『失恋論』読んでもらって、その奥に広がったものを読みたい気がします。

点滅が思ったよりも長いので 渡れたかも と思い続ける (伊勢谷小枝子)
http://d.hatena.ne.jp/saeko-i/20060403#p4

 これはわかります。
 それが一縷の望みを生んでしまうのだな。

失恋のことを語ると長くなるいつもふられてあげてきたから (本多響乃)
http://hibikino.cocolog-nifty.com/tbtb/2006/04/post_9b59_1.html

 個人的事情のような気もしますが個人的事情を知りたい気もします。

こいびとを忘れられないわけじゃない恋した僕を忘れないだけ(本多響乃)

 上記と同じ人の作品。
 こりゃわかるなあ。まさに失恋論短歌だ。

あなたとのおもいでじゃない思い出を産みたくなって失恋おわり (丸山太一)
http://before-sleeping.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_7959.html

 ひらがなと漢字のニュアンスの違いはイマイチ伝わらなかったけど、失ったのに産むという表現は意識に引っかかりました。

母の死に 君を求めた唇は 「不謹慎ね」と拒まれただけ (岡本雅哉)
http://furyu.way-nifty.com/namajikka/2006/04/post_382e.html

  作品よりもご本人による説明文の方が伝わってきます。作品だけ読んだときは最初相手の母上が亡くなったのかと思いました。

  
  以上、木曜日までで読むことの出来た作品の中からの感想です。
  僕の心に引っかかった作品は僕の失恋の形に近いものかもしれません。
  失恋論短歌は恋のカルテかも!?
  枡野さんの批評が楽しみです。

「恋愛は、下手な方がいい」

2006-04-06 10:07:41 | Weblog
  一ヶ月ほど前、お仕事でご一緒した岡部まりさんに『失恋論』を渡したら、次にお会いしたときに素敵な感想をいっぱい聴かせてくださいました。

  僕は『失恋論』の中で、自分が好きになった女性についてあまり詳しく書いていません。それが目的ではないからです。自分のエピソードから始まるという構成上、最低限の経緯を記したのみでした。

  岡部さんは少ない情報の中から、僕がその女性に感じた魅力のすべてを読み取ってくださっているのがわかってビックリしました。岡部さんはそこに自分を重ね合わせているように見えました。

  社会的に早く自立していた立場から、他人に妥協したりなびいたりしたくない。その上で年長の人から汲み取るものは汲み取りたいから、男性には演技でも大人っぽくふるまってもらいたい気持ちもある。
  でも年上の男性がある程度の仕事の経験を経た上で、女性と対等な関係を求めはじめる気持ちに気づいてときめく気持ちが伝わってきた、と。
  
  そして、以前出されたという『片想いにさようなら』という本をお返しに下さいました。
  岡部さんが十年前に失恋したときの本です。

  本を開いただけで、恋しているときの気持ちが甦ってきました。
  
  恋は「エネルギー」だと岡部さんは書きます。
  「ああっ」と思いました。
  自分の中にあったものを言い当てられた気がしました。

  僕は最初、あの気持ちが恋であることは自覚していませんでした。
  とにかく、内側からエネルギーが湧き上がってきて、普通それはポジティヴでいいことなはずなのに、あまりにもその力が強いので自分でもどうしていいかわからなくなってしまったのです。

  「それは恋だよ」
  そう友だちに言われて、初めて自覚したのでした。

  所謂「恋愛至上主義」の真っ只中だった十年前。恋愛ブームと言われた当時既に、岡部さんは「恋愛が『ブーム』だなんておかしい」と言い切って、マニュアルを否定しています。

  「恋愛は、下手な方がいい」

  岡部さんの十年前の言葉が、いまの僕を照らし出してくれました。