切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

宝樹院~香泉寺・・・それぞれの事情     京都市南区    2024.5.21 訪問

2024-06-19 22:57:04 | 撮影
宝樹院

 

 宝樹院は近鉄京都線上鳥羽口駅から、久世街道を西へ 2キロほど行ったところにある。訪問した日は閉門状態で、柵越しに一部分を写真に収めただけだった。
  門前に寺の名前が彫られた石柱があり、その裏側にごく簡単な由緒が彫られていた。開基は貞譽知泉大徳とされており、天正元年の建立。西暦では1573年というから、南北朝の終わり近くとなる。戦国時代も少し落ち着きつつあり、当時は平安京が応仁の乱などで多くの寺が消失し、かなり荒廃している中、再建されたお寺が次々と復興し、また同時に新たな寺院も創建された頃だ。こうして仏教が非常に盛んになり、各寺のすぐ近くにまた新たな寺ができると言った具合で、いわばお寺があちこちに密集するようなところも出現する。

 

 平穏な江戸時代が終わり、明治新政府ができると増えすぎたお寺の合併の方針が出され、 すぐ近くにあるお寺などがあちこちで一緒になるケースが出た。宝樹院は近くの4つのお寺と合併することになり、その結果各寺院の名前の一部を残すために、お寺の名称として「樹院西念寺」が採用されることになった。その結果各お寺の阿弥陀如来像が宝樹院に集まり、本堂には本尊として5体の阿弥陀如来像が安置されている。なおお寺そのものは昭和の時代に、付近の開発により移転している。

 


香泉寺

 

 香泉寺は吉祥院天満宮の南方にある。周辺は住宅街となる。浄土宗西山禅林寺派のお寺だ。創建等の詳細についてはわからない。門前に 寺の名称を彫った石柱が立っているが、その寺名の上に「菅家御廟所」と彫られている。つまり菅原氏とのゆかりのお寺ということになる。

  

 墓地には菅原是善の墓があり、また建物内にはその像が安置されているという。
 菅原是善は平安時代初期の貴族であり、文人であり、またその菅原氏の家系ということで、官位も授かっていた。当時はかなり有名な文化人として、小野篁や大江音人たちと親交があったようだ。世間の様々な動きに心動かされることなく、ただひたすら仏教を通して世の人々の安心を祈り、殺生も避けていたという。言うなれば平安京における俗世間的な動きや権力闘争、そういったものに影響されることなく、ただひたすら人々を慈しんで仏教の道を極めようとした人物だったと思われる。

 
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