コンビニで週刊誌の立ち読みをしていたら、週刊現代で江原啓之という人が新連載だという一回目でいろいろ言っていて、「こりゃヤバイんじゃないか」と思いました。
しょっぱなから週刊現代の記者に「あの世の存在を信じますか」と問い、あの世を信じてない人になにを説いてもしかたがないと宣言。
そして「私には小さな頃から人のオーラが見えた」と断言。
こうしたことを、いつもこの人が言っているのだとしたら、かなり、相当マズイのではないでしょうか。
彼は「物質主義的価値観」を否定し、目に見えないものを感じ取れ、と言います。
そこだけ受け取れば、まっとうなことを言っているように見えます。
でも目に見えないものを、彼だけは特権的に見えているのだと断言します。これがおかしい。
目に見えないものが目に見えないものとして「ある」というのではなく、彼には見えているというのです。
そうした断言がどうしても許容できないと思うのは、『失恋論』では、恋というある意味宗教に近いものが、しかし自分の心の中でしか起こっていないということを見つめてきたからでもあります。
僕はそのことを通して、たとえば音楽雑誌で音楽ライターが、いちいちひとつのライブを聴いただけで「音楽史が塗り代わった」などと書く理由を内在的に感得しました。前はそういうファンの引き倒しみたいなレビューをただバカにしていただけだったのですが、「そういうことってあるな」と思えてきたのです。
客観的には、そんなにライブのたびに音楽史が塗り代わっていたらおかしい。
けれど、内側では奇跡は起こっているのであり、それを表現するときに、世界大の言葉を使いたくなってしまうのです。
僕だって言いたい。僕が好きになった人は世界で最高の人だし、日本の女性史を塗り代えたと(笑)。
でも、だからこそ、それは客観的には夢のようなことだという綱引きが必要なのではないでしょうか。
そういう精神の運動性をおのおのが持てる、そういうことってあるなという追体験の手助けを僭越ながらさせていただくのが出版活動というものではないでしょうか。
僕はこの江原という人に関してはまったくの無知でしたが、一回だけ、ある雑誌から、彼の過去を調べているのだが同じ大学の出身としてなにか知っていることはないかと電話を受けたことがあります。その時、僕は彼のことを知らなかったからなにも答えられなかったし、それ以前に、有名人だからと過去までさぐられるのは気の毒だなと思いました。
その気持ちはいまでも変わりませんが、付け加わったことがあります。
同じ学校出身者として、この人の存在は少なくとも僕には誇りに思えない。
まあ、僕と同じ学校だということに誇りを持てない人もいっぱいいると思うので、他人のことを言えませんが、この、なんともいえない強烈な違和感は表明しておきたいと思います。