1.渡地区の護岸堤防
有史以来江の川流域は数々の洪水に見舞われています。江戸時代には中期以降でも6回の大水害の記録が残されており、明治以降では明治5年、23 年、26 年、大正 12 年、昭和 18 年9月、20 年9月と大水害に見舞われ沿岸の地域のほとんどが水没し、田畑、家屋の被害は激甚を極め社会に大きな支障を及ぼしたそうです。
甲山英治郎
明治時代に家産を傾けて川越地区の渡り村で護岸堤防を完成させた方がおられます。
桜江町川越の渡り村は江の川沿岸に耕地をもち、洪水により被害を受けることが多かった。そこで明治4年(1871)2月、これまでに流出した渡り村破壊箇所に堤防を築くため、各村より合わせて1万5千人の工事人夫の割り当てが行なわれた。その4分の1は渡り村負担であり、1人当りの扶事米は村内1人当り米3合、他村は米5合が支給された。この工事は当時の村役人甲山英治郎が家産を傾けて尽力した。堤防の長さは 600 間(約 1.1 km)、渡り村 60 余町歩(約 60ha)の耕地を守った。
<この竹林が堤防と思われます>
甲山英治郎氏は当時の戸長(庄屋)だったそうです。
渡利地区の八幡神宮の入口付近に頌徳碑(しょうとくひ)が設置されています。この頌徳碑には二人の名前が彫られています。「甲山英治郎」氏と、「松浦登三」と言う方です。松浦登三氏は渡村に居住し明治初期渡村の戸長や渡・田津・大貫・日貫村連合戸長を歴任しています。中でも教育と養蚕に格別の情熱を傾け施策したそうです。
2.川越の命名
松浦登三
川越小学校の沿革誌によると、松浦戸長は「開設間のない創業の時に、すぐれた教師をむかえて、将来発展して行く土台を築くことが大切である」として、著名な学者神代兼臣氏を津和野から招いて、渡小学校[1]の振興をはかった。このため郡内から大勢の生徒が集まり、村内の各戸に宿泊して通学する程の盛況をみせて、渡村は石東一の教育先進地と言われる程になった。と記されているとのことです。
[1]川越小学校沿革誌には「明治6年7月15日、邑智郡第47番公立渡小学校を設置、浄蓮寺をもって校舎に充て、鹿賀村・田津村・大貫村に各分校を置く」と記されており、川越地区には分校を入れて4つの小学校がありました。
学制が公布されたのは明治5年(1872年)8月で、一年後に渡小学校が創立されたと言うことはかなり早くできたものですね。
<川越村の命名の逸話>
明治22年4月1日に町村制が施行されて、鹿賀・渡・田津・大貫の4ヵ村が合併し川越村が誕生しました(坂本は昭和25年4月まで隣の川下村に所属)。川越村の村名決定の経緯は明らかではないとされています。しかしその時に村の命名に携わった人の子供さんが、父親から聞いた話を語っておられます。
各地区から代表者が選ばれて決めた名前は「甘南備寺村」だったそうです。この時当時の4ヵ村連合戸長、松浦登三は約1ヶ年前から農業特に養蚕業研修のため群馬、福島県等の先進地に旅行中であり、不在でした。帰った松浦登三はこの新しい村名に大憤慨し「わしはあちら、こちら歩いて埼玉県の川越という町にもいったが、実に素晴らしい所だった。すべての産業の中心地で生き生きとした広い農業で発展した理想的な町だった。その時川越だ。川越村だ。川越村と決めたのだ。あれを見ろ今度は江川を越えての広い村ではないか、甘南備寺は取り止めじゃ。」と宣い給うたそうです。
郷土にゆかりのない名前なので反対する人もいたそうですが、松浦登三は戦いにも出陣した武士であり、長州軍に敗れ浜田から渡の松浦家に来られたひとで、ワンマンであったらしいですが、正義感の強い、実行力のある人だったそうで、然るべくして名前は川越村となったそうです。
・その他(明治時代の小学校に関する写真)
<大貫小学校で使用していた机と椅子>
<大貫小学校で使っていた時報の板木>
<卒業証書>
明治維新後旧来の「士、農、工、商」制度を廃止し、華族(公卿、諸藩藩主)、士族(武士)、平民(農、工、商)という呼称に改めました。
<完>
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