失恋論を書いていて、途中で気がついたことがあります。
最初は、ただフラれた人の、行き場のない思いをどうすればいいのかというテーマで書き始めたのですが、次第に「失恋」の「失」の部分、つまり「失うということ」それ自体が気になり始めてきたのです。
純愛ブームのときに流行った『世界の中心で、愛を叫ぶ』や『Deep Love』『冬のソナタ』もそうですが、ベストセラーになった恋愛モノには「死別」をテーマにしているものが多いと思います。
これが家族なら「死別」という段階は必ず経験するわけですから、当り前なのですが、若い男女の恋愛物語に「死別」がよく使われるのは、考えてみれば不思議です。
昔の映画やドラマならわかります。「戦争」という大きな悲劇がありましたから。
しかしいまの日本、若い男女のカップルで一方の死別がよく起こることだとはとても考えられません。
むしろ現代では、なまなましい人の死というのは遠ざけられているのが一般的だと思います。
恋愛モノでの死別には、恋が終わることそのものが重ね合わされているのではないでしょうか。
失恋したとき、僕はこういう思いをしたことがあります。
それは普段と同じ日常。学校に行く電車に乗っているときでした。
そのとき、「ハッ」と、気づいたのです。
いまここにいる自分は、もうあの人とは、つながっていないのだと。
そこで僕は、ついさっきまで、たとえ離れ離れになっていても、同じ空の下、同じ空気が流れている以上、そこはひとつながりの空間だと当り前のように思っていたことを、初めてさとったのです。
恋を失うというのはこういうことか、と思いました。
それはもう、最愛の人と死別したのと本質的には通じるのではないでしょうか。
どんなに嘆き悲しんでも、もうあの人と同じ息を吸うことは出来ない。
それはその人が、仮に存命だとしても、同じことだと思うのです。
僕は恋を失うことで、なにか大切なものを失うということがどういうことなのか、初めてわかった気がします。
最初は、ただフラれた人の、行き場のない思いをどうすればいいのかというテーマで書き始めたのですが、次第に「失恋」の「失」の部分、つまり「失うということ」それ自体が気になり始めてきたのです。
純愛ブームのときに流行った『世界の中心で、愛を叫ぶ』や『Deep Love』『冬のソナタ』もそうですが、ベストセラーになった恋愛モノには「死別」をテーマにしているものが多いと思います。
これが家族なら「死別」という段階は必ず経験するわけですから、当り前なのですが、若い男女の恋愛物語に「死別」がよく使われるのは、考えてみれば不思議です。
昔の映画やドラマならわかります。「戦争」という大きな悲劇がありましたから。
しかしいまの日本、若い男女のカップルで一方の死別がよく起こることだとはとても考えられません。
むしろ現代では、なまなましい人の死というのは遠ざけられているのが一般的だと思います。
恋愛モノでの死別には、恋が終わることそのものが重ね合わされているのではないでしょうか。
失恋したとき、僕はこういう思いをしたことがあります。
それは普段と同じ日常。学校に行く電車に乗っているときでした。
そのとき、「ハッ」と、気づいたのです。
いまここにいる自分は、もうあの人とは、つながっていないのだと。
そこで僕は、ついさっきまで、たとえ離れ離れになっていても、同じ空の下、同じ空気が流れている以上、そこはひとつながりの空間だと当り前のように思っていたことを、初めてさとったのです。
恋を失うというのはこういうことか、と思いました。
それはもう、最愛の人と死別したのと本質的には通じるのではないでしょうか。
どんなに嘆き悲しんでも、もうあの人と同じ息を吸うことは出来ない。
それはその人が、仮に存命だとしても、同じことだと思うのです。
僕は恋を失うことで、なにか大切なものを失うということがどういうことなのか、初めてわかった気がします。