クリスマスは男女で過ごすのは当たり前、という考え方は、逆に、そのステージに乗らなければ幸せではない、という図式を作り出してしまったと思います。
けれども、それは決して本質ではありません。クリスマスとは、愛するものが近くに居る人も、居ない人も、その現在を肯定するためにあるのではないでしょうか。
宮田珠己さんの『晴れた日は巨大仏を見に』に刺激されて『サンタ服を着た女の子』が出来た話はあとがきに記しましたが、もうひとつ、宮田さんが書いてこられたことと今回のサンタ本との共通点として、クリスマスは、ミニチュア化した世界を眺める喜びがあるのではないか、ということがありました。巨大な袋や箱に自分たちの町や村を包んでしまう、家族に似た人形を窓に飾っておく、キリストの生誕場面の模型を作ってそこにそれとなく自分の人形を紛れ込ませておく……バレエで有名な『くるみ割り人形』も女の子が人形と同じ大きさになって冒険する話でしたが、舞台はクリスマスの晩でした。
キリストの生誕シーンは偶像崇拝に通じるとして教会で禁止された時期もあったのにもかかわらず、人々は自宅に隠し持ってその伝統を生き延びさせました。つまり、信仰よりも何よりも先行して、自分たちの似姿をかたどった小さな世界を作りたいという願望があって、そのスタイルとして、集合無意識的に民衆の中に息づいているその国の宗教的世界観が選ばれているのではないか。
宮田さんは紀行エッセイを得意としますが、グルメにも関心がないし、人との出会いにもそれほど比重は置きません。その国の人々が伽藍やミニチュアを作って親しむ習慣を見出して、小宇宙を紹介していくのです。
来年二月に出るという宮田さんの新作もベトナムの盆栽をテーマにしたものです。先日のイベントでゲストに来ていただいたときも、その写真をスライドで投影しながら、話を進めていきました。
宮田さんの友人である女性が妊娠してマタニティブルーになったとき、彼はその女性に「生誕シーン」のミニチュアをプレゼントしたというのです。
あの「青い鳥」の童話のように、この世界に生まれてくること、そして生まれてくる命を受け止めることは、実はめでたいだけでなく、憂鬱なことなのかもしれません。
でもミニチュアを眺めるように、この世界を捉えなおすことが出来れば、サンタさんの靴下の中のように、いっとき楽しく感じられるのかもしれない。
寒く暗いトンネルを潜り抜ければ、そこには、たくさんの飾りが吊り下げられたツリーや、いろんなものが乗っかったケーキが!
僕はキリスト教信者ではありませんが、教会の幼稚園で育ちました。あの教会の、太陽が差し込んでくる色付きガラスには魅入られてしまいます。
あるいはクリスマスツリーに飾られたメタリックブルーやレッドの小さな箱。中には何も入ってないとわかっているのに、またそれ自体高価なものではないということもわかってい
るのに、なぜ大人になってもそこに魅入られてしまうのか。
イベントの最後でも語ったように『サンタ服を着た女の子』は自分にとってそれを探す旅、でもありました。
クリスマスツリーにヒカリモノを飾るという発想はもともと、木々の葉の間から見上げた星空からだといわれています。
つまりある種の主観、角度を立体化して再現したのがクリスマスであり、やはりミニチュアを愛でるキモチがそこに通底すると思われます。
それは宗教よりも実は先行した欲求ではないのかと僕は本にも書きましたが、もっと言えば、それこそが宗教の根にあるものではないでしょうか。
「これは誓ってもいいんだけれどね、最後の最後に私たちははっと悟るんだよ、神様は前々から私たちの前にそのお姿を現わしていらっしゃったんだということを。物事のあるがままの姿。私たちがいつも目にしていたもの、それがまさに神様のお姿だったんだよ」(トルーマン・カポーティ作、村上春樹訳『クリスマスの思い出』より)
これは逆にも言えます。物事をあるがままの姿をありがたがることなんて、普段はなかなか出来はしない。だからこそ、希釈化という過程を経て捉え返すことで、愛し得るのではないか、と。
そしてカポーティ少年が寄宿舎に入ることでクリスマスの温かい時間と決別するように、冬至が明けるとともに、眠っていた現実そのものが目を覚ます、そこに至るまでのリハビリ期間ではないのかと。
中沢新一は、クリスマスというものは、むしろ大人になっているからこそ必要なものなのではないかと言っています。そう、子どもの目に帰ることの出来る時間だからです。
サンタクロースさえ、居ると信じていたあの頃に――。
けれども、それは決して本質ではありません。クリスマスとは、愛するものが近くに居る人も、居ない人も、その現在を肯定するためにあるのではないでしょうか。
宮田珠己さんの『晴れた日は巨大仏を見に』に刺激されて『サンタ服を着た女の子』が出来た話はあとがきに記しましたが、もうひとつ、宮田さんが書いてこられたことと今回のサンタ本との共通点として、クリスマスは、ミニチュア化した世界を眺める喜びがあるのではないか、ということがありました。巨大な袋や箱に自分たちの町や村を包んでしまう、家族に似た人形を窓に飾っておく、キリストの生誕場面の模型を作ってそこにそれとなく自分の人形を紛れ込ませておく……バレエで有名な『くるみ割り人形』も女の子が人形と同じ大きさになって冒険する話でしたが、舞台はクリスマスの晩でした。
キリストの生誕シーンは偶像崇拝に通じるとして教会で禁止された時期もあったのにもかかわらず、人々は自宅に隠し持ってその伝統を生き延びさせました。つまり、信仰よりも何よりも先行して、自分たちの似姿をかたどった小さな世界を作りたいという願望があって、そのスタイルとして、集合無意識的に民衆の中に息づいているその国の宗教的世界観が選ばれているのではないか。
宮田さんは紀行エッセイを得意としますが、グルメにも関心がないし、人との出会いにもそれほど比重は置きません。その国の人々が伽藍やミニチュアを作って親しむ習慣を見出して、小宇宙を紹介していくのです。
来年二月に出るという宮田さんの新作もベトナムの盆栽をテーマにしたものです。先日のイベントでゲストに来ていただいたときも、その写真をスライドで投影しながら、話を進めていきました。
宮田さんの友人である女性が妊娠してマタニティブルーになったとき、彼はその女性に「生誕シーン」のミニチュアをプレゼントしたというのです。
あの「青い鳥」の童話のように、この世界に生まれてくること、そして生まれてくる命を受け止めることは、実はめでたいだけでなく、憂鬱なことなのかもしれません。
でもミニチュアを眺めるように、この世界を捉えなおすことが出来れば、サンタさんの靴下の中のように、いっとき楽しく感じられるのかもしれない。
寒く暗いトンネルを潜り抜ければ、そこには、たくさんの飾りが吊り下げられたツリーや、いろんなものが乗っかったケーキが!
僕はキリスト教信者ではありませんが、教会の幼稚園で育ちました。あの教会の、太陽が差し込んでくる色付きガラスには魅入られてしまいます。
あるいはクリスマスツリーに飾られたメタリックブルーやレッドの小さな箱。中には何も入ってないとわかっているのに、またそれ自体高価なものではないということもわかってい
るのに、なぜ大人になってもそこに魅入られてしまうのか。
イベントの最後でも語ったように『サンタ服を着た女の子』は自分にとってそれを探す旅、でもありました。
クリスマスツリーにヒカリモノを飾るという発想はもともと、木々の葉の間から見上げた星空からだといわれています。
つまりある種の主観、角度を立体化して再現したのがクリスマスであり、やはりミニチュアを愛でるキモチがそこに通底すると思われます。
それは宗教よりも実は先行した欲求ではないのかと僕は本にも書きましたが、もっと言えば、それこそが宗教の根にあるものではないでしょうか。
「これは誓ってもいいんだけれどね、最後の最後に私たちははっと悟るんだよ、神様は前々から私たちの前にそのお姿を現わしていらっしゃったんだということを。物事のあるがままの姿。私たちがいつも目にしていたもの、それがまさに神様のお姿だったんだよ」(トルーマン・カポーティ作、村上春樹訳『クリスマスの思い出』より)
これは逆にも言えます。物事をあるがままの姿をありがたがることなんて、普段はなかなか出来はしない。だからこそ、希釈化という過程を経て捉え返すことで、愛し得るのではないか、と。
そしてカポーティ少年が寄宿舎に入ることでクリスマスの温かい時間と決別するように、冬至が明けるとともに、眠っていた現実そのものが目を覚ます、そこに至るまでのリハビリ期間ではないのかと。
中沢新一は、クリスマスというものは、むしろ大人になっているからこそ必要なものなのではないかと言っています。そう、子どもの目に帰ることの出来る時間だからです。
サンタクロースさえ、居ると信じていたあの頃に――。