金さんの「あっちこっち」Hot Line

大好きな奈良を走る金さんの東奔西走の日常活動録。家庭菜園や地域活動や、学校支援に走ります。

NO951 中国帰国者交流会総会

2015年06月14日 | 地域活動

生涯学習センターで、「第13回中国帰国者交流会」総会に出席した。仲川市長をはじめ、山中県議、高杉、伊藤市議や大阪、兵庫、堺市、滋賀交流会の代表そして民間交流5団体の来賓が参加して総勢約100名の総会だった。

 


仲川市長は、帰国者が作る水餃子を見学して、みなさんを激励されていた。




思い返せば、15~6年前に売間団地で、中国残留孤児がゴミを持ち帰ると問題になり新聞記事になった。この記事で、奈良にも残留孤児がいることを知ったのが付き合いの始まりだった。

 

以後、日本語教室を開催したり、彼らの出身地「ハイラル市」を10数人の「地球人村」のボランティアで訪問したり、日常生活の相談にのったり、残留孤児の生活保障のために浜四津参議院議員に要望をしたり、様々なイベントに参加してもらうなど懐かしい、楽しい思い出ばかりだ。

 

代表の井上さんは、大連で終戦を迎え残留孤児の保証人になるなど半生を残留孤児(中国帰国者)のために過ごしてこられた。あるときは、夜中に電話がかかってきて病院に付き添ったり、市役所に手続きに付き合ったり、夫婦喧嘩の仲裁に訪問したり、また、帰国者に少しでも、楽しみを与えたいと桜の花見や様々なところに連れていき、帰国者を少しでも日本になれさせようと、私財をなげうって彼らを支えてこられた。

 


井上さんは、総会資料に「戦後70年を迎えて」と題してあいさつ文を書かれていたが、その中で「私事ですが、私の住んでいた大連にも戦時中はB29の爆撃があり、戦後はソ連軍の進駐を受け、その軍隊は極めて無知で粗暴だったため、在留邦人は皆、引き上げまで口には言えない苦難の道を歩みました。

 

終戦から引揚げまでの苦難の思い出は、人それぞれかもしれませんが、中国残留孤児たちの当時の満州奥地における悲惨な逃避行を思うとき、満州最南端(大連)で過ごした私とは比較にならないと思います。」

 

そしてあいさつの最後に、「絶対に戦争はしてはならない」と付け加えられました。

 

本当に頭の下がる思いでいっぱいだ。その井上さんも80歳を超えられた。井上さんの帰国者に対する情熱を受け継ぐ人はいるのだろうか?

 

今日も、帰国者の多くの人と話したが、顔馴染みになったおばさんからは、「長いこと顔を見なかったね!」(新年会を欠席した)や片言の日本語で「元気だったか?」と声をかけられた。二胡の演奏者の男性や秋篠団地に住んでいるおばあさんや、ご主人を亡くした売間団地のおばあさん(新聞に掲載された方)

みんな元気で嬉しそうな顔をしていたが、長生きをしてもらいた。

 

帰国者交流会の日本人スタッフも増え、帰国者も日本社会になれ生活も少しは楽になったかな?

 

      

帰宅後、菰川の草刈りに出かけた。パンジーもいよいよ終わりなので、また植え替えをしなければいけない。

 


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