ご隠居さん:自我や世間の枠にとらわれず、社会の潤滑油となりたいものです。 AI時代は 人間らしい自由な発想がカッコいい

年を重ね、経験を積むにつれ、その時々の思いも変わっていく。その足跡を残しておくために

武蔵御嶽山ハイク

2012年03月23日 | 旅 行事
熊本の学友2人を誘って、奥多摩の武蔵御嶽神社にハイキング。
3人とも、中央線、西武線と近くに住んでいるので、すぐに話がまとまった。
西武線回りで、JR青梅駅で待ち合わせ、御嶽駅下車、そこからバスでケーブルに乗り換え
数分で御岳山駅に着いた。
春の陽気に恵まれ、青梅線はお年寄りのグループで押し合い状態、
若い女性グループも結構多い。何が目当て?
すぐに疑問が解けた。いくつ目かの駅が梅の名所、今年は例年により遅く、
今がちょうど見ごろとか。
そこでほとんどが下り、御嶽駅に着くころにはほんの10数人になっていた。
ケーブルの終点、御岳山駅には、道の脇に雪が残っていて、宿坊やら民家やらが連なっている。
ここは、山岳信仰の霊地として、昔から生活の場だったんだ。
しばらく行くと、ビジターセンター、野鳥や花の生態が、模型、写真、工作品で学習できるようになっている。
2F奥には、こたつまで置いてあり、とてもくつろげる雰囲気だ。
ロウバイ、カタクリ、ツツジ・・・カワセミムササビetc.
いつか、孫を連れて来たいものだ。
案内の人に「ここの神社は、たしか作家:浅田次郎さんの生家では?」
すると、「ああ、親戚がこの先で民宿をやっていて、ときどき参拝に見えるんですよ」
新幹線の機関誌で、ここからの眺めを褒めていたのを思い出す。
神代ケヤキ:樹齢1000年、大木の様な根が何本も張り出し、枝は根元から切り落とされて、
何とかバランスを保っている。

そのすぐ参道沿いに、お土産店・お食事処が軒を連ねる。
今は、観光が主だが、戦前の国家神道が盛んな頃は、参拝客で賑わったことだろう。
入り口の店で、こたつを進められて、うどんを食べることにした。
店のおばあちゃん86歳、ご亭主を早くに無くし、女手一つで20代から切盛りしてきたという。
理工系で好きでなかった家業を継いだ亭主、立川で病院をやっている自慢の息子さんの事など、きっぷのいい話ぶりが心地よい。
今でも、経理の計算をやっているとか。
若い頃から働き者、お店と子育て、それにご亭主の介護にと、寝る間もなく、ここの不便な生活に耐えてきたという。
人気のTV「ちい散歩」にも、2回取材されたそうで、おばあちゃんと2ショットの大写しの写真が貼ってあった。
この小さな体の、どこにそんな力が潜んでいるのか?
母より2歳下、苦節を乗り越えてきたこの世代は、強く、優しく、凛としている。
戦後生まれの、我々3人や家族には到底我慢できないことだろう。
ここの生活を投げ出して、自由を手に入れるため、あくせくした人生を送っているのだろうか?

私たちは3人とも、熊本生まれの長男、2人はすでに両親はなく、1人が両親を施設に預け、また来月帰省する予定。
ふと、戦後を境にした社会・世代のギャップを感じながらも、おばあちゃんとの話がはずんだ。
帰り、子しゃもじを3つプレゼントしてくれた。
奥のテーブルにいた10人ほどの若いグル-プは、何を話すでもなく、おとなしい。
そんな客に、物足りないんだろうな、と思った。

御嶽神社までの石段の両側に「何々講」という碑がいくつも並んでいる。
関東一円の地域の、信仰だけでなくいろんなの集まりの参拝記念や寄進だろう。
本殿の周りにいくつもの祭神が祀られ、中には日光東照宮の家康公のものもある。
他に、「おいぬさま」という犬に因むものもあり、ケーブルカーで犬連れが多かったことに納得がいった。
標高929m、この山奥にも昔から営々と続く生活がある。

今、日本はグローバリゼーションの波と戦後の拠り所のない社会体制の中で、行き場のない状態に置かれているように思えるが、
何も心配することはない。
いざとなったら、こんな山奥の生活だってあるんだ。
そう考えると、不思議にしっかりとした覚悟ができる。

こういう場所は、これからもずっと残していくことが必要だと思う。
年を取って、何が大切か分かるようになったら、消費を通じてそういうものを残すことに協力しよう。
それもあって、おみやげを2つ買った。

駅の前や家の近くの小さな商店街も、ずっと残って行って欲しい。
だから、できるだけ野菜、食料品やお菓子を買いに行くようにしている。
高齢者パワーで、効率一辺倒の社会のひずみを、少しでも正せないだろうか??

御嶽山というのは、全国各地にあり、有名なのは「木曽の御嶽山オンタケサン」
日本古来の山岳信仰のルーツ、仏教伝来より前からの、民族の精神性の源流と言った存在だろう。
黒岩重吾の飛鳥時代の歴史もので、朝鮮半島からの帰化人による大和朝廷勢力に追われ、
蝦夷と山岳に追われた原住倭人を思い出す。

青梅線沿いの多摩川渓谷は、深く切り立ち、清流が勢いよく流れている。
青梅街道は、新宿を過ぎて甲州街道から分れ、青梅に通じて、また甲府手前で合流する163Km、裏甲州街道ともいう。
秩父と同じく、石灰石を採り、運んだらしい。






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