失恋論

 忘れようと努力しても、出来なかった人に向けて書くブログ。同時に、恋をまだ一度もしたことがないという人に向けて。

「なのに」と「だから」

2006-01-21 11:42:41 | Weblog
  先日、ある有名人の方とお話しさせていただく機会があったのですが、その人は、世の中で話題になりやすいのは「なのに」という接続詞があてはまるものだ、とおっしゃっていました。

  たとえば、こういうことなのかなと思いました―

   19歳の女の子「なのに」芥川賞受賞。 
   資本金600万から始まった会社「なのに」時価総額7千7百億円に成長。

  では、恋する人間の気持ちにこれを当てはめてみると、どうなるでしょうか―
  
    自分のような人間「なのに」あんな素晴らしい人と恋ができる。

  まさに、コレでしょう。

  ということは、失恋はその逆になるのかなと。
  つまり―

     自分のような人間「だから」やっぱり恋は破れた。

  ということに。
  僕も失恋したとき、そういう気持ちになったのを思い出しました。
  所詮叶わぬ夢だった。あるいはしばらくの間は夢が叶ったけれど、元に戻ってしまった。

  「なのに」はこうあったらいいなという「夢」です。
  「だから」は「現実」です。

  世の中で「なのに」が注目されるのは当然ですね。その方がロマンがありますから。

  でも裏返せば、世の中の多くの人間が「だから」という接続詞で生きているからこそ「なのに」に憧れるのだと思います。
  失恋論は、「なのに」が当てはまるような存在になれなかった多くの人が、でも「なのに」になりたかったという思いの痕跡を、どう自分の中で消化していけばいいのか、ということを扱った本なのだなと、あらためて気づきました。

失恋は自分からする恋

2006-01-15 23:09:41 | Weblog
  このブログを始めて、いろいろな方の声を読ませていただいて、感じたことがあります。
  恋愛は、うまくいってないときの方が、話題を共有しやすいのではないでしょうか。

  恋愛しているときは、カッコつけたり、自分をよりよく見せようとしたりすることも、時には必要でしょう。

  でも失恋話をするときは、自分を取り繕う必要がありません。
  失恋話をするとき、自分のキャラに対して、あまり先回りした態度をとったりする必要はないですよね。
  カッコつけたって、失恋してるんですから。
  本当にカッコつけたいなら、失恋した話題なんてしない方がマシでしょう。

  いま、雑誌の見出しには「モテ」だの「モテ服」だのといった言葉が飛び交っています。
  どちらかというと、世の中の風潮の方に強迫されて「恋愛していないとイケてない」と思わされがちなところがあるのではないでしょうか。

  以前触れた、12月24日にクリスマスから逃亡したいと思ったという女性は、「クリスマスだから恋愛していなければおかしい」という世の風潮から逃げ出したかったのだと思います。

  だからといって僕は「恋愛なんて本当は必要ない」「世の中の風潮に乗るな」などと言いたいのではありません。

  ただ、恋をすることというのを、自分の側から始められないというか、動機が自分にないというのは、どこかおかしい気がします。

  失恋の話というのは、たとえばクリスマスに明るくなれないという人でも、自分の体験として語れる、失恋することによって、恋をみんなが自分の体験に出来るところがあるのではないかと思います。

  だから僕は、「失恋論」の本やブログを、昔の『失恋レストラン』の歌のように、恋する者がお互い鎧を脱いで語り合える場所にしたかったのです。

リセットできる恋、できない恋

2006-01-11 11:28:03 | Weblog
  私が長年お世話になっている人が失恋しました。
  その人をフッた人も、その人をフッた相手と新しく付き合っている人も、両方ともその人の同僚だというのです。
  これは、つらいですね。
  毎日顔を合わせなくちゃならない。

  その人は言いました。
  「『男はつらいよ』の寅さんが羨ましいですよ!」

  たしかに寅さんは、好きな女性が出来ると、彼女の職場で一緒に働いたり、実家を手伝ったりと甲斐甲斐しいのに、失恋すると、哀愁あるサックスのメロディとともに、トランクひとつでいずこへともなく旅立ちます。
  それはとてもしょんぼりした光景ですが、でも失恋とともに、自分の生きる場所をリセットする行為でもあると思えてきました。
  そう考えれば、羨ましくなくもない。

  だから寅さんはまた青空の下、威勢良くテキ屋をやって、新しいマドンナと出会い続けることが出来るのでしょう。

  それは同僚を愛したサラリーマンには難しそうです。

  しかし、最近こんなニュースを耳にしました。

  「失恋休暇制度」を取り入れている会社があるというのです。
  「年を取るほど失恋のダメージは深い」ため、20代前半は1日、同後半は2日、30代は3日と年齢に応じ休暇を増やしているといいます。

   幸い(?)にも「失恋休暇制度」を利用した社員はまだいないということですが、たしかに、イザそういう制度があっても、言いだしにくいですよね。
   でも本当につらければ、申請するかも。

失うことばかりじゃない

2006-01-09 09:31:44 | Weblog
   この「失恋論」ばかりではなく、ブログにはたくさんの失恋談がUPされています。
  毎日「失恋」という言葉でキーワード検索するだけで、「今日失恋した」という日記がいくつか出てくるほどです。

  トラックバックさせていただいているあるブログでは、失恋した女性が、12月24日、近くの神社に駆け出していって、クリスマスから必死に逃げようとする姿が書かれていました。
  クリスマスから積極的に逃げようとする。僕はそこになにかポジティヴさを感じました。
  その女性は「ネガティブに対してポジティブになる」と自分のことをおっしゃっていましたが、きっとそれが、失恋というマイナスなことをブログや日記に書く意味なのでしょう。

  その姿勢は、本当に何かを失った人を力づけると思います。
  他人をより近くに感じる力が、失恋バナシにはある気がします。

  僕は「失恋論」を書くことで、失恋の渦中にある人たちと対話をしてきました。
  それは他のどんな話題よりも、相手を身近に感じさせるものでした。
  その人とまた会いたいと思える時間でした。

  そして、その背中に呼びかけたくなるのです。
  「失うことばかりじゃない」と。

この星にすべてを賭けて

2006-01-01 11:03:59 | Weblog
 あけましておめでとうございます。

 初日の出を見ながら、自分が願い、追い求めているものはいったいなんなのだろうかと、改めて思いを馳せる人も多いのではないでしょうか。

 そういうとき、僕はなぜか反射的に、『巨人の星』というマンガを思い出します。空の星を見上げて、巨人軍の星となることを誓う主人公の姿が瞼に浮かぶのです。

 僕が子どもの頃、梶原一騎先生の原作による「スポーツ根性マンガ」が流行っていました。
 子どもも、あるいは野球好きのオトナも『巨人の星』の「♪思い込んだら試練の道を 行くが 男の ド根性」という主題歌を口ずさみ、他にも『あしたのジョー』『タイガーマスク』といった梶原先生原作によるビッグなヒット作が少年向けマンガの世界を席巻していました。
 マンガの世界だけではなく、一般的にスポーツは、高度経済成長の右肩上がりムードとともに、いまよりずっと国民的な支持を受けていました。
 「大衆=スポーツ」の時代です。

 そんな時代、もやしッ子だった僕はコンプレックスを感じていました。
 どうせ自分には体力も運動神経も根性もないんだ、と。
 当然梶原先生の作品に登場するヒーローにも引け目を感じていました。

 ところが同じ梶原先生原作の『愛と誠』という作品は、他とは趣が違っていました。
 このマンガは、スポーツを主題にしたものではなく、「純愛マンガ」だったのです。
 幼い時にスキー場で命を救ってくれた少年・誠がその時の傷がもとで不幸な道を歩み、結果的に札付きの不良高校生となったことを知った令嬢の早乙女愛は、初恋の人である彼に親の力を借りて手を差し伸べ、しかしそんなことに反発する野育ちの誠からのこっぴどい仕打ちに耐え、自分の立場に泥を塗られながらも、純愛を貫きます。
 不良高校生同士のケンカやリンチ場面などにはかなりハードな暴力描写を交えてはいるものの、その核に「純愛」というテーマを堂々と持ってきたのは当時の少年漫画にしては大変珍しく、このマンガは女の子にも人気があったのです。

 しかし僕の心を特に捉えたのは、実は主人公二人ではありません。
 早乙女愛に恋心を募らせ、ラブレターをしたため、恋人としては受け入れられなくてもひたすら献身的に彼女を守る岩清水弘の存在でした。 

 「君のためなら死ねる」
 岩清水くんがかつてラブレターの中に記したこの言葉を、早乙女愛は、彼が現われるたびに心に蘇らせます。

  この岩清水くん、勉強は出来るし教養もありますが運動神経はからきしありません。「ウラナリ」と呼ばれメガネをかけています。いまでこそ、女子の間で「メガネ男子」ブームが起きているようですが、当時「メガネ」といえばマイナスの記号でしかありませんでした(この頃メガネをかけていた僕が言うのだから間違いないです!)。

  「ウラナリ」と呼ばれる彼は、しかしまったくひるむことがないのです。
  自分に献身する早乙女愛の立場をさらに不利にし、おとしめようとする大賀誠。彼に対して、岩清水くんは決闘を挑みます。
  もちろん、殴り合いのケンカでは勝ち目はありません。かといって勉強で勝ってもこの場合意味はありません。
  ナイフの切っ先を上にして土中に埋め、二人でそこをめがけて後ろ向きに歩き、仰向けに倒れこむ。その際、ナイフから距離が離れていた方が負け。
  これが、岩清水くんの提案した「決闘」でした。
  一歩間違えれば、ナイフが自分の背中を貫きかねない。まさに「君のためなら死ねる」彼ならではの提案です。

  この岩清水くんのキャラクターは当時新鮮でした。スポ根ブームの時代、勉強ばかりしていてメガネの「ウラナリ」は、嘲笑の対象でしかなかったからです。
  僕にとって、この岩清水くんこそがヒーローでした。

  知っている人も多いと思いますが、少年院出身の梶原一騎先生は、マンガ原作者として全盛期を過ぎたあたりから、暴力的な言動が目立つようになり、事件も起こしています。悪く言う人も多いですし、誰もが恐れるコワモテな人だったのでしょう。
  そんな先生が、身体は虚弱でも恋する気持ちでは誰にも負けない、岩清水くんのような人間に物語の中で居場所を与えている。それが、とても嬉しかったのです。

   梶原先生の代表作である『巨人の星』のタイトルの由来を、先生が後に語っているのを読んで、驚きました。
  「浅草の星」と呼ばれたストリッパーに憧れていた若き日の梶原先生が、自分にとっての星を追いかける主人公に重ね合わせて付けたタイトルだったのです。
  
  そう考えれば、あの「♪思い込んだら試練の道を 行くが 男の ド根性」という主題歌も、まるで一途な恋の歌に聞こえてくるではありませんか。
 
  このストリッパーとの仲がどうなったのかを、先生は晩年の自伝的作品『男の星座』で描いています。一時期彼女と付き合っていた先生ですが、つい彼女に甘えて迷惑をかけてしまう。そんなとき、彼女に惚れたというインテリの青年があらわれます。彼の、自分のすべてを捧げても彼女を幸せにすると堂々と言うその気迫に、まだ街のチンピラ的存在でしかなかった先生は身を引くのでした。
  
  『愛と誠』で岩清水くんの恋は成就しません。恋に勝利するのはかつての自分に似た不良の大賀誠です。でも岩清水くんを、単にひ弱な負け犬としては描いていないのです。
  そこに梶原先生が送ってきた人生の中での会得があったのではないでしょうか。

  そしていま、スポ根などすっかり流行らなくなった時代に、僕は思うのです。
  誰かを一生懸命思ったり、自分の星を求めてすべてを賭けることは、そんなに愚かなことだったのだろうか、と。
  誰かに本気になること。それをすぐに「コワイ」よね、などと言い切ってしまい、気持ちを告げる行為すら「告る」という軽い言い方になってしまった現代。

  たしかにストーカーにまでなってしまったらやりすぎでしょう。
  でも恋する人を慕い続ける道というもの自体は、決して間違っていないと思います。
  
  と、ここまで書いて、そんなに力むこともないと気づきました。
  いくら否定しても、自分の中の星を見上げるということはやめられないのですから。