龍雲寺 (宇治田原町大字南小字東所1)
宇治田原町には龍雲寺という名前のお寺は2箇所ある。こちらは街の中心部に近い方となる。田原小学校の横を流れる川沿いの道を南下すると、小さな草原地帯の中にあるはずだ。
というのも、過去の写真においては本堂らしきものが見えていたが、2022年の今、建物は跡形もない。おそらくその背後にあったであろうと思われる高台に、何躰もの石造物が並んでいるだけだ。
創建の時期については詳細は分かっていない。途中で衰退したか何かの理由で、江戸時代初期に再興されている。鎌倉時代の道元がこの地を訪れて、自らの曹洞宗の教えを広める道場の候補地をこの辺りで探したと伝わる。最終的には福井県の永平寺となるのだが、どのような文献に記されているのかはわからない。
後年無住となり少し離れているが、町内の禅定寺が管理することになった。指定文化財もあったと言うが、おそらく今では禅定寺に移されているものと思われる。石造物だけが残されているというのも何か虚しさを覚える。
脇神神社
『旧名 十善社
新名 脇神神社
現在地 南脇神1番地
十善さん春祭の 呼び名で親しまれている。
1日切林地域の守り神(産土神)を祀る
脇神社春祭は、 現在切林自治会によって季節の始めに地域住民の無病息災・家内安全を祈り祀り続けられてます。
鎮守森にある社名脇神社の祭神は産土神(要水)が湧き出るように水神を産土神とて一切林村人々によりお十善さんとして祀り時の流れ応じた神事行い現在至っています。
現在一帯の図面無く、東南へ和束を経て、伊賀方面へ向く起点であって近くにわらじの養塔宝筐印塔 (町指定文化材)があり、 当時の面影を残している。
付近の谷合からは美しい清水が湧き出て、「まんぼう」という水路があり、住民の生活用水路として利用れていたいう伝承もありますが、現在切林川の改修工事によりその面影も変わり大井戸と呼ばれる共同井戸が残っていて切林発祥地を偲ばされます。旧家には当初より水の枯れたことのない井戸もありお十善さんのおかげであると言われます。社殿の建立について記録はありませんでしたが、先人達の伝承から明治初期 (3年) 神仏分離令が出され、後、官制神社制度が公布され十善は佛教用語のために十善社名を改め、地名を表示し、無格社ながら脇神神社と称し併せて社殿も改築されたと推定されます。
昭和30年 補修の実施
昭和55年 鳥居建設
昭和62年 11月に社殿の屋根葺き替え』
(広報うじたわら 平成29年2月 より)
田原小学校の横を流れる川沿いを南下し、集落の端に位置する。公民館があり少し高台になっているので目立っておりすぐに分かる。
創建の由緒等についてはわかっていない。この神社が昔から大事にされてきたことは、上記の説明により判断できると思う。本殿はそこそこ古さを感じさせ、全体が左側へ傾いており、支え木材でなんとか倒壊を免れている感じだ。
宇治田原及びその周辺地域は、太古の昔海底であり、町内の山麓等では貝の化石が多く見つかる。背後にはそこそこ高い山も聳えており、そこから流れてくる水というのは、人々の生活の維持の上では極めて貴重なものであり、その水が枯れないように祈るということを含めて、地域の鎮守社としての役割があったものと考えられる。そういった意味ではそこそこの歴史を持つ神社であるだろうと推測できる。
宇治田原町には龍雲寺という名前のお寺は2箇所ある。こちらは街の中心部に近い方となる。田原小学校の横を流れる川沿いの道を南下すると、小さな草原地帯の中にあるはずだ。
というのも、過去の写真においては本堂らしきものが見えていたが、2022年の今、建物は跡形もない。おそらくその背後にあったであろうと思われる高台に、何躰もの石造物が並んでいるだけだ。
創建の時期については詳細は分かっていない。途中で衰退したか何かの理由で、江戸時代初期に再興されている。鎌倉時代の道元がこの地を訪れて、自らの曹洞宗の教えを広める道場の候補地をこの辺りで探したと伝わる。最終的には福井県の永平寺となるのだが、どのような文献に記されているのかはわからない。
後年無住となり少し離れているが、町内の禅定寺が管理することになった。指定文化財もあったと言うが、おそらく今では禅定寺に移されているものと思われる。石造物だけが残されているというのも何か虚しさを覚える。
脇神神社
『旧名 十善社
新名 脇神神社
現在地 南脇神1番地
十善さん春祭の 呼び名で親しまれている。
1日切林地域の守り神(産土神)を祀る
脇神社春祭は、 現在切林自治会によって季節の始めに地域住民の無病息災・家内安全を祈り祀り続けられてます。
鎮守森にある社名脇神社の祭神は産土神(要水)が湧き出るように水神を産土神とて一切林村人々によりお十善さんとして祀り時の流れ応じた神事行い現在至っています。
現在一帯の図面無く、東南へ和束を経て、伊賀方面へ向く起点であって近くにわらじの養塔宝筐印塔 (町指定文化材)があり、 当時の面影を残している。
付近の谷合からは美しい清水が湧き出て、「まんぼう」という水路があり、住民の生活用水路として利用れていたいう伝承もありますが、現在切林川の改修工事によりその面影も変わり大井戸と呼ばれる共同井戸が残っていて切林発祥地を偲ばされます。旧家には当初より水の枯れたことのない井戸もありお十善さんのおかげであると言われます。社殿の建立について記録はありませんでしたが、先人達の伝承から明治初期 (3年) 神仏分離令が出され、後、官制神社制度が公布され十善は佛教用語のために十善社名を改め、地名を表示し、無格社ながら脇神神社と称し併せて社殿も改築されたと推定されます。
昭和30年 補修の実施
昭和55年 鳥居建設
昭和62年 11月に社殿の屋根葺き替え』
(広報うじたわら 平成29年2月 より)
田原小学校の横を流れる川沿いを南下し、集落の端に位置する。公民館があり少し高台になっているので目立っておりすぐに分かる。
創建の由緒等についてはわかっていない。この神社が昔から大事にされてきたことは、上記の説明により判断できると思う。本殿はそこそこ古さを感じさせ、全体が左側へ傾いており、支え木材でなんとか倒壊を免れている感じだ。
宇治田原及びその周辺地域は、太古の昔海底であり、町内の山麓等では貝の化石が多く見つかる。背後にはそこそこ高い山も聳えており、そこから流れてくる水というのは、人々の生活の維持の上では極めて貴重なものであり、その水が枯れないように祈るということを含めて、地域の鎮守社としての役割があったものと考えられる。そういった意味ではそこそこの歴史を持つ神社であるだろうと推測できる。
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