失恋論

 忘れようと努力しても、出来なかった人に向けて書くブログ。同時に、恋をまだ一度もしたことがないという人に向けて。

失う、ということ

2005-12-30 10:21:34 | Weblog
  失恋論を書いていて、途中で気がついたことがあります。

  最初は、ただフラれた人の、行き場のない思いをどうすればいいのかというテーマで書き始めたのですが、次第に「失恋」の「失」の部分、つまり「失うということ」それ自体が気になり始めてきたのです。

  純愛ブームのときに流行った『世界の中心で、愛を叫ぶ』や『Deep Love』『冬のソナタ』もそうですが、ベストセラーになった恋愛モノには「死別」をテーマにしているものが多いと思います。

  これが家族なら「死別」という段階は必ず経験するわけですから、当り前なのですが、若い男女の恋愛物語に「死別」がよく使われるのは、考えてみれば不思議です。

  昔の映画やドラマならわかります。「戦争」という大きな悲劇がありましたから。
  しかしいまの日本、若い男女のカップルで一方の死別がよく起こることだとはとても考えられません。
  むしろ現代では、なまなましい人の死というのは遠ざけられているのが一般的だと思います。

  恋愛モノでの死別には、恋が終わることそのものが重ね合わされているのではないでしょうか。
  
  失恋したとき、僕はこういう思いをしたことがあります。
  それは普段と同じ日常。学校に行く電車に乗っているときでした。
  そのとき、「ハッ」と、気づいたのです。
  いまここにいる自分は、もうあの人とは、つながっていないのだと。

  そこで僕は、ついさっきまで、たとえ離れ離れになっていても、同じ空の下、同じ空気が流れている以上、そこはひとつながりの空間だと当り前のように思っていたことを、初めてさとったのです。

  恋を失うというのはこういうことか、と思いました。

  それはもう、最愛の人と死別したのと本質的には通じるのではないでしょうか。
  どんなに嘆き悲しんでも、もうあの人と同じ息を吸うことは出来ない。

  それはその人が、仮に存命だとしても、同じことだと思うのです。

  僕は恋を失うことで、なにか大切なものを失うということがどういうことなのか、初めてわかった気がします。

ケーキの思い出

2005-12-25 07:20:38 | Weblog
    失恋とは、一方的にフラれることだけではなく、恋を失うことそのものを指すのだと思います。
    ほろ苦い思いが、ときどき蘇ります。

   「あなたと会って、人間不信になった」
   昔、恋仲だった相手からそう言われたことがあります。
   足元が崩れていくような思いがしました。

   なにも自分が、誰かを救えるとまで自惚れていたわけではありません。
   けれど、温め合えると思っていた自分の存在が相手を傷つけていたと知ったとき、反省や贖罪よりも、愛し続ける気力の方を失ってしまいました。
   いま思えば、それを知った瞬間が失恋だったのでしょう。

   普段は忘れていますが、ときどきそのことがなんの前触れもなく蘇ってきて、自分の胸をチクリと刺します。
   自分が思っていた「優しさ」なんていうものは、自己満足だったのかな、と。

   そんな僕にも、同じ相手との「いい思い出」が蘇ってくるときもあります。

   それはクリスマスや誕生日、一緒に食べたケーキ。
   彼女は、子どものとき両親が離婚していました。
   だから「丸いケーキ」を食べたことがないと言うのです。

   二人っきりで、お腹いっぱい丸いケーキを食べました。
   そこには、人と人とは修復できる可能性がある、という小さな原型があった気がします。
   付き合えば付き合うほど猜疑心が強くなっていった彼女も、その瞬間だけは素直に喜んでくれた。
   だから大人になって、目の前にもう彼女がいない今でも「たかがケーキ」だとは思えないのです。

「どこでもドア」を叩く音はしますか

2005-12-24 01:09:47 | Weblog
 いまの貴方に、すぐ会いに行きたいという人はいますか?

 これを読んでいる人の中には、クリスマスなのに、師走なのに、お正月なのに、一人ぼっちだという人もいるかもしれません。
 あるいは誰かと一緒にいても、本当に好きな人は別にいて、その人と会いたいというのが本音だという人もいるでしょうか。

 歌人の枡野浩一さんが全国から集まった三六〇〇首の中から編纂した『ドラえもん短歌』(小学館)という本には、ドラえもんのひみつ道具のひとつである「どこでもドア」について歌われたものがいくつか載っています。

 「どこでもドア」を開ければ好きなあの人のところに会いに行ける。
 でも……仮にそれがあったとしても、やはり行けない。空間はつながっても、気持ちはもうつながっていないことを確認するのは、つらすぎるから。

  行きたいと
  思う気持ちが
  足りなくて
  どこでもドアを
  使えなかった(『ドラえもん短歌』より,志井一さんの短歌)

 でも「どこでもドア」を使えないのは、結局この歌にあるように、自分には勇気がなかったからなのでしょうか。

 無邪気な子ども時代だったら、しずかちゃんのお風呂をうっかり覗いても「のび太さんのエッチ!」で終わるかもしれないけれど……。
 いまはもう、つながらない思い。

 同じ空の下にいるのに、この空間はもう、あの人とつながっていない。
 そんな思いをしたことが、貴方にはあるでしょうか。