55.応仁の乱その後(続き)
55.3.流れ公方
<足利義稙>
55.3.1.義稙逃亡する
明応2年(1493年)5月6日、幽閉された義稙に事件が起こった。
6日の夕食を食べている義稙が苦しみだしたのである。
毒を盛られていると思った義稙は、解毒剤を飲みなんとか一命をとりとめた。
『大乗院寺社雑事記』によれば、日野富子の指示で毒を盛った、とされている。
この事件のため、安全を期すために足利義稙の身柄は、龍安寺から上原元秀の屋敷に移された。
上原元秀の屋敷では、足利義稙はそれなりの敬意をもって待遇された。
数人の部下を従えることも許された。
ところが、足利義稙の今後の処遇について、ある噂が義稙の耳に入ってきた。
「小豆島に流されるらしい」という噂である。
これを聞いた足利義稙は決心する。
6月29日激しい嵐の夜、足利義稙は夜陰にまぎれて上原邸を抜け出した。
数人の家臣だけを連れて、いずこかへと姿を消してしまったのである。
幽閉先から逃亡した義稙は、再起するためにあちこちの大名を頼り、流浪することになった。
これが「流れ公方」(島公方とも)と呼ばれる所以である。
畠山政長の領国・越中国へ
まず、義稙は味方であった畠山政長の領国・越中国に入り、放生津(富山県高岡市)の神保長誠を頼る。
義稙は越中の地で文書を発給しており、「越中公方」と呼ばれた。
ここから各地の諸大名に対して協力を要請すると、北陸の複数の大名たちが応じた。
このころ政元は義稙に追っ手をやりますが、敗れてしまう。
義稙はここで打倒政元をめざしたが、実際のところ軍事協力をする大名はおらず、時間だけが過ぎていた。
明応6(1497)年ごろには政元との和平交渉が進められるが、決裂してしまう。
越前国の朝倉貞景を頼る
すでに明応の政変から5年もの月日が過ぎた明応7(1498年)年9月、義稙は軍事協力が得られない越中に見切りをつけ、越前の朝倉貞景を頼って一乗谷に入る。
翌明応8年(1499年)、かつての味方であった畠山政長の子・尚順が畠山基家を討った。
義稙は尚順と協力して政元と義澄を挟み撃ちにしようとした。
しかし、近江坂本まで出たところで六角高頼の攻撃にあい、敗れて比叡山に逃れた。
六角高頼
六角氏当主。
延徳3年(1491年)4月義稙の第二次六角征伐で追討され、甲賀、伊勢へと逃げ、近江守護を没収されていた。
明応4年(1495年)、第11代室町将軍足利義澄によって、近江守護に復帰。
55.3.2.義稙周防へ
次に頼ったのは、周防の大内義興だった。
周防(山口県)は京の都の地形に似ており、京を模して街づくりされた地で、「西の京」と呼ばれていた。
応仁の乱の後、公家や文化人は都から各地に落ち延び、全国のあちこちに「小京都」ができ、京都を模した周防は都の人々にとって過ごしやすい地であったと思われる
義稙はこの周防で8年過ごす。
明応九年三月五日将軍御成雑掌注文
山口に着いた義稙を大内義興は自らの館(大内市大殿大路)に招き、盛大な宴でもてなした。
その時の献立記録が「明応九年三月五日将軍御成雑掌注文」である。
山口県はその記録をもとに全32献を再現した。
『明応九年三月五日将軍御成雑掌注文』は明応9年3月5日(1500年、現在の4月)、大内氏館(山口市大殿大路、現龍福寺)にて、大内義興(第30代当主)が足利義稙(室町幕府第10代前将軍)をもてなした記録で、32膳(25献(こん)+2供御(くご)+4御台(おんだい)+御菓子)が出され、ひとつの御膳には3~5品の料理が並び、110品以上の料理名が確認でる。
この再現した料理を「平成大内御膳」として数種類の献立で、山口県内の宿泊施設で提供している。
<大内弘世コース>
大内義興が足利義稙を迎えたことで、大内氏と対立していた九州の大友氏は足利義澄派として対立し続けるが、義稙の調停により和睦し、停戦状態になった。
永正4(1507)年6月、義稙に上洛のチャンスがめぐってきた。
義稙を失脚に追い込んだ張本人である細川政元が暗殺されたのである。
細川政元暗殺後の混乱
細川政元には実子がおらず、3人の養子(澄之・澄元・高国)がいた。
この養子同士(それを擁立する内衆同士)が家督争いを起こして、この事件(永正の錯乱)がおきた。
政元はそれに巻き込まれ、澄之派に討たれたのだった。
その後まもなく、暗殺を果たした澄之も高国によって殺され、澄元が家督を継ぐことになった。
しかし、今度は澄元と高国が対立する。
以後、澄元派と高国派の戦い(両細川の乱)が始まるのである。
この混乱に乗じて足利義稙は大内義興とともに上洛をめざした。
55.3.3.義稙の将軍復帰
永正5(1508)年6月8日、義稙は京都に戻った。
15年ぶりの都だった。
将軍の足利義澄は、大内義興の軍が前将軍の足利義稙を擁立して上洛しているとの報を受け、近江の六角高頼を頼って朽木谷、さらに蒲生郡水茎岡山城に逃れた。
7月1日、義稙は征夷大将軍に再任された。
細川高国は足利義稙方につき、将軍家・細川京兆家(細川氏の宗家・嫡流)の家督相続争いが絡み合いながら、この後も足利義稙と足利義澄の対立は続いた。
翌永正6年(1509年)10月、義稙は就寝中に義澄が放った刺客に襲われたが、自ら応戦して難を逃れている。
この件を機に義澄討伐を決意すると、一進一退を繰り返しながら永正8年(1511年)の船岡山合戦で勝利する。
長く対立した義澄は合戦の直前に急死してしまう。
船岡山合戦船
永正8年(1511年)8月23日、室町幕府将軍足利義稙を擁立する細川高国・大内義興と前将軍足利義澄を擁立する細川澄元との間で起きた、幕府の政権と細川氏の家督をめぐる戦いである。
応仁の乱の際に船岡山を巡って発生した戦いと区別するため「永正の船岡山の戦い」ともいう。
この合戦に、石見から、周布、出羽、益田、小笠原、都野らの諸将が参戦している。
これについては後述する。
<建勲神社>
船岡山の中腹に建勲神社(たけいさおじんじゃ)がある。
この神社は織田信長を主祭神とし、子の織田信忠を配祀している。
これで義稙の将軍としての立場は安泰かと思いきや、義稙の再任に協力した義興や高国が政治に関与し、義稙の思い通りにはならなかった。
この状況に不満を抱いた義稙は、永正10年(1513年)3月に出奔して近江甲賀に入って将軍としての政務を放棄してしまう。
これに対して4月には細川高国・大内義興・畠山尚順・畠山義元の連名で将軍の下知に背かない旨の起請文が作成された。
同年5月に和解が成立して先の4名や伊勢貞陸が甲賀郡まで迎えに行き、義稙は京都に戻った。
大内義興の帰国
永正15年(1518年)、軍事の要であった大内義興が周防に帰国すると、義澄派であった細川澄元が翌年に阿波で挙兵する。
大内義興という大きな支えを失った細川高国は永正17年(1520年)に敗北し、近江に逃れた。
足利義稙は細川高国の不利と見るや、高国を見限って澄元に近づくのであった。
しかし、これは早計だった。
細川澄元の家督を認めて手を組んだものの、六角氏の協力を得た高国がすぐさま反撃に出て澄元は敗北したのである。
澄元家臣の三好之長は処刑され、澄元も阿波に逃げ帰って病死してしまうのであった。
55.3.4.足利義稙出奔する
結局、足利義稙は再び細川高国と手を携えてやっていくことになるが、一度裏切ったこともあってあまり関係がいいとはいえなかった。
義稙は高国が実権を握る現状に耐えきれずに再び出奔すると、堺から淡路へ渡り「淡路御所」と呼ばれた。
高国は義稙の出奔後、義澄の子である義晴を将軍に据えた。
これに義稙は再起をめざして兵を挙げようとしたもののかなわず、大永3年(1523年)4月9日、阿波細川家を頼って訪れた阿波の地で病死した。
享年58(満56歳没)。
実子のいなかった義稙は義澄の子である義晴、義維を猶子に迎えていた。
高国はその義晴を12代将軍に就任させた。
<鎌倉幕府第12代将軍 足利義晴>
以降、高国が擁立した義澄系(12代義晴、13代義輝、15代義昭)と義稙系(堺公方 義維、14代義栄)が対立を続けながら将軍職を継承していく。
しかし血筋としては義視・義稙の系譜は途絶え、義澄の子孫が続いていくことになるのである。
<続く>