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旅日記

望洋−10(様々な入隊(続き3))

5.様々な入隊(続き3)

原山静之は、朝鮮で教師をしていたが、徴兵で京城(ソウル)の龍山にある歩兵第79連隊補充隊に入隊した。

その後、豊橋予備士官学校に入校した。

昭和19年8月に卒業すると海上挺進戦隊に入隊し、第四戦隊に編入された。

5.4.原山静之

原山静之は、島根県邑智郡(現、江津市)で生まれ育ち、昭和14年(1939年)17歳の時に朝鮮の大邱師範学校に入学した。

翌年、全羅北道裡里郡八峰公立尋常小学校(後に八峰国民学校と名称変更)に訓導として赴任した。

月俸は42円だった。

訓導とは、第二次世界大戦前の日本の教育制度における尋常小学校などの正規教員の職階の1つである。

昭和16年(1941年)3月、静之は、近くの聖堂国民学校に転勤の辞令を受け、赴任した。

月俸は47円に昇給した。

<八峰国民学校 4年生理科授業 昭和15年12月3日>

<八峰国民学校 6年生修学旅行 ソウル市内>

<聖堂国民学校 4年生遠足>

昭和18年(1943年)3月20日、静之は京城(ソウル)の龍山にある歩兵第79連隊補充隊に入営した。

静之が入営した歩兵第79連隊補充隊は南方軍、第18軍、第20師団の傘下である。

<聖堂国民学校から児童らに見送られ出征した>

 

豊橋陸軍予備士官学校

原山は昭和19年1月豊橋陸軍予備士官学校に入学するために、帰国する。

豊橋陸軍予備士官学校は、旧陸軍第十五師団の駐屯地として建設された敷地に昭和14年に開設された学校である。

原山静之は昭和19(1944年)年1月13日に豊橋陸軍予備士官学校に入学し、昭和19年8月15日に卒業する予定であった。

だが、思わぬ運命が降りかかる。

7月22日原山は、区隊長から学校本部へ行くように命じられた。

原山が本部に行くと各中隊から選抜されたという十数名の学生が集まっていた。

参謀本部から高官が出張してきており、この十数名の学生の面接が行われた。

面接は一人一人行われた。

原山の番になった。

原山はドアをノックした。

中から「入れ!」と声がした。

「原山原山 入ります!」と言ってドアを開けて中に入った。

中には四角いテーブルがあった。

十人位座れそうであった。

窓を背にしてテーブルに眼鏡をかけた男が一人座っていた。

面接官だった。年の頃、三十半ばのようで、目つきが鋭かった。

原山は緊張してテーブルを挟んで立っていた。

「そこに掛けろ」と面接官は言った。

「失礼します」といって原山は腰かけた。背筋は伸ばしたままだった。

「本官は渡辺という。担当の教官からお前は、日頃の教育も真面目に受け、演習も優れており、愛国心も強い、との報告を受けている。

今日は、お前と色々話しをした上で、しかる後に尋ねたいことがある」と渡辺面接官は原山に言った。

「了解しました」と原山は答えた。

「ところで、お前は島根県の出身というが、そこはどんな所か?」

原山はいきなり、故郷のことを聞かれて一瞬戸惑ったが、直ぐに頭の中に江の川が流れる景色が浮かんできた。

原山は朝鮮の国民学校で自己紹介した時の様子を思い浮かべながら慎重に答えた。

面接官は「よく分かった」と笑って言った。

「家の前に大きな川が流れているということは、泳ぎは得意か?」

「はい、子供の頃は夏になると毎日川で、泳いで魚やウナギを捕ったりしていました」

「その江の川では船で行き来していたのか?」

「自分の故郷には鉄道がありましたので船で遠くまで行くことはありませんでした。

しかし、川には橋がありませんでしたので、対岸に渡るのは伝馬舟で渡りました。

自分も伝馬舟を漕ぐことができます」

「それでは、次の質問だが、お前は機械やエンジンに興味があるか?」

原山はこの質問の意味が分からなかったが、聞き返すことができなかった。

しかし、興味がないという返事は出来ないと思った。

「好きであります。オートバイに乗ってみたいですし、車やエンジンにも興味があります」

「そうか、宜しい」と面接官は言い、持っている資料に目を落とした。

資料から目を上げると、言った。

「お前は、我が帝国海軍が行った真珠湾攻撃での甲標的についてどう思うか?」

甲標的

この甲標的とは日本海軍が開発した特殊潜航艇である。

乗組員は2名で二本の魚雷を装着している。

特殊潜航艇は各国で製造・運用されていた。

後の特攻兵器、人間魚雷とは別である。

甲標的にはまだ生還する装置と工夫がなされていた。

原山はこの甲標的という特殊潜航艇による特攻については、授業で習っていたので内容は知っていた。

しかし、どう思うか、という質問には直ぐに答えられなかった。

答え方を考えたのである。

原山は以前から人がどういう答えを相手が喜ぶか、期待するかを常に考えていた。

出来るだけそれに沿った言い方をしようとしていた。

「勇敢で愛国心の強い行動だったと思います」と答えた。

この答えは必ずしも嘘ではない。

当時、日本軍は次々と追い込まれて窮地に立っていることを予備士官学校の生徒たちは知っていた。

そして、真剣に戦争と取り組み、青春の全てを捧げ、軍人として一死をもって国難に殉じようと思う者が多かったからである。

「そうか、お前の考えは良く分かった。最後に君に問いたいことがある。

お前たちも感じているように、今の戦況は我が方に利がなく、日々窮地に立たされている。

この難局を打開するために上層部において色々研究を尽くした結果、ある特別戦闘部隊を作ることになった。

この特別任務につく部隊へお前も志願する気持ちはないか?」

と面接官は諭すように言った。

さらに原山からの答えを聞く前に

「今すぐ返事をしなくてもよい。今晩よく考えて明朝返事を封筒に入れて区隊長に提出せよ」と言った。

 

特別任務への志願

原山はその夜考えた。

一体、特別任務の部隊とは何だろうか?

色々と考えたが、解らなかった。

この時点では戦死を前提とした特別攻撃の実例はなかった。

最初の特別攻撃は1944年10月25日のフィリピン戦での神風特別攻撃隊が最初と見なされている。


今日の面接のことを思い出していた。

何故、面接官は真珠湾攻撃のことを持ち出したのだろうかと考えた。

そして、真珠湾攻撃に使用された甲標的について尋ねられたことを思い出していた。

俺は「勇敢で愛国心の強い行動だったと思います」と答えた。

それを聞いて、面接官は、満足感と安堵感のような表情を浮かべたような気がした。

その時は、面接官が何も批評しなかったので、上手く答えたという安心感の方が強く、特に不思議とは思わなかった。

何故面接官は何故あの様な表情をしたのだろうか?

ふと特別任務の部隊とは甲標的のような特別攻撃部隊か、という考えが湧いてきた。

一度湧いてきたこの思いは頭の中から離れなかった。

でも、どんな風に特攻するのか検討がつかなかった。

しかし、命をかけて行う任務である事は間違いないと確信した。

原山は軍隊に入った時から、いつか死がやって来るかもしれないと漠然と思っていた。

最近の戦況を聞くたびに、いよいよこの身を挺して国難にあたる時が来たと感じていた。

それが今来たのか、と思った。

いよいよ俺は死ぬのかと思ったが、未だ死を現実的なものと受け止めることが出来なかった。

死が確実な状況の中で何を行うべきか真剣に考えることが必要だと思った。

しかし、集中することが出来なかった。

色々な思いが浮かんで来る。

父母のことが頭に浮かんできた。

今年、父は62歳、母は58歳になっている筈だ。

親孝行を今までしたことが無いと思った。

お許しくださいと心で念じた。

兄弟の顔が浮かんだ。

そして、次兄から自分が死んだらお前に全てを頼むと、手紙で言ってきたことを思い出した。

手紙で頼むと言われたが、この調子なら自分の方が先に死ぬかも知れないと思った。

実はこの次兄は、この時の1ヶ月前の昭和19年6月24日、潜水艦でドイツへ向かう途中の大西洋で米軍の攻撃を受けて戦没した。

しかし、原山はその事を知る由もなかった。

また、国から戦死の知らせが、親元に届いたのは、昭和20年11月のことである。

すると原山は、長兄の死を思い出した。

長兄は昭和12年(1937年)9月27日に北支那山西省平型関口に於いて、21歳で戦死した。

長兄の遺品が届いたのは12月17日であった。

葬儀は村葬として昭和12年12月28日に行われた。

この葬儀に天皇皇后両陛下からの祭祀料20円、教育総監、参謀総長官、第5師団団長、島根県知事、愛国婦人会島根支部、日本赤十字社島根支部等の、公的機関や公人からの祭祀料、香花料、弔慰金などが記されている。

この時、原山は15歳だった。

原山は天皇陛下からの下賜に驚いたことを思い出した。

自分が戦死したら、村を挙げて葬儀をしてくれるのだろうか、と思った。

弟は、今年満州に渡って、関東軍の戦車隊に入隊したと連絡があった。

あいつは、お国のためにと意気込んでいたが、元気にやっているだろうか?

 

だが、原山は故郷のことをもう思い出すのは、止めようと思った。

今ここで色々考えても仕方ない。

国のために敵と戦うことが天命なら、死ぬか、死なぬかは運命によるだろう。

自分一人の力でどうにかなるものでもあるまい、俺はやるだけのことを必死でやるまでだ。

南洋諸島は次々と陥落して、制空権、制海権は既にアメリカに奪われているようだ。

6月に福岡の八幡がB-29爆撃機の空襲を受けたという情報もある。

いよいよ、日本本土での戦いが始まるのだろうか、と考えた。

誰かが、この窮地に立ち向かわなければならない。

すると今度は、国の為、郷土の為、家族の為に、この身を捧げるという気持ちが徐々に高ぶって来た。

この高ぶった気持ちは、手紙を書いて吐きださないと、治まらないような気がした。

原山は、机に向かい、手紙を書いた。

『指名され選抜されたことを名誉とし、誇りをもって与えられる任務に就きたいと思います』と書いた。

すると気持ちは落ち着いていった。

手紙を早朝、区隊長に届けた。

原山は区隊長に手紙に書いたことを口頭し、その手紙を差し出した。

 

卒業式直前の7月31日に原山は学校本部に呼び出され、豊橋陸軍軍予備士官学校の同僚7名と共に陸軍船舶船司令部への転属を命じられた。

そして、卒業後直ちに広島宇品の陸軍司令部に出頭せよ、との命令も受けた。

この時、初めて原山は、自分と同じ意志をもった者が8名だったと知った。

上司の誘いを断った者が数人いたのである。

原山は、これを知って何故か安堵した。

理由はよく分からないが、皆が同じ思いを持つ必要はないと思った。

原山は陸軍船舶船司令部に入隊することを両親に手紙で知らせた。

・・・・
無事に豊橋陸軍軍予備士官学校を卒業しました。
この後は広島の宇品にて次の指令を受ける予定です。
・・・・

と書いて出した。

これから所属する部隊の任務は特別任務であり危険な任務である、と知らせることは出来なかった。

今まで育ててもらった恩を返すことが出来なくなるかもしれない、と思うと親不孝を詫びざるを得なかった。

 

小豆島へ

広島の陸軍司令部に行くと、8名全員小豆島の部隊に赴任すべしとの作戦命令を受けた。

8人は広島で一泊して、翌日に小豆島に向かった。

岡山を経て船舶特幹隊のある小豆島渕崎(現:土庄町)に到着したのは、まだ猛烈な暑さの残る夕暮れ時だった。

 

<続く>

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