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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−110(南北朝動乱・石見編−1 石見の武将、益田氏、三隅兼連)

36. 南北朝動乱・石見編

 

建武2年(1335年)11月に足利尊氏が反旗を揚げると、石見国に於いても宮方軍と足利方軍の戦いが始まった。

翌年の建武3年/ 延元元年(1336年)5月、九州から東上中の足利尊氏は上野頼兼を石見の守護に任じ、石見の宮方軍の武将征伐に向かわせた。

この上野頼兼が武家方の中心になっていく。


建武3年/延元元年(1336年)8月25日、足利尊氏の要請により、豐仁親王が践祚した(光明天皇)。

同年10月、足利との戦に疲れ果てていた後醍醐天皇は足利尊氏と講和するも、軟禁される。

その後った後醍醐天皇は12月京都を脱出して、吉野に向かう。

後醍醐天皇は吉野で朝廷を開き、諸国の武将に足利討伐を呼びかけた。

南北朝の動乱の幕開けである。

石見の南北戦乱は、当初は美濃郡の益田、長野の両荘内から烈しく始まったが、戦場は徐々に那賀都・邑智郡に移っていった。

 

36.1. 石見国の武将

36.1.1.主な石見の武将の南朝、北朝勢力

南朝方の石見の武将は、元弘3年後醍醐天皇船上山潜行以来、宮方に属して京都周辺や山陽方面で戦っていた。

それらの武将とは、佐波、三隅、周布、と後醍醐天皇からの綸旨で、長門探題討伐を行った高津長幸達の一族であった。

一方、武家方(北朝)の武将は、建武2年の足利尊氏が箱根の竹ノ下の戦いで勝利し、京を目指したことに大きな影響を受け、尊氏の味方になっていった。

それらは、益田、小笠原、出羽、吉川、福光らの武将である。

 

36.1.2.益田氏一族のこと

益田氏の祖である御神本国兼(藤原定通)は伊甘の郷に居を構え土着した。

建久三年(1192年)四代兼高(国兼→兼直→兼栄→兼高)は美濃郡益田に移住して御神本を改め益田氏を名乗り翌年七尾山上に七尾城を築いた。

建仁2年(1202年) の源平の戦いの際、益田兼高は源頼朝方につき、治承・寿永の乱の軍功により石見守護佐々木定綱に替り守護となった。

鎌倉時代の初め、益田惣領家として、 三隅・福屋・周布氏の庶子家に分かれていった。

鎌倉時代の半ば過ぎから、三隅・福屋・周布氏らの庶子家がさらに庶子家を分出し、三隅氏らは、それぞれが惣領として振る舞うようになった。

南北朝時代になると、益田惣領家は足利尊氏方に、三隅氏・福屋氏・周布氏らの庶子家は後醍醐天皇方となり、一族が互いに相争うようになり、惣領制が崩壊していく。

この時期の益田家の惣領は益田兼見(益田家8代目)であった。

 

36.1.3.三隅兼連

三隅兼連は三隅庄の地頭で三隅城(浜田市三隅町)第4代城主である。

当時の武将達の旗章は、自家の家紋や神号や仏号を記していたが、兼連の旗章は異なっていた。

兼連のその旗章は

六角形の中に久の字、それに続いて「義重於泰山 死軽於鴻毛」(義は泰山よりも重く、死は鴻毛よりも軽し)の文字が記されていたという。

これは、中国の歴史家である司馬遷の言葉「人固有一死、或重於太山、或輕於鴻毛、用之所趨異也」(人はもとより一死有あり、或は太山より重く、或は鴻毛より軽し、用のおもむく所異なればなり)を引用して、己の心意気を示したものである。

「島根懸史」によると、この旗は往年まで大田市久手町刺鹿圓光寺で蔵していたが、朽損して現存しないという。

 

兼連が勤王になったきっかけの伝説があると、「島根懸史」に次のように記している。

・・・・

元享三年藤原隆持石見守となり赴任した。

隆持来着後は守護・地頭との交際も円満にして屈辱的地位に甘じ世人よりは座敷陪堂(ほいとう)をなす、都にて食い兼ねし人なるべしとて其の体を見ては袖を引き合いて嘲笑せりといふ。

然るに兼連及周布兼家は何の見る所ありしにや隆持と親交を結び優待し家に長く留らしむるを常とせり。

偶(たまたま)隆持の三隅滞在中に一人の山伏僧が来游し降持と一面義あるものの如く座に上りて会食し談中、北條高時の狂暴にして叡慮を悩ますこと甚だしきを説くに及び二人涙共に降る。

兼連座に在り慷慨に堪えず諸人を退け鼎談密談数刻に及べり。

安(いず)くんぞ知らん腰抜国守は朝廷の命を受け国情を牒知せる為め特に下国せるものにて山伏僧は右少辨俊基(日野俊基)の変装せるものなりしといふ。

之れぞ実に兼連が志を皇室に寄せし初めなりけり。

・・・・

日野俊基は既述した「正中の変」の反幕府勢力が開いていた「無礼講」の参加者の一人で、諸国を巡り諜報活動をした人物である。

この日野俊基が、各地を巡って鎌倉幕府打倒の仲間を募っていた、ことは「太平記」にも記述されている。

しかし、その範囲は、木曾、北陸、東国とされており、石見まで巡ったまで下ったことの記述はない。

日野俊基が本当に石見まで来たのか、或いはその代理が来たのか不明であるが、こういった伝承が残っている。

日野俊基は元弘元年(1331年)に発覚した討幕計画である元弘の乱で捕らえられ、鎌倉の化粧坂上・葛原ヶ岡で処刑された。

 

かつて元弘3年閏2月下旬、後醍醐天皇が隠岐を逃れ出で船上山行在所より討幕の綸旨を発すると、空かさず三隅兼連は一族を率いて馳せ参じ、勤王の武将ぶりを見せた。

 

この日野俊基の話には尾ひれが付いている。

胡簶局(やなぐいのつぼね)(三隅兼連の妹)の話である。

三隅兼連、周布兼家、日野俊基が鼎談している折り、年は17か18才ぐらいの女が、三人の前に酒肴の膳部を運んだ。

見るからに立ち居 振舞いもなかなかよろしく、田舎育ちとは思えないぐらい気品も備わっていた。

日野俊基は問う『ご息女ですか?』

兼連は答える『いえ、妹です』

日野は『女柄も大きいし、容貌も美しくなかなかの出来物、宮仕えに、磨へお預け下さるまいか』と兼連に言ったという。

話はまとまり、俊基のすすめで胡簶局は禁裡へ仕えることになった。

采女とし て宮廷に仕え、後に後醍醐天皇の王子満良親王の子花園宮(後の石見ノ宮)の養育母となった。

戦乱の中、宮の養育は石見に帰って行われた。

 

この花園宮は浜田市宇野町にある、「若一王子神社」に熊野久須那比神と共に併せ祀られている。

胡簶局と石見ノ宮についての話は、後述する。

<若一王子神社>

石見神楽

三隅町石見神楽社中協議会のうちの「河内奏楽中」団体の演目に「三隅兼連」があり、奉納されている。
この舞に胡簶局も三隅兼連と一緒に登場している。


 

<この下のタグをクリックすると、youtubeの石見神楽「三隅兼連」に飛びます>

石見神楽「三隅兼連」

 

<続く>

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