56.応仁の乱と石見周辺勢の動向
石見周辺の守護
大乱勃発時の石見周辺の守護の所属陣営は次のようであった。
東軍
出雲 京極持清
安芸 武田国信
備後 山名是豊
西軍
石見 山名政清
周防・長門 大内政弘
守護の所属陣営はこのように色分けされるが、実際はその配下の地頭や豪族たちは旗幟鮮明にしないものもいた。
諸将の動向
応仁元年5月、細川勝元・山名宗全の両者からの招請状が発せられ、石見の諸将は本格的に上洛の準備を開始した。
特に細川勝元は、1月の上御霊神社の戦いで畠山政長を援けなかったことを、京極持清とともに嗤られているため、深くこれを恥じ、激を諸国に飛ばして兵を徴した。
6月になると、各諸将はその所属に従って逐次上洛の途についた。
石見東部の佐波・高橋・出羽勢は、出雲・安芸の影響を受け、京極持清(山城・出雲・隠岐・飛騨・近江守護(戒名:生観))の下に東軍に属した。
石見は本来山名氏の領国であったが、出雲との国境にあった佐波・高橋氏は赤穴氏との血縁的・地理的関係から出雲守護の麾下に入った。
佐波氏や高橋氏などは文明元年(1469年)にはことごとく帰国したが、赤穴幸清だけはとどまっており、京極騒乱に加わったが、文明2年には帰国している。
京極騒乱
近江国において起こった京極氏の家督相続を巡る御家騒動の一つ。
石見中央部、西部の主だった諸将は、山名政清、大内政弘に率いられて上洛する。
石見守護山名政清は美作・石見の軍勢を率いて上洛した。
この中には邑智郡の小笠原氏などが含まれていた。
また、周防・長門などの守護大内政弘は周防・長門に加えて安芸・石見・筑前・筑後・豊前・伊予の8カ国から及ぶ大軍を率いて、山口を進発、上洛の途についた。
この中に吉見・益田・三隅・福屋氏らがいた。
戦いには、兵士の召募・武器兵糧の補給が必要で、各国守護大名はその領国に補給係を用意しなければならなかった。
また後方撹乱の政治的・武力的抗争にも備える必要があった。
このような状況下で、留守を預かる親族、家臣、守護代・地頭等が力を持ってくる所もあった。
十一年の長期にわたる京での戦乱は地方での勢力関係に変化をもたらし、また新たな勢力誕生も相まって、やがて戦国騒乱の時代を導き出していった。
56.1.京極氏
京極氏の源流は佐々木氏である。
この佐々木氏は、鎌倉時代以前より近江にあり、近江源氏とも称された家系である。
なお、この分流に出雲源氏がある。
鎌倉時代に近江他数ヶ国の守護に任じられていた佐々木信綱は、4人の息子に近江を分けて継がせた。
長男の重綱と次男の高信も坂田郡大原庄と高島郡田中郷を相続、それぞれ大原氏・高島氏の祖となった。
三男の泰綱は佐々木宗家と江南(南近江)を継いだ。
この三男が六角氏の祖となっている。
四男の氏信は、江北(北近江)にある高島郡、伊香郡、浅井郡、坂田郡、犬上郡、愛智郡の6郡と京都の京極高辻の館を継いだ。
この四男の氏信が後の京極氏の祖である。
京極氏は、高氏の代に室町幕府創立に功をあげて近江・飛騨・山城・出雲・若狭・摂津などの守護となっている。
京極高氏は初めは第14代鎌倉執権・北条高時に御相伴衆として仕える。
正中3年(1326年)高時が出家した際、ともに出家して、道誉と号した。
道誉は、のちに鎌倉幕府を倒すべく兵を挙げた足利尊氏に従っている。
佐々木道誉は「太平記」においても、その強い存在感を放っている。
尊氏の開いた室町幕府において政所執事や6カ国の守護を兼ねた。
「ばさら」と呼ばれる南北朝時代の美意識を持つ婆娑羅大名として知られ、「太平記」には謀を廻らし権威を嘲笑し粋に振舞う導誉の逸話を多く記している。
子孫は四職家の一つとして権勢をふるった。
応仁の乱後衰退したが、高次が豊臣秀吉に仕えて再興。
江戸時代にも複数の藩の外様大名家として残り、維新後大名だった4家の京極
家が子爵家に列する。
徳源院
滋賀県米原市清滝にある徳源院は京極氏の菩提寺である。
境内にある京極家墓所は国の史跡に指定されている。
境内に、高氏(道誉)が植えたとされる「道誉ざくら」がある。
56.1.1.京極持清
嘉吉元年(1441年)12月に京極持清は出雲・隠岐・飛騨の守護職を継いだ。
寛正元年(1460年)には出家して生観と改名しており、2年後の寛正3年(1462年)に開いた花会では池坊専慶に立てさせた花が評判になったという。
甥である細川勝元(持清の女兄弟が勝元の母)とは関係が深く、勝元と共に畠山政長を支援して御霊合戦にも出陣しているが、政長を助けることはできなかった。
応仁元年(1467年)に応仁の乱が起こると、甥・細川勝元の率いる東軍に家臣で従弟の多賀高忠と共に1万余騎を率いて属し、洛中の花開院塩屋、一条大宮などで西軍と戦う。
翌応仁2年(1468年)には西軍についた六角行高と近江で戦い、長男の勝秀と六角高頼の従兄の六角政堯が六角高頼の本拠地である観音寺城を落とし、翌文明元年(1469年)には六角氏が代々務めて来た近江守護職に任じられた。
出雲では守護代の尼子清定が出雲国人の反乱を鎮圧、恩賞として能義郡奉行職や美保関代官職を与えた。
以後も高頼との戦いが続く中、文明2年(1470年)に64歳で病死した。
京極騒乱
「Wikipedia」から抜粋
持清の長男である勝秀は既に亡くなっていたため、勝秀の長男孫童子丸派と次男の乙童子丸派との間で家督を巡って争いが起こった。
家督を巡り勝秀の嫡子・京極孫童子丸派と勝秀の庶子・京極乙童子丸派の間で争いが起こった。
孫童子丸派には持清の三男・政経と一族出の近江守護代・多賀高忠が付き、乙童子丸派には持清の次男・政光と飛騨守護代・多賀清直が付いて、京極家中を巻き込んだ事態へと発展する。
文明2年(1470年)に叔父・政経を後見役に孫童子丸が家督を継ぎ近江・飛騨・出雲・隠岐守護職に補任される。
しかし、御家騒動は収まらず乙童子丸派の政光と清直は文明2年9月に西軍へ寝返り、六角高頼と和睦して孫童子丸派への攻勢を強める(高頼の従兄の六角政堯は東軍に属した)。
翌年の文明3年(1471年)に孫童子丸が夭折し、新たな跡目争いが起きる。
その後の詳細は省略するが、
明応元年(1492年)12月室町10代将軍・足利義材に京極高清が12月に家督を認められ、翌年9月に高清は北近江に復帰した。
しかし抗戦は簡単には治まらず京極高清は北近江に落ち着くことはなかった。
明応8年(1499年)8月、京極氏重臣・上坂家信の助力により高清は江北へと帰還する。
文亀元年(1501年)6月、永正2年(1505年)の材宗(政経の子)の2度に渡る襲撃も退け、同年冬に材宗と箕浦の日光寺で和睦し、35年続いた家督争いを終える。
高清は京極氏当主になれたが、その間に近江を除く領国(出雲・隠岐・飛騨)を守護代や国人に横領されてしまい、僅かに北近江しか残らなかった。
しかも大永3年(1523年)には自分の2人の息子を巡って近江国人が2派に分かれて、再び御家騒動を勃発させてしまい、近江国外へ追放の憂き目にあった。
そして京極氏は最終的な勝者・浅井氏の傀儡になってしまうのである。
高清・高広父子は、浅井氏の居城である小谷城(京極丸)にて暮らすが、後に高清のみ上平寺城へ移り天文7年(1538年)に没した。
京極氏館跡(滋賀県米原市上平寺)
上平寺城は京極高清が築いた城で、山麓の京極氏館の「詰の城」として機能していた。
その京極氏館の遺構が伊吹神社境内に残っている。
京極氏の屋敷があったとされる場所には庭園跡があり、池跡や「虎石」と呼ばれる巨石などが見られる。
<伊吹神社>
<庭園跡>
<周辺図>
<続く>