切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

2020紅葉 京都市西京区・法輪寺~右京区・化野念仏寺

2020-12-13 23:29:29 | 撮影
法輪寺

        

 法輪寺は嵐山の中腹にあり、渡月橋のすぐ南側だ。広い駐車場があるが参拝者限定であり、その場合は無料となる。嵐山へバスや車で向かう時には必ず法輪寺の入り口の前を通ることになる。大きな立て看板があり、十三参りの文字が否応なく目に入る。つまり十三参りでも有名なお寺ということになる。
  訪れた時にはコロナの関係で人は少なかったが、本来は紅葉シーズンは下の道が人々でごった返し、車も渋滞している。この法輪寺にも多くの人々が石段の参道を上ってきて、広い展望台があるので、そこから嵐山から嵯峨野一帯を見ることができる。また東の方には京都市街を遠望することもできる。
 この地はかなり古くから開けており、開発には渡来系の秦氏の手も加わっていると言う。すでに奈良時代以前からこの地にはお宮が建てられており、周辺の人々から信仰されていたとされている。
 和銅6年、西暦では713年となる。つまり奈良時代のはじめに天皇による勅願で、僧行基がここにお寺を開いたと言う。当時はこの辺りの地名をとって「葛井寺」と言った。その後平安時代に入って現在の法輪寺という名前になる。かなり広く知られたお寺で、後年清少納言等様々な人の著作物や物語にも登場する。本尊は虚空蔵菩薩でありこれは秘仏となっている。他にも重要文化財の仏像がある。
 天皇による勅願で建てられたと言うが、国家安泰、五穀豊穣と言った全体として人々の平穏な暮らしを祈願する目的で建てられている。このような願いというのはそれ以前にあったお宮の信仰目的ともおそらく合致するものであっただろうと考えられる。そういった意味ではお寺とはいうものの、創建当時は神社的な要素も強かったのではないかと言えるのかもしれない。尤も平安時代には神仏習合が勧められ、お寺としてもこのような祈願が対象となるのも当たり前の状態になっていたと言えるのだろう。 十三参りの他に人形供養、針供養なども行われこれも非常に有名だ。
      
 (渡月橋)
  
 (京都タワー方面)
  


化野念仏寺  (*2018.2.28 掲載済み)

 

『化野念仏寺

 華西実漸院(かさいさんとうぜんいん)と号吉浄土宗の寺で、境内には付近から出土した多数の石塔や石仏が立ち並んでいる。
 化野は古くから鳥辺野、蓮台野とともに葬地として知られ、
   誰とても とまるべきかは あだし野の
       草の葉ごとに すがる白露
 という西行の歌にもあるように、「化野の露」は、人生の無常の象徴として和歌などで広く使われている。
 寺伝によれば、弘仁年間(八一〇~八二四)に、空海上人がこの地に葬られた人々を追善するため、小倉山寄りを金剛界、曼荼羅山寄りを胎蔵界と見立てて千体の石仏を埋め、中間を流れる曼荼羅川の河原に五智如来の石仏を立て、一宇を建立して五智山如来寺と称したのが始まりといわれている。当初は真言宗であったが、鎌倉時代の初期に法然上人の常念仏道場となり浄土宗に改められ、念仏寺と呼ばれるようになった。
 正徳二年-(一七一二)に寂道上人が再建したといわれている本堂には、本尊の阿弥陀如来坐像が安置されている。
 毎年八月二十三、二十四日に行われる「千灯供養」では、八千体にも及ぶ無縁の石仏等に灯供えられ、多くの参詣者でにぎわう。
 京都市』 (境内駒札より)

    

『化野念仏寺

 寺伝によれば、化野の地にお寺が建立されたのは、約千二百年前、弘法大師が、五智山如来寺を開創され、野ざらしとなっていた遺骸を埋葬したと伝えられる。その後、法然上人の常念仏道場となり、現在、華西山東漸院念仏寺と称し浄土宗に属する。
 本尊阿弥陀仏座像は湛慶の作、参道の釈迦・彌陀二尊の石仏と共に鎌倉彫刻の秀作とされている。
 現在の本堂・庫裡は、正徳二年(一七一二)十一月、岡山より来た寂道和尚によって中興されたものである。
 境内にまつる八千体を数える石仏・石塔は往古あだし野一帯に葬られた人々のお墓である。
 何百年という歳月を経て無縁仏と化し、あだし野の山野に散乱埋没していた石仏を明治中期、地元の人々の協力を得て集め、極楽浄土で阿弥陀仏の説法を聴く人々になぞらえ配列安祀してある。
 この無縁仏の霊にローソクをお供えする千灯供養は、地蔵盆の夕刻よりおこなわれ、光と闇と石仏が織りなす光景は浄占現の感があり、多くの参詣がある。石仏や石塔が、肩をよせ合う姿は空也上人の地蔵和讃に

これはこの世の事ならず死出の山路のすその
なるさいの河原の物語・・・
みどり児が河原の石をとり
あつめこれにて廻向の塔をつむ
一重つんでは父の為二重つんでは母の為・・・

とあるように、嬰児が一つ二つと石を積み上げた河原の有様を想わせる事から西院の河原という。

 あだし野は化野と記す。「あだし」とははかない、むなしいとの意で、又「化」の字は「生」が化して「死」となり、この世に再び生まれ化る事や、極楽浄土に往生する願いなどを意図している。
 この地は古来より葬送の地で、初めは風葬であったが、後世土葬となり人々が石仏を奉り、木遠の別離を悲しんだ所である。
兼好法師の徒然草に

あだし野の露消ゆる時なく鳥部山の烟立ちさ
らでのみ住果っる習ならば如何に物の哀もな
からん世は定めなきこそいみじけれとしるさ
れ、式子内親王は、
 暮るる間も
  待つべき世かはあだし野の
   松葉の露に嵐たつなり
と歌い、西行法師も
 誰とても
  留るべきかはあだし野の
   草の葉毎にすがる白露

と人の命のはかなさを詠んでいる。
 竹林と多聞塀を背景に、茅屋根の小さなお堂は、この世の光はもとより母親の顔すら見る事もなく露と消えた「みず子」の霊を供養するみず子地蔵尊で、毎月お地蔵様の縁日には、本堂にみず子地蔵尊画像をおまつりする。
 仏舍利塔の内部は、納骨堂で、一時預かり納骨・永代供養納骨・合葬納骨など、御遺骨を納めて頂けます。』 (パンフレットより)

      

 嵐山から嵯峨野一帯の北部の方にある。この辺りは多くの有名寺院が並び、散策しながら回ることができるし、この北部にある化野念仏寺にも歩いてくる人が多い。境内の特徴的な風景からテレビやその他でよく取り上げられ、全国的にも知られるお寺だ。
 平安時代に空海上人によって創建されている。上記の説明にもある通り当時、嵯峨野一帯は流行病や疫病などで多くの死者が出た。それらの遺骸は草原地帯だったこの地に簡単に葬られたり無造作に捨てられたと言う。特に埋葬してお墓を作ってということはあまりなく、いわば平安京の死体の始末場所だったということになる。空海はおびただしい遺骸を目の前に一体一体の遺骸に対して小さな石を掘って石仏とし、また石塔としてその死を後世に伝えるために約1万体も掘ったと言われている。
 後にお寺は衰微するが再興されて、野ざらしになっていたあちこちのそれら石仏などを集めこのお寺に並べることになった。こうして今現在は約8000体の石仏石塔が所狭しと並べられている。このようなお寺は全国的にも類を見ないほどのものであり、大半が無名の庶民であった。人々の霊を慰めるために一人の僧が心を痛めながら弔ったと言う極めて人間的かつ人の道として、なすべきことをなしたという意味で極めて大きな意味を持つものと言える。
 今でこそある意味、その境内が観光化している面は否めないが、実際には心の中に悩みや苦しみを抱えた人々が訪れ遥か過去の名もなき死者たちに語りかけているかのような場面を見ることもある。お寺では名前の通り1000年以上も前に亡くなった人々の、そしてその後も日本各地で様々な理由で亡くなっていた人たちに対する弔いの念仏を一心に唱える僧たちの声が聞こえてきそうだ。
 確かに念仏寺はシーズンに限らず、境内に入った途端ある意味圧倒される。はるか昔の人々のあるいは仏教に携わった僧たちの何と人間味に溢れた行為に驚かざるを得ない。ただ単にすごい数の石仏だ、と興味本位の目で見るだけでは済まないものがある。
 化野念仏寺の紅葉は初めて見ることになった。端的に言えば素晴らしいの一言となる。境内一面の石仏と紅葉。この取り合わせが素晴らしくないはずがない。しかし赤い輝きを放つ紅葉も何週間か後には散っていく。そして枯葉となって飛んでいく。そこにはおそらく空海が遺骸の山を見て心の中に覚えた無常観というものが、今にも通じるものとして感じさせられる。その重みに大きな違いがあるとはいうものの、人間と言う生を得て最後に死を迎える存在が逃れることができないでものである限り、こうした無常観というのは人々の心のどこかに存在し続けるのだろうと思わさせられる。

            
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