月光稲荷大明神
『月光稲荷神社 御由緒
御祭神
祇園 牛頭天王
正一位 月光稲荷大明神
愛宕山 大権現
御由緒
月光稲荷神社の起源は今から約一九十年前の寛政十年(一七九八年)に武信稲荷神社(創紀貞観元年”八五九年”現三条大宮西二筋目下ル)より分神してこの土地の守護神として鎮座されたことに始まる
ここ西月光町の土地は寛政八年(一七九六年)当時の地名は山城の国葛野鄙字月光といい建仁寺(現東山区)寺領であったが当時の徳川幕府(十一代将軍家斎の時代)の命により京都所司代によって銀四十貫(江戸時代の通貨の単位)を費やし約千五百坪の土地に土砂を高さ一尺五寸(約四十五糎)に盛り上げ天文台(寛政暦施行の準備のため)を設置した
しかし大変湿気が多かったため早くも寛政十年一月(一七九八年)に天文台は廃止され跡地は払下げられた
この払下げを受けたのが当時の瓦師丁(現在の中京区神泉苑瓦師町の五名の住民であり村の名前を西三条台村と称し守護神として前述の武信稲荷神社よりの分神を祭ったのが起源である
この御社は創建当時は現在の御前姉小路東入る井筒屋才次郎宅内(元山本善雄家)にあったが明治六年(一八七三年)現在地に移転した
尚境内にある石の常夜灯には嘉永五年子歳冬(一八五二年)の銘があり又昭和四年建立の石の鳥居に発起人として五名(荒木、前田、西田、山本、佐竹)の名前があるがこれは当初移住してきた住民の子孫である
祭礼としては十一月にお火焚祭を行っている
このお稲荷さんには昔この地区の氏神さんであった八坂神社の御祭神の牛頭天王と火の神様の愛宕神社の祭神を併せて祭っています』
(説明書きより)
JR山陰線二条駅の西側約200mの細い路地に沿ったところにある。この神社の由緒は上記説明書きのとおりとなる。
その中に土砂を盛り上げて天文台を設置したとあるが、この神社はそのことと関係していると言われる。元々は他に位置していたかなり古い歴史を持つ神社であったが、その土地にあった神社から分神されて、この地に新たに神社が設けられた。ちょうどその隣に天文台が設けられたことになる。
日本の暦は古くは中国における暦を元にしたものを採用していたが、暦と実際の日数、年月に差が出るのが以前から分かっており、その都度修正されながら使用されてきた。江戸時代の天文学者である渋川春海が緻密な観測と計算を通して、独自に大和暦を作成した。もともと幕府が使っていた暦は安倍晴明の一族がになっていたもので、この新たな大和暦に対して反対したと言われる。しかし当寺朝廷のあった京都を中心に作成された暦は、最終的に幕府に採用されることになる。江戸中期の頃だ。そしてこれが日本人の作成による最初の暦となった。
当寺は月の満ち欠けをもとに計算され、いわゆる「太陰暦」で暦が作られていたが、そのこともあってか、この天文台があった一帯は「月光町」と名付けられ、神社の名前も同様に「 月光稲荷」となったのではないかと推測される。町名は今もそのまま残っている。
こうして江戸時代以降のかなり精密な暦の基準は京都に置かれ、これを中心にして各地の子午線や緯度が計測されたと言う。江戸末期の地図測量士である伊能忠敬も日本全国を回り、かなり精密な日本地図を初めて制作したが、これも渋川春海たちの成果の上に成し遂げられたものだとも言える。そういった点からは、日本の江戸時代の科学や数学といったもの、或いは測量といったものがかなり高水準であったことがよくわかる。
『月光稲荷神社 御由緒
御祭神
祇園 牛頭天王
正一位 月光稲荷大明神
愛宕山 大権現
御由緒
月光稲荷神社の起源は今から約一九十年前の寛政十年(一七九八年)に武信稲荷神社(創紀貞観元年”八五九年”現三条大宮西二筋目下ル)より分神してこの土地の守護神として鎮座されたことに始まる
ここ西月光町の土地は寛政八年(一七九六年)当時の地名は山城の国葛野鄙字月光といい建仁寺(現東山区)寺領であったが当時の徳川幕府(十一代将軍家斎の時代)の命により京都所司代によって銀四十貫(江戸時代の通貨の単位)を費やし約千五百坪の土地に土砂を高さ一尺五寸(約四十五糎)に盛り上げ天文台(寛政暦施行の準備のため)を設置した
しかし大変湿気が多かったため早くも寛政十年一月(一七九八年)に天文台は廃止され跡地は払下げられた
この払下げを受けたのが当時の瓦師丁(現在の中京区神泉苑瓦師町の五名の住民であり村の名前を西三条台村と称し守護神として前述の武信稲荷神社よりの分神を祭ったのが起源である
この御社は創建当時は現在の御前姉小路東入る井筒屋才次郎宅内(元山本善雄家)にあったが明治六年(一八七三年)現在地に移転した
尚境内にある石の常夜灯には嘉永五年子歳冬(一八五二年)の銘があり又昭和四年建立の石の鳥居に発起人として五名(荒木、前田、西田、山本、佐竹)の名前があるがこれは当初移住してきた住民の子孫である
祭礼としては十一月にお火焚祭を行っている
このお稲荷さんには昔この地区の氏神さんであった八坂神社の御祭神の牛頭天王と火の神様の愛宕神社の祭神を併せて祭っています』
(説明書きより)
JR山陰線二条駅の西側約200mの細い路地に沿ったところにある。この神社の由緒は上記説明書きのとおりとなる。
その中に土砂を盛り上げて天文台を設置したとあるが、この神社はそのことと関係していると言われる。元々は他に位置していたかなり古い歴史を持つ神社であったが、その土地にあった神社から分神されて、この地に新たに神社が設けられた。ちょうどその隣に天文台が設けられたことになる。
日本の暦は古くは中国における暦を元にしたものを採用していたが、暦と実際の日数、年月に差が出るのが以前から分かっており、その都度修正されながら使用されてきた。江戸時代の天文学者である渋川春海が緻密な観測と計算を通して、独自に大和暦を作成した。もともと幕府が使っていた暦は安倍晴明の一族がになっていたもので、この新たな大和暦に対して反対したと言われる。しかし当寺朝廷のあった京都を中心に作成された暦は、最終的に幕府に採用されることになる。江戸中期の頃だ。そしてこれが日本人の作成による最初の暦となった。
当寺は月の満ち欠けをもとに計算され、いわゆる「太陰暦」で暦が作られていたが、そのこともあってか、この天文台があった一帯は「月光町」と名付けられ、神社の名前も同様に「 月光稲荷」となったのではないかと推測される。町名は今もそのまま残っている。
こうして江戸時代以降のかなり精密な暦の基準は京都に置かれ、これを中心にして各地の子午線や緯度が計測されたと言う。江戸末期の地図測量士である伊能忠敬も日本全国を回り、かなり精密な日本地図を初めて制作したが、これも渋川春海たちの成果の上に成し遂げられたものだとも言える。そういった点からは、日本の江戸時代の科学や数学といったもの、或いは測量といったものがかなり高水準であったことがよくわかる。
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