切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

教王護国寺北総門・地蔵院・教王護国寺宝菩提院   京都市南区

2024-01-27 22:26:24 | 撮影
教王護国寺北総門



 東寺には敷地が広いだけに多くの門がある。無論もっとも有名で目立つのは九条通りに面した南大門となる。間口がかなり広く高さもあり、壮大な構えを前を走る車の人々に見せつける。圧倒的な迫力と言える。もちろん国の重要文化財に指定されている。
 しかしそれ以外の東・西、そして今回の北総門も見事な造りの四脚門となる。大きさこそ南大門には及ばないものの壮麗な彫り物も含め、鎌倉時代に建てられたものとして、その存在感は非常に大きい。この北総門も国の重要文化財に指定されている。
 東寺に来る人たちは大半が東の入り口を使い、入ってくる。そこが受付になっており駐車場にもなっているからだ。従って南大門や北総門をあえて見に行く人は少なく、これは残念なところ。是非ともその年紀も含めて見ていただきたいと思う。

 


地蔵院

 

 北総門から南へ向かうと、北大門がありの間にいくつかの塔頭寺院がある。地蔵院もその一つ。塔頭寺院といえばどうしても観智院が非常に有名で、国宝を有するが、この地蔵院も比較的目立たないとはいうものの、れっきとした東寺を構成する一つの重要な寺院だ。

 


教王護国寺宝菩提院

  

 宝菩提院は地蔵院のすぐ隣にあり、もともとは観智院の向かい側にあった。洛南高校の設置に伴って今現在の地に移った。東寺の塔頭寺院の一つであり観智院と共に、別格子院として扱われている。鎌倉時代中期 1279年の創建。国宝を有する。これも非常に 由緒のある寺院だ。普段は公開しているかどうかは分からないが、少なくとも特別公開はあるので、おそらく観智院とともに拝観できる時期があると思う。


   
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満足稲荷神社~寂光寺・・・戦国武将達も     京都市左京区

2024-01-22 22:26:53 | 撮影
満足稲荷神社

  

『御祭神、本社、 倉稲魂大神(うがの みたまのおおかみ)
     末社、天照大御神
        大国主大神
        猿田彦大神
由緒要略
当神社は後陽成天皇文禄年間、豊臣秀吉公の勧請にして、もと伏見桃山城に鎮座同城の守護神として秀吉公の崇敬篤く社名の満足の二字は秀吉公が大神の御加護を蒙りすこぶる満足するところありたるを以って呼称し奉るという。後元禄六年、徳川綱 吉公が今の地に遷祀す。為に近隣の繁栄著しく、爾来、衣食住の大祖、万民豊楽の霊神として広く地方一般人の崇敬を蒐められ、御神徳あらたかなる故を以って、明治四十一年幣帛共進神社に指定せらる。』
  (説明板より)

  

 左京区の東山三条北側にある。東大寺通りに面しているのでよく目立つ。もともとは豊臣秀吉が伏見城の守護神として城内に創建したものだった。名前等の謂われについては上記 要略の通り。豊臣家が滅亡し徳川の世の中になると、伏見城は取り壊され神社は現在地に遷される。新たな場で法皇寺の鎮守社として境内に存在していたが、これも明治維新の際にお寺の方が南禅寺の塔頭寺院となり、神社だけがこの場に取り残される形になり、今現在に至る。

 創建は戦国時代末期と言われる。境内にはかなり大きなクロガネモチの大木があり、これは太い幹の下の方から 8本もの枝が別れ上方に伸びており、極めて珍しい形をしている。ゆえに当神社の御神木として扱われており、京都市の指定樹木となっている。樹齢は約400年と考えられ、おそらく伏見城敷地内に建立された頃から育ち始めたものだと考えられる。

   

 神社は今現在でも年間通して、様々な祭事が行われ、その度に多くの人が集まり非常に賑やかで活発な神社だと言える。ご利益としては、商売繁盛・五穀豊穣の神として多くの信仰を集めている。なお末社として以下の3社が本殿の背後に控えている。
・大神宮社・・・天照大御神(あまてらすおおみかみ)日本の神様の始祖
・大国主社・・・大国主大神(おおくにぬしおおかみ)縁結びの神
・猿田彦社・・・猿田彦大神(さるたひこおおかみ)交通安全・土地守護の神

   



寂光寺

  

『寂光寺

妙泉山と号する顕本法華宗の寺院である。
 寺伝によれば、天正六年(一五七八) に日淵上人により創建され、はじめ久遠院と号し、穴町出水(上京区)にあったが、 後に寺町二系(中京区)、更に宝永五年(一七〇八)にこの地に移った。
 当寺二世の日海は、寺内塔頭の本因坊に住み、本因坊算砂と号した。算砂は、碁技を仙也に学び、当時は敵手なく、織田信長から「名人」の名を贈られた。次いで、豊臣秀吉、徳川家康に碁を教え、以後、本因坊の名称は、碁界家元の地位を持ち、 技量卓抜な者が襲名継承することとなった。二世算悦、三世道悦を経て四世道策の時、本因坊は当寺から江戸に移った。
 寺内には、本因坊の算砂、算悦、道悦の墓があり、寺宝として、算砂の画像や近衛関白家より拝領の唐桑の基盤等を蔵している。
  京都市』
 (駒札より)

  

 左京区東山 三条の北側にある。東大路通りからは少し西側に入った中にあり、通りからは見えない。細い路地を入っていくと寂光寺の山門があり、そこから広大な境内が広がる。建物はゆったりとした敷地に建てられており、それだけでかなり風格と由緒のあるお寺だということを感じさせる。創建は安土桃山時代の終わり頃となり、法華宗のお寺。

 このお寺の塔頭である本因坊に住んでいたのが 日海という人物であり、彼が囲碁の達人でその対局の様子を見た織田信長が、彼を「名人」と呼び、この呼称が今現在に至るまで 囲碁の位として使われている。それ以降の流れは上記駒札の内容の通りとなる。

  

 囲碁そのものの原型は紀元前2000年頃の中国にあると言われ、それが各地に広まり、後のヨーロッパにおいてはチェスなどとして成立し、朝鮮半島から日本へはおそらく漢字や 仏教などと共に、5世紀頃に入ってきたのではないかと考えられている。平安時代になると 藤原氏や僧たちの間で楽しまれ、ただ単なる遊びから時には朝廷内において、強い者が対局するような場もあったという。当時の「源氏物語」や「枕草子」などと言った文学作品にも囲碁のことが記されている。
 室町時代以降、武士の権力が中心となり、そのような武士階級の人たちに限らず、次第に 商人や農民たちの間にも囲碁を楽しむ風習が広がっていく。そして上記の日海は信長や秀吉、さらには家康の指南役としても活躍し、家康からは大きな報奨を受けている。江戸時代も半ばになると、徳川家は各地から囲碁の強い者を集め、いわば日本一を決めるような大会のようなものを開催するまでになる。こうして強い棋士たちはそれぞれ家元を作ってそれが制度化されるようになっていく。明治以降に困難な時期もあったようだが、今現在も囲碁は日本や韓国、中国で盛んに行われており、将棋とともに多くのアマチュアやプロが楽しみ、また活躍するようになっている。

 
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妙音寺・・・寺田屋旅館のすぐ近く         京都市伏見区

2024-01-20 22:05:37 | 撮影
  

  妙音寺は有名な寺田屋旅館のすぐ近くにある。寺田屋は幕末において、尊王攘夷派の一つの拠点となっており、ここで襲撃を受け 7名が切られて亡くなるという大きな事件が起こったところだ。今現在では観光名所として多くの人が連日 訪れている。その裏側に妙音寺はあるが、普通に見たところ石地蔵などがあるものの、お寺として非常に分かりにくい。雑草などにも囲まれておりお寺の看板が非常に見にくいこともある。そういった草木を分けて 妙音寺の表札がやっと見えると言った状態だ。

 

 天台宗の寺院で、創建等の経緯については分からなかった。天台宗そのものは元来、中国本土において成立したものだが、奈良時代から平安時代にかけて日本に導入されることになる。既に奈良時代には仏教勢力が、主に禅宗を中心として広まっており、また朝廷からも 絶大な支持を受けていた実態があった。しかしあまりにも朝廷権力に近づきすぎていたために、朝廷内においても天皇家の一部がこのままでは仏教によって権力の座が奪われてしまうのではないかとの危惧があり、それが桓武天皇によって具体的な動きとなって示されることになる。つまり伝教大師最澄を中国に派遣し、天台宗の奥義を学ばせそれを日本に持ち帰ると同時に、仏教勢力の強い平城京から改めて都を京都に移す、つまり平安遷都を行い、本来の奈良仏教との隔絶を図り、朝廷の力を再度高めよう という狙いがあったということになる。そういった意味でこの天台宗が果たす役割は非常に大きなものとして、桓武天皇達に大きな期待を抱かせるものとなった。

  

 このような経過をたどった天台宗は、その後日本の仏教界に深く根付き一つの大きな勢力として現在にまで至ることになる。
  妙音寺は門のありかも分かったものの、その内側に境内が広がるかどうかがさっぱりわからない。しかし門前に多くの石地蔵や植栽が見られ、そこが境内代わりになっているような雰囲気がある。中でも特に目立つのが「子安観音菩薩」だ。ひときわ大きく存在感を呈している。これも元は中国から伝来したものと言われ、その信仰の歴史は非常に古い。そういった意味では、中国から導入された天台宗との関わりが強いものと考えられ、古くから 安産に関するご利益があるものとされている。妙音寺というお寺が何を本尊として構えているのかは分からないが、少なくとも門前の広場のようになったところにこのように構えているのを見ると、それ相応の 見応えがあるものと言える。

  
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浄慶寺・・・信長の命          京都市中京区

2024-01-15 22:42:09 | 撮影
 

『真宗大谷派 小野山 浄慶寺

宗祖 親鸞聖人(一一七三〜一二六二)
本尊 阿弥陀如来

 当寺は尾州中崎郡宮田村(愛知県一宮市富田夜宮)に所在した浄土真宗 浄慶寺であり、戦国の世、織田信長の命により、複長の中場家・富田家と共に京都へ向かった。途中、近江国浅井長政の擁護を受け蓮如上人の木像を授かった。また、安土城築城にも檀信徒が携わり天守閣の天井絵を画い た木村光頼(狩野山楽)も檀家となり共に信長の亡き後、豊臣秀吉に懇願され上落したといわれている。京の地に入った折りには徳川家康の加護のもと、慶長九(一六〇四)年、当地御幸町竹屋町南の地に、ほぼ現在と同様の地形で堂屋が建立され真宗大谷派(東本願寺)末寺となる。よって当時の住顧法名釋良祐律師を浄慶寺の開基とする。
 この地は、およそ八百年前、源三位源頼政公の旧館の地で、境内に残る石地蔵は、当地の地主(その土地の守り仏)として大切に受け継がれている。
[山号の由来]
 桃井宮家の御料地であった小野(京都市左京区上高野小野)に小野山が走り、その山中にあった宮家の御殿を拝領して当寺の本堂と成した。そのご縁により「小野山」の山号を賜った。
 当寺四世阿得院釋元程は和歌譜に優れ、桃井宮の師資となり、よって宮より厚い加護を受けた。元治元(一八六四)年禁門の変で当舎が全焼した折りも、その遺続により梶井宮家から妙心寺門前に仮堂支援を受け、程なく本堂も再建された。
   現在 ニ十一世住職 釋浩彰』   (駒札より)
  * 駒札の文字が霞んで、判別できない箇所もあり、一部誤植の可能性があります。

 

 京都御所の南側にある。創建は江戸幕府が開かれた翌年の1604年。しかしその元になるものは平安末期の武将源頼政の邸宅があったところとなる。そう考えると実に 800年以上もの間この地に邸宅があり、それが途中でお寺になったということになる。頼政の邸宅にあった石地蔵が今現在も寺に残るという。もともと浄慶寺そのものは尾張国(尾州)にあり、浄土真宗のお寺であったという。このお寺については戦国時代に織田信長や浅井長政などが関わっており、その命によって京都の地に新たに創建されたという。その際浄土宗の東本願寺派のお寺として創建された。
 寺の正面はかなり小ぶりなもので、山門も決して目立つものではない。駒札がなければ、かなりな由緒のあるお寺であることは見逃されてしまうだろう。門は閉まっていたので身を乗り出して境内の撮影をしたが、奥に細長いかなり狭い境内だった。その奥には広い土地もあったのかもしれないが、本堂らしき建物も小さなものに思われた。見えていたものが本堂であったのかどうかは確信が持てない。 800年前の石地蔵や浅井長政から送られたという 蓮如上人像もあって、公開日には是非見てみたいものだと思う。

  
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頂妙寺・・・俵屋宗達         京都市左京区

2024-01-13 22:30:44 | 撮影
  

 京阪三条駅の 少し 北側にある。 広大な敷地を有し 本堂などの伽藍は悠然と 建っている。 境内の 端に沿って 多くの 塔頭寺院 があり、 鎮守社の 神社もある。
創建は室町時代1473年。日祝による。 その後、度々の災禍などによって 各地を点々とする。 江戸時代中期の天明の大火で 伽藍のほとんどを消失し、その後再建。
 日蓮宗の本山となる。日蓮宗と言うことで、本尊は「十界曼荼羅」となる。
 格式のある寺院だが、その割には 広い 境内に 訪れる人は 少ない 感じだ。 大きな寺院にありがちな 庭園がほとんどないに等しい。 重要文化財として 俵屋宗達の 絵画がある。
 また総門を入り、目前に現れる「仁王門」は必見。本来ならば、金剛力士像があるのだが、ここには持国天像、多聞天象があったという。これは運慶作と伝わるが、どこまで確証のある話なのかはわからない。火災で焼け、頭部のみ現存するらしい。


            
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