以前、当ブログの「80名がリツィートした原発所在地の実情」というエントリで紹介したところ、
原発ができたら、九電社員がいっぱい引っ越してきて、近くの小学校は児童数が増えるという話だったらしいけど。実際は、九電社員は家族を原発の近くには住まわせない。家族寮は独身寮になっていて、小学校は児童少ないまま。原発の近くが危ないことを一番よく知っているのは電力会社で働く人。
とTwitterでつぶやいたkurotititakeさんが、以下のような追加の情報を教えてくださった。
「私のツイートの元になった話は、地元でずっと反原発運動をしてこられた前田トミさんの話のようです。
残念ながら私はお会いしたことはないのですが、「毎日はがきを出し続けていたおばあちゃん」として、こちらでは伝説の人になっています。
先日の鹿児島の「ミツバチの羽音と地球の回転」上映会で息子さんにお会いしました。
トミさんの生前にお会いできなくて残念。
でも、語り継ぐことはできます。」
上記リンク先にある、おばあちゃんこと前田トミさんについての記述を一部引用する。
前田トミさんは1973年、川内原発反対母親グループとして地元久見崎で反対の声をあげてから30年、77才の今も反対運動の第一線として地元川内だけでなく串間原発反対集会、種子島核燃料中間貯蔵施設反対の集会など、どこにでも足を運ぶ。未来の子孫のための原発に反対するたたかいに全てをかける、という言葉は重く何の誇張もない。(中略)彼女にとって反原発運動とは大集会で大勢の人々に大きな声で語りかけることではない。思いを込めた自分自身の声、読む人に書き手の意志を感じさせる手書きの手紙なのである。
1994年1月から実に毎日、首相、経済産業通産大臣、科学技術庁長官の3閣僚に原発を早く止めてくれと、どこか地震が起きたときは九電社長に対しても8年以上はがきを出し続けている。たまたま各地の集会へ呼ばれて出かけた先でも、少しの合間をみて郵便ポストへと走る。
ところがこの6月、首相官邸が移転したとき彼女の手紙は「宛先不明」として返ってきた。郵便配達の人にとって、今や日本の首相官邸も普通の人家並みの存在感になったのでしょうかと笑う。私は本当に日本を考え動かしているのは首相などでなく、無名の庶民なのだと頭でなく実感として信じられるようになった。
賢い国には原発はいりません
見直して下さい地球の未来のために是非
日本はこれでいいのでしょうか
危ぶまれて仕方ありません
見直して下さい未来のために
「反戦」「平和」「反核ゴミ」は私の「祖国愛」「郷土愛」のモトイであります
現世は次なる御世の母胎なり
とこしえなれと朝な夕なに
前田トミさんは、2007年5月15日に息を引き取った。享年82歳。
「川内ミツバチ実行委員会のブログ」には、kumakoさんが西日本新聞に寄稿されたコラムの、トミさんを偲ぶ再録がある。
何もない田舎は、
何もないことが価値なのであるが、
背伸びしてちょっとましな暮らしを望むと、
とんでもないババを掴まされることがある。
笑えない話だが、
九州電力川内原発はその典型なのである。
地元の村に住み、
計画当初からずっと原発を見続けている前田トミさんの話を聞いて、
つくづくそう思った。
出稼ぎで何とか暮らしを立てていた寒村に、
「原発ができれば、
施設での仕事がいっぱい増えて、
出稼ぎに行かなくてもよくなる」と、
立地担当者は胸を張って言ってまわったという。
「九電の家族連れの職員がいっぱい住むようになるから、
村には子どもがあふれるだろう」
とも予言した。
そうなると、
「小学校の校舎は新築され、
プールもできる」と。
原発建設が始まってから30年後、
現実はこうだ。
いったんできてしまえば、
専門知識のない地元の人にできる仕事はない。
無理して働こうとしても、
あるのは放射能を浴びる危険な被爆労働くらいのものである。
小学校はどうなったか。
150人はいた小学校の生徒はその後減り続け、
十数人に。
廃校寸前である。
頼みの九電の社員は家族を危険にさらしたくないのか、
はるか遠くから通勤するようになったのである。
立地担当者の約束が守られたのは、
歓声の絶えた小学校にのこる、
鉄筋の校舎とプールだけ。
「村栄え、人あふれる」夢は、
あえなく夢に終わった。
貧乏な田舎の人間は、
大企業のエリートにコロコロと騙されていった、
と前田さんは語る。
田舎の人間が純朴だから騙されたのではない。
欲に目がくらんで転んでいったのである。
お金に縁がなければ、
ないなりに日々の暮らしを楽しむ術を人々は知っていた。
そこに、
幻想の明るい村の未来が振りまかれ、
とどめを刺したのは金であった。
最初は反対で一致していた地元の人も、
一人、また一人と口をつぐんでいったという。
思いもかけない裏切りもあった。
エリートたちは、
人々の欲をあぶり出し、
ウソと金を道具として、
目的を成した。
この世の薄汚い現実をこれほどはっきりと見せてくれる原発は、
逆に貴重な存在なのである。」
kurotititakeさんの最近の以下のつぶやきから、トミさんの誕生日が12月8日と知った。
川内原発に反対して毎日首相と経産大臣、科技庁長官にハガキを出し続けた前田トミさんのお誕生日が12月8日。
脱原発の日には川内でトミさんのお誕生パーティーしようかな。・・
15年前の12月8日は、高速増殖炉「もんじゅ」がナトリウム漏れ事故を起こして運転停止した日。
それが、今年の春やっと運転開始したとたん誤警報は繰り返すし、挙句に致命的な事故を起こし回復不能になっている。(参考記事:原爆製造を担保する原子炉「もんじゅ」はいま脳死状態)
その他、もんじゅの問題については当ブログの「増殖できず兵器級プルトニウムを生産するもんじゅ、真下には活断層!」というエントリも参照いただきたい。
この12月8日を「脱原発の日」として全国的な共同行動を行おうと、「脱原発の日 実行委員会」が設立され、
賛同者を募っている。
ちなみに、Twitterでの実行委員会datugennohiのつぶやきより。
もんじゅにかかった費用。http://bit.ly/cBUUEn もんじゅの前の常陽からだと気が遠くなる。
また、「脱原発の日ブログ」には、ジャーナリズムとしての使命を放棄した日本の大手メディアが伝えない重要な情報や、全国各地で開催される情報源の案内が満載なので、是非ご一読いただきたい。そして賛同者として、どんな形でも構わないので、「脱原発」を目指す意思表示をしていただきたい。
最終的には、脱原発を決めた時のドイツやベルギーのように脱原発を公約する国会議員が多数を占めねばならない。
原発推進という不経済で人々の平穏な生活を踏みにじり、労働者や周辺住民の健康を放射線被曝によって脅かす国策から、脱原発と並行して省エネや断熱技術の開発促進および、地域による地域のための持続可能なエネルギー普及を推進する政策へと転換できるか否かは、有権者の投票行動にかかっているのだ。
最後に、すでに脱原発を決定して私たちよりも先を進むドイツの、最近の「核廃棄物輸送」に反対する人々の様子を報道した、フランスとドイツの公共放送のニュースをご覧いただきたい。
9分38秒頃から、ドイツで、前田トミさんのように30年前から闘ってきた70歳代の声を聞くことができる。
ドイツ公共ラジオ番組「環境と消費者」では、現場で放射能を測定した核物理学者にインタヴューし、
「輸送容器から10~15mの距離では100倍くらいの不自然な放射能に晒される」と伝えていた。
日本政府と原発関連企業は、ベトナムを皮切りにアジア諸国に原発をシステムごと輸出する目論見だが、
彼の国々にまで、日本やドイツの例のように30年も原発と闘う人生までも輸出することは、断じて許されない!
祝島の人々も、上関原発建設計画が始まって以来28年間も闘い続けている。
世界中どこでも、原発が建設される限り、決して避けられない共通の悲劇といえるだろう。
だからこそ、これ以上そのような愚行を繰り返してはならない!
なお、ドイツの原子力政策の現状については、「ドイツ連邦政府の原発稼動延長関連のつぶやきまとめ」というエントリを参照いただきたい。
原発ができたら、九電社員がいっぱい引っ越してきて、近くの小学校は児童数が増えるという話だったらしいけど。実際は、九電社員は家族を原発の近くには住まわせない。家族寮は独身寮になっていて、小学校は児童少ないまま。原発の近くが危ないことを一番よく知っているのは電力会社で働く人。
とTwitterでつぶやいたkurotititakeさんが、以下のような追加の情報を教えてくださった。
「私のツイートの元になった話は、地元でずっと反原発運動をしてこられた前田トミさんの話のようです。
残念ながら私はお会いしたことはないのですが、「毎日はがきを出し続けていたおばあちゃん」として、こちらでは伝説の人になっています。
先日の鹿児島の「ミツバチの羽音と地球の回転」上映会で息子さんにお会いしました。
トミさんの生前にお会いできなくて残念。
でも、語り継ぐことはできます。」
上記リンク先にある、おばあちゃんこと前田トミさんについての記述を一部引用する。
前田トミさんは1973年、川内原発反対母親グループとして地元久見崎で反対の声をあげてから30年、77才の今も反対運動の第一線として地元川内だけでなく串間原発反対集会、種子島核燃料中間貯蔵施設反対の集会など、どこにでも足を運ぶ。未来の子孫のための原発に反対するたたかいに全てをかける、という言葉は重く何の誇張もない。(中略)彼女にとって反原発運動とは大集会で大勢の人々に大きな声で語りかけることではない。思いを込めた自分自身の声、読む人に書き手の意志を感じさせる手書きの手紙なのである。
1994年1月から実に毎日、首相、経済産業通産大臣、科学技術庁長官の3閣僚に原発を早く止めてくれと、どこか地震が起きたときは九電社長に対しても8年以上はがきを出し続けている。たまたま各地の集会へ呼ばれて出かけた先でも、少しの合間をみて郵便ポストへと走る。
ところがこの6月、首相官邸が移転したとき彼女の手紙は「宛先不明」として返ってきた。郵便配達の人にとって、今や日本の首相官邸も普通の人家並みの存在感になったのでしょうかと笑う。私は本当に日本を考え動かしているのは首相などでなく、無名の庶民なのだと頭でなく実感として信じられるようになった。
賢い国には原発はいりません
見直して下さい地球の未来のために是非
日本はこれでいいのでしょうか
危ぶまれて仕方ありません
見直して下さい未来のために
「反戦」「平和」「反核ゴミ」は私の「祖国愛」「郷土愛」のモトイであります
現世は次なる御世の母胎なり
とこしえなれと朝な夕なに
前田トミさんは、2007年5月15日に息を引き取った。享年82歳。
「川内ミツバチ実行委員会のブログ」には、kumakoさんが西日本新聞に寄稿されたコラムの、トミさんを偲ぶ再録がある。
何もない田舎は、
何もないことが価値なのであるが、
背伸びしてちょっとましな暮らしを望むと、
とんでもないババを掴まされることがある。
笑えない話だが、
九州電力川内原発はその典型なのである。
地元の村に住み、
計画当初からずっと原発を見続けている前田トミさんの話を聞いて、
つくづくそう思った。
出稼ぎで何とか暮らしを立てていた寒村に、
「原発ができれば、
施設での仕事がいっぱい増えて、
出稼ぎに行かなくてもよくなる」と、
立地担当者は胸を張って言ってまわったという。
「九電の家族連れの職員がいっぱい住むようになるから、
村には子どもがあふれるだろう」
とも予言した。
そうなると、
「小学校の校舎は新築され、
プールもできる」と。
原発建設が始まってから30年後、
現実はこうだ。
いったんできてしまえば、
専門知識のない地元の人にできる仕事はない。
無理して働こうとしても、
あるのは放射能を浴びる危険な被爆労働くらいのものである。
小学校はどうなったか。
150人はいた小学校の生徒はその後減り続け、
十数人に。
廃校寸前である。
頼みの九電の社員は家族を危険にさらしたくないのか、
はるか遠くから通勤するようになったのである。
立地担当者の約束が守られたのは、
歓声の絶えた小学校にのこる、
鉄筋の校舎とプールだけ。
「村栄え、人あふれる」夢は、
あえなく夢に終わった。
貧乏な田舎の人間は、
大企業のエリートにコロコロと騙されていった、
と前田さんは語る。
田舎の人間が純朴だから騙されたのではない。
欲に目がくらんで転んでいったのである。
お金に縁がなければ、
ないなりに日々の暮らしを楽しむ術を人々は知っていた。
そこに、
幻想の明るい村の未来が振りまかれ、
とどめを刺したのは金であった。
最初は反対で一致していた地元の人も、
一人、また一人と口をつぐんでいったという。
思いもかけない裏切りもあった。
エリートたちは、
人々の欲をあぶり出し、
ウソと金を道具として、
目的を成した。
この世の薄汚い現実をこれほどはっきりと見せてくれる原発は、
逆に貴重な存在なのである。」
kurotititakeさんの最近の以下のつぶやきから、トミさんの誕生日が12月8日と知った。
川内原発に反対して毎日首相と経産大臣、科技庁長官にハガキを出し続けた前田トミさんのお誕生日が12月8日。
脱原発の日には川内でトミさんのお誕生パーティーしようかな。・・
15年前の12月8日は、高速増殖炉「もんじゅ」がナトリウム漏れ事故を起こして運転停止した日。
それが、今年の春やっと運転開始したとたん誤警報は繰り返すし、挙句に致命的な事故を起こし回復不能になっている。(参考記事:原爆製造を担保する原子炉「もんじゅ」はいま脳死状態)
その他、もんじゅの問題については当ブログの「増殖できず兵器級プルトニウムを生産するもんじゅ、真下には活断層!」というエントリも参照いただきたい。
この12月8日を「脱原発の日」として全国的な共同行動を行おうと、「脱原発の日 実行委員会」が設立され、
賛同者を募っている。
ちなみに、Twitterでの実行委員会datugennohiのつぶやきより。
もんじゅにかかった費用。http://bit.ly/cBUUEn もんじゅの前の常陽からだと気が遠くなる。
また、「脱原発の日ブログ」には、ジャーナリズムとしての使命を放棄した日本の大手メディアが伝えない重要な情報や、全国各地で開催される情報源の案内が満載なので、是非ご一読いただきたい。そして賛同者として、どんな形でも構わないので、「脱原発」を目指す意思表示をしていただきたい。
最終的には、脱原発を決めた時のドイツやベルギーのように脱原発を公約する国会議員が多数を占めねばならない。
原発推進という不経済で人々の平穏な生活を踏みにじり、労働者や周辺住民の健康を放射線被曝によって脅かす国策から、脱原発と並行して省エネや断熱技術の開発促進および、地域による地域のための持続可能なエネルギー普及を推進する政策へと転換できるか否かは、有権者の投票行動にかかっているのだ。
最後に、すでに脱原発を決定して私たちよりも先を進むドイツの、最近の「核廃棄物輸送」に反対する人々の様子を報道した、フランスとドイツの公共放送のニュースをご覧いただきたい。
9分38秒頃から、ドイツで、前田トミさんのように30年前から闘ってきた70歳代の声を聞くことができる。
ドイツ公共ラジオ番組「環境と消費者」では、現場で放射能を測定した核物理学者にインタヴューし、
「輸送容器から10~15mの距離では100倍くらいの不自然な放射能に晒される」と伝えていた。
日本政府と原発関連企業は、ベトナムを皮切りにアジア諸国に原発をシステムごと輸出する目論見だが、
彼の国々にまで、日本やドイツの例のように30年も原発と闘う人生までも輸出することは、断じて許されない!
祝島の人々も、上関原発建設計画が始まって以来28年間も闘い続けている。
世界中どこでも、原発が建設される限り、決して避けられない共通の悲劇といえるだろう。
だからこそ、これ以上そのような愚行を繰り返してはならない!
なお、ドイツの原子力政策の現状については、「ドイツ連邦政府の原発稼動延長関連のつぶやきまとめ」というエントリを参照いただきたい。