まず上巻で「おおっ」と思ったこと。
ある登場人物が本を開いている描写があり、それがダン・ブラウンの本。書名までは書いてなかったが、ダンといえば「ダ・ヴィンチ・コード」の著者。以前、このブログでも取り上げ、自分の感想は「よく見ればすぐ分かるようなことでハッタリをかます作家は、欧米ではどのような評価なのだろう?」というもの。
コーンウェルはどういうつもりでダンの本を作中に紛れ込ませたのだろう?やはり彼の作家としての位置づけは抑えておきたい。
もうひとつは『検死官』の愛読者としては、やや複雑な思い。人間は禁断の扉をどこまで開いていくのだろう、ということ。
『検死官』の愛読者であれば、というより現代ミステリの愛読者であれば、推理小説の故郷=シャーロックホームズというのどかな時代を懐かしむ方も少なくないのではないか。
現代ミステリは、読者のますます高まる欲求のまま、残虐な連続殺人や目を背けたくなるような快楽殺人をそのストーリーに組み込んできた。
ある刺激レベルに慣れると、さらに刺激の強いものを求めるという無限連鎖が、現代人を推理小説の故郷からはるか遠くまで連れ出してきたのは事実だ。
「神の手」にしても自分の子供には読ませたくないという親は多いだろうし、このまま映画化されたら18禁は間違いない(^^;)
楼閣に楼閣を重ね現代人の「脳」は、とてつもない危うい高みにたどり着いてしまったのではないか。ただ、娯楽・快楽を求めて。
インターネットも含め、「脳が身体を置き去りにする時代」を現代人は生きているということをこの年の瀬に振り返るのもいい。
ここまで自分のつまらない文章に付きあってくれた皆さん。
どうもありがとう。どうか、よい年をお迎えください。
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