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水戸学

2010年12月17日 | 旅 行事
水戸城祉の立札に、「明治維新の源流:水戸学の地」とある。
つい先日、NHK大河ドラマ「龍馬伝」が終了し、土佐・薩摩・長州の記憶が鮮明だったこともあり、
徳川御三家の水戸藩がなぜ明治維新の源なのか、ふっと疑問に思った。
水戸駅前のホテルから朝の散歩で、この辺りの文京ゾーンを散策すると、“水戸っぽ“と呼ばれる一本筋の通った気質を感じる。
三の丸小学校の門柱や切妻の校舎は、神社か武家屋敷の風情、生徒たちは落ち葉を掃く先生たちと元気よく挨拶を交わし、通りすがりの自分にも声をかけてくれる。
実にすがすがしい。
小学校のすぐ隣、弘道館の正門が威厳備えて現れ、「映画:桜田門外の変」のノボリが風になびく。
地域有志の力で、映画化を実現し、地域おこしに一役買っているとのこと。
天狗の党の乱で激しい攻防があったという大手門を曲がると、整然としたフェンスの外の歩道を、
茨城大付属中の生徒の当番だろうか、箒で落ち葉を必死に掃き集めている。
ここは、師範学校跡で幼稚園まであるようだ。
水戸250年の治世の中で、名君と呼ばれる3人について:
「威公」
水戸は、徳川の前の藩主は佐竹氏で、関ヶ原の戦いで西軍について破れたため、秋田に転封になり、家康の第11子:頼房が初代藩主として40年近く治世、「威公」と呼ばれ水戸藩の基礎を築いた。
「義公」光圀1628-1700(73歳)
光圀(水戸黄門)は2代当主で、尊王思想を中心に大日本史の編纂を手掛け、以後250年に亘り、その偉業は引き継がれ1906年(M39)全37巻を完成したとある。この尊王思想に攘夷思想が加わり、水戸学の基になっている。
講談で、全国を行脚して悪を懲らしめたという武勇伝は、どうも庶民の願望から生まれた創作らしい。
でも、実際に江戸屋敷(小石川)から全国の現状を調査したという。
「列公」斉昭1800-1860(最後の将軍:慶喜の父)
9代当主、藤田東湖など思想家の支援を受けて、賄賂の撲滅など領民のための改革を断行した。
これは、「天下の魁」と呼ばれ、天保の改革に先んじて行われた。
弘道館は、藤田東湖ら学者の意見を基に、外国勢力に備え、社会や政治の腐敗堕落を改革し、国家の独立・発展に役立つ人材を養成するため、従来の諸藩の藩校とは違った構想で造られた。
敷地54,000坪は、金沢:明倫堂17,000坪、幕府の昌平黌11,000坪と比べても雄大。

今年のNHK大河ドラマで、坂本龍馬が長州と薩摩の同盟を果たし、大政奉還に貢献するシーンが描かれているが、水戸学の尊王攘夷思想がそういう気運を作り出していたという。
長州藩毛利氏の祖、大江広元(鎌倉時代)は朝廷に仕える学問の家柄で、家系は神別、血筋は皇別と言われる。関ヶ原の戦いで西軍の総大将を務め、中国10ケ国から防長2ケ国に減封され、辛うじて生き残った藩。江戸時代を通して、朝廷への義理を果たし続けた。
長州と水戸の二藩が、藩士レベルの尊王思想で盟約を結び、密かに活動して明治維新の源流を築いてきた、というのが、水戸の誇りのようだ。
しかし、江戸末期の幕府から弾圧を受け、いくつかの国難を経て、1864年「水戸天狗党の乱(筑波山挙兵)」で致命的な水戸の悲劇を生むことになる。このとき、死罪、島流しなど600人以上の大量処刑が行われ、
水戸藩は明治新政府に一人の高官も出すことができなかった。
国難1)、開国を実施した幕府の大老:井伊直弼と斉昭公は対立し、水戸藩は安政の大獄で処罰された。
2)1960年桜田門外の変で、尊王攘夷派の水戸浪士に襲撃された井伊直弼は死去。
3)その他にも、水戸浪士による過激な事件が起きた。(イギリス公使館を襲撃、坂下門外の変など)
薩摩・長州に先んじて、尊王攘夷を唱え、改革を急いだ水戸藩であったが、時代の流れを呼び寄せることができなかった。
この時代の遺伝子(実は多様だった江戸文化)が、日本各地でそれぞれ脈々と引き継がれ、独自の地方文化を作り上げていることを改めて実感、興味が尽きない。


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