原子力エネルギー問題に関する情報

杜撰で不経済極まりない原子力政策が、生存権を脅かし環境を汚染し続けていても、原発推進派の議員を選挙で選びますか?

ツイッター連載ドキュメント「チェルノブイリ」

2010年05月11日 | チェルノブイリ原発事故関連
Twitter: rengepapaさんが、1993年にチェルノブイリ原発から15キロ地点にある高濃度汚染地帯の無人の村を訪問された時のことをつぶやかれている。 直接訪れた方の体験は、ジャーナリストのルポルタージュ(現地報告)と同じなので、是非多くの方に読んでいただきたい。

rengepapaさんが直面し、無人村訪問のきっかけとなった地元での原発建設計画は、今の政権が原発増設計画を続ける限り、いつかあなたが住む町の問題になるかもしれないのだ。

rengepapaさんについて:世界最大級出力の川内原発3号機新設の動きがある川内原発風下に住み、子どもたちがアカウミガメを通じて地球環境を学ぶサポーターをされ、太陽光と水素に未来社会を夢見るものづくり屋さん。


ツイッター連載ドキュメント「チェルノブイリ」
ホットスポット ~ミンスクからベラルーシの大地を走る~


ベラルーシの首都ミンスクから、ウクライナにあるチェルノブイリまで直線で約340㎞、出発前に運転手は純度90%以上のウォッカを車に飲ませた。オクタン価を上げるのだという。車は千鳥足ならぬ猛スピードでベラルーシの平原をひた走る。チェルノブイリはまだまだはるか先だ。

昼過ぎだっただろうか、車中の私達の顔が突然真顔になった。膝の上に乗せたガイガー・ミューラー計数管(放射線検出器)の針が、けたたましい音と共に大きく揺れはじめたのだ。ホットスポット(ホットパーティクル)だ! 緊張する私達の視線の中で測定器の針は再び元に戻った。

ホットスポット(ホットパーティクル)とは放射能値が異常に高い場所を言い、ベラルーシの大地には、こうした場所が無数の点のように存在している。爆発した原子力発電所から放出された放射能、つまり死の灰は粉塵、ガス、それらを含んだ黒い雨など、あらゆる形態を取りながら拡散し大地に降り注いだ。

事故から7年(1993年当時)たっても、それは消えることなく様々な経路をたどって存在し続けている。地表に降り注いだ放射能は、雨の流れと共にあるものは地表に、地下へ、低地へ、川へと移動し部分的な高濃度汚染地をつくった。雨水が留まりやすい低地にこのホットスポットは形成されやすいのだ。


チェルノブイリ原発の事故により放出された放射能

京都大学原子炉原子力安全研究グループによるチェルノブイリ原発事故の解析によると、推定放射能放出量は、ヨウ素131が2500万キュリー(炉内の70%)、セシウム137が430万キュリー(炉内の57%)となっている。広島型原爆で生成したセシウム137と比較すると実に1400倍の量だ。

しかし、事故から4カ月後に、旧ソ連が国際原子力機関IAEAへ提出した報告書によると、ヨウ素131が730万キュリー(炉内の20%)、セシウム137が100万キュリー(炉内の13%)、10日間で約1億キュリーの放射能が放出されたということになっており、日本での解析と食い違っている。

そのほか、原子炉内にあった放射性物質の90%が放出された、あるいは、ほとんど全てが放出されてしまったという見方もある。原子力関連施設におけるデータの隠ぺい、改ざん、虚偽報告などは日本の原子力産業界ではごく日常的である。当事者発表の数字が全く信用できないのはどこも同じだ。

1986年4月26日、チェルノブイリ原子力発電所の大爆発は、非常時のための試験終了時、原子炉に黒鉛装着の制御棒を一斉挿入した直後に起こった。停止しなければならない原子炉が逆に暴走を始めたのだ。出力の急上昇により原子炉は制御不能となり、原子炉容器そのものが破壊されてしまった。

原因は構造上の詳細な手順の誤りによるものと言われているが、地震が関係したという説もある。原子の火は10日間燃え続け、不十分な装備のまま多くの人々が消火や除染にあたった。空からは5千トン以上の砂や鉛を投下、6月に原子炉をコンクリートで固める作業が始まり、11月に「石棺」が完成した。

チェルノブイリ原発事故で大気中に放出された放射能は、偏西風に乗り日本にまで到達、またヨーロッパの放射能汚染食品の輸出などを通じ、世界中に広がって行った。

京都大学・今中哲二氏の調査によると、ウクライナ、ベラルーシ、ロシアを中心とした1平方キロメートルあたり0.1~1キュリーまでのセシウム汚染は、九州南端から北海道の北端に相当する約2000Kmの地域に広がり、汚染面積214万平方キロメートルは日本の面積の実に5.6倍に匹敵している。

チェルノブイリ原発事故についての参考サイトを紹介します。 「何が起きたのか」 今中哲二

その中でも特に1キュリー以上の汚染地は約14.5万平方キロメートルで、日本の面積の38%に達した。これは本州の面積の64%に相当する。つまり、本州の6割以上の面積が、日本の原子力発電所内の放射線管理区域と同等の汚染を受けていることになるのである。

汚染地を故郷とする人々や、地図から消された、全く人が住めない町や村からの移住者など、広大な汚染地帯には今なお600万人もの人々が暮らしている。


チェルノブイリ被災地、市民による調査と支援

世界を震撼させた原発事故から24年目の春になった。放射能による深刻な被害を受けた人々への支援を目的に設立された“チェルノブイリ支援運動・九州”(現在のチェルノブイリ医療支援ネットワーク)は、設立以後、現在も地道な支援活動を続けている。

近年、内容はさらに充実し、派遣された医師による最新の甲状腺内視鏡手術の技術をベラルーシの医師達へ伝える試みも始まっている。人的、物的支援を地道に続けている医療支援ネットワークと、それを支える多くの人々の善意と行動力には頭が下がるばかりだ。

この市民による支援運動が現地調査のため、ロシア、ベラルーシに第3次調査団を派遣したのは1993年のことだった。事故から8年目のことである。

当時、九州では宮崎県串間市で、九州電力の原発建設問題が浮上しており、町は賛否渦巻く混乱の極みに達していた。

1992年2月17日、九州電力から何の申し入れもないまま、唐突に新聞社のリークという形で135万kW級原発2基の建設構想が明るみに出て以来、住民たちの間に自然発生的に生まれた原発学習会の波は、串間市はもちろん、次第に県内各所に伝播していった。

“太陽と緑の国みやざき”というキャッチフレーズは、宮崎県民が長年親しんできた言葉である。

この豊かな自然を持つ日本の食糧基地ともいうべき宮崎が、原発と言う得体のしれぬ怪物で汚されるかもしれないという不安と現実の中で、危険手当とも言うべき原発立地交付金が地域を活性化せず、命のあまりに安い代償であることを住民達は学び始めたが、一部の原発推進者たちは意気盛んだった。

1992年、串間商工会議所を中心とする推進組織が支援する中、白紙を唱えながら公費で推進講演会を始めた当時の市長(野辺氏)が、市役所への電算機納入に絡む賄賂受け取りで逮捕されてから、市政は一転市長選に突入した。そして、原発反対を堂々と唱える候補者と、推進公約では勝てぬと市民投票条例を持ちかけた次期市長(山下氏)の一騎打ちとなった。

平和な地域社会をある日突然襲ったこのような混乱が続く中、住民達の学習会に招かれたチェルノブイリ支援運動・九州(現在のチェルノブイリ医療支援ネットワーク)の講師の計らいにより、住民によるチェルノブイリ被災地の視察が実現したのだった。


チェルノブイリ30キロゾーンとドロヌキ村

1993年7月、調査団はベラルーシ国内の様々な病院での視察と聞き取り調査をおこなったのち、チェルノブイリ原発まで約30キロの村、バプチンに向かった。ここから約18キロ進むとウクライナとの国境があり、その先にチェルノブイリ原発がある。

チェルノブイリ原発から半径約30キロの高濃度汚染地帯は、鉄条網で仕切られ、人の出入りが厳重に禁じられている。バプチンはこの境界線上にある村だ。失われた穀倉地帯をはるか地平線まで鉄条網が延び、今でも人の居住する村の中には、日本の原発の放射線管理区域に匹敵する放射能が渦巻いている。

町の一角で立ち止まり、測定器を地面に向けると激しく針が振れた。境界に設けられた遮断機付きの入口で、受け入れ準備をしてくれたチェルノブイリ同盟の人々があらかじめ準備してくれた特別許可証を見せる。遮断機を通り抜けると、放射能エコロジー研究所前にある黄色い看板が目に飛び込んできた。

そこには放射能のマークと共に「木の実を取ってはいけません。狩りをしてはいけません。許可なしに、家の中の貴重品を取ってはいけません」と警告する看板が建てられていた。いよいよこれから、放射能で高濃度に汚染された無人地帯に入って行く。全員の表情に張り詰めた緊張感が漂う。どの顔も真剣だ。

私達はチェルノブイリの方角をめざし、森の中のでこぼこ道をゆっくりと進んで行った。道路わきの倒れかかった電柱が、車の横を何本何本もゆっくりと通り過ぎて行く。さほど離れていない藪の中のあちこちに、幾棟もの家々が見え隠れする。朽ちかけたように見える木造の家々がひっそりとたたずんでいる。

人の住まなくなった家はすぐに荒れる。通り過ぎる無人の村の風景は原発事故からの歳月と、まぎれもなくここが人一人住めなくなった地域であることを実感させた。地図から消えゆく、消滅させられた村々…。私の脳裏に故郷である九州の街並みが浮かぶ。言いようのない悲しさが全身を包む。

一本道をひたすら行くと、突然、行く手に1羽のコウノトリが舞い降りてきた。車の数十メートル前方の地面に着地したかと思うとすぐに飛びあがり、またふたたび降りては飛び上がる。そうしてどこまでもふらふらと飛んでいく。不健康そうな鳥は数キロも私達の前を飛び続け、やがてどこかへ去って行った。

これはきっと犠牲者たちの魂が鳥へと姿を変え、彼らの故郷に案内しているのに違いないと思った。本当にそう思えた。チェルノブイリから15キロ地点にあるドロヌキ村。狂ったように鳴り続けるガイガーカウンターの針はとっくに振り切れている。測定するにはダイヤルの切り替えが必要だ。

数値を読み上げる仲間の声が、静かな村の中に響き渡る。使用前、使用済み、ウラン、プルトニウム、ネプツニウム、ルテニウム、セシウム、放射性ヨウ素・・・、ここには原発の中にある、ありとあらゆる死の灰が渦巻いている。

ごくごくありふれたベラルーシの農村地帯をある日突然襲った悲劇、人々は詳しい理由も告げられず、2、3日すれば帰れるからと一時避難を命じられ、大した荷物も持たず故郷を後にした。しかし彼らが二度と故郷に帰ってくることはなかった。

チェルノブイリ原発事故(映像/Google earth)


とにかく時間がない。私達の体は刻一刻と大量の、ありとあらゆる種類の放射線を浴び続けている。長居はあまりに危険だ。伸び放題の草むらと灌木に覆われた集落の、あちこちに並ぶ打ち捨てられた家々の間をぬうようにして私は走った。

できるだけ沢山の家々を見なければならない。もう二度と来ることのないだろう放射能だらけの村の光景を必死で脳裏に刻み込もうと、カメラ2台を小脇に抱え家々の間を駆け抜けた。と、その瞬間、私は草むらに隠れた起伏に足を取られ、つまずいてしまった。ああ、あの時あんなに走らなければよかった。

ころんで巻き上がったかもしれぬ死の灰が、荒い呼吸の中でいつの間にか体内に入り込み、プルトニウム原子の何個かが肺のどこかにくっついたかもしれぬ。しかし自ら望んできた場所、自業自得だ。

目の前にある木造の一軒家のドアを開け中に入る。居間の方にゆっくり歩いて行くとすぐに足元の異様さに気付いた。家の中は埃に覆われ、3,4部屋ほどの室内にはどこも、古着や家具などあらゆる家財道具が散乱し歩くのも困難だ。

しばしその光景に唖然とし壁に目をやると、家族の写真が入ったいくつかの額縁が目にとまった。雑然とした床の光景と対照的な、壁の中の家族のあまりに幸せそうな在りし日の痕跡には、ある日突然起こった不測の事態と、悲しい想像を掻き立てる嘆きの残像がそのまま残されていた。

こうして私達は、主(あるじ)のいなくなった家々を次から次へと訪問したが、家の中の状況はどこも似たようなものだった。住人達は、避難指示の声が飛び交う中、状況を十分に理解できぬまま立ち去った人々も多かったことだろう。2,3日すれば帰れるからという声に促され、故郷を後にしたとも聞く。

ある日突然やって来たあまりに唐突な避難命令は、おそらく彼らにとって準備をする十分な時間も余裕もなかった。

悲鳴と怒号と、家の中を走り回るいくつもの靴音、住みなれた部屋を右往左往しながら、何を持っていけばいいのかついに理解する余裕もなく頭を抱えながら、放射能の霧の中を去って行った住人たちは今頃どうしているのだろうか。

放射能、放射性廃棄物を宿命として持つ原子力産業は、この地球上の生物全ての、時を超えた営みの根底を破壊する凶器のようなものである。1999年9月に起こった茨木県東海村の核燃料工場臨界事故で、小さな子どもたちが首に測定器を当てられ、放射性物質の有無を調べられた光景は記憶に新しい。

これらの事故を教訓とし、日本では原発事故発生時に避難対策の指令所となる緊急事態応急対策拠点施設、通称オフサイトセンターというものがすでに設けられている。原子力発電所がある限り、チェルノブイリのような状況が日本で、あるいは世界のどこかで再び起こる可能性は限りなく存在する。(続く)


1 コメント

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ご紹介 (さきがけ)
2010-05-18 14:50:09
こんにちは。
mixiの私の日記でここをご紹介させていただきました。

原発については様々な考えがあると思います。
冷静で活発な議論が望まれます。
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