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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−147(太平記(2)−1)

43.太平記(2)

 「太平記」は全40巻で、南北朝時代を舞台に、後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂、観応の擾乱、2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任まで(1318年 (文保2年) - 1368年(貞治6年)頃までの約50年間)を書いている。

この太平記には、数多く天竺(インド)、震旦(中国)由来の故事が出てくる。

当時の中国は、紛れもなく世界の中心であった。

また、日本に伝えられた仏教は、源流を遡ればインドにはじまるものである。

日本古代の知的活動は、中国伝来の学問と仏教によるものの二つの系譜が存在していた。

そこで、人道、政道の規範を示すために、中国・インドの故事を引用したものと思われる。

当時の知識人にとって、この天竺、震旦についての知識は最低限持つべき教養の一つである。

だから、太平記の作者は、千言万語を費やし説明するよりも、文明の先進国でこう言われている、と示すだけでその効果は十分あると、思ったのであろう。

また、作者も自分が相当な知識人であることを示したかったのかもしれない。


さて話は変わるが、「太平記」の主役の一人である後醍醐天皇は暦応2年/延元4年(1339年)8月16日に崩御し、もう一方の主役である足利尊氏が薨去したのが、延文3年/正平13年(1358年)4月30日である。

そして、尊氏の嫡男足利義詮が薨去(貞治6年/正平22年(1367年)12月7日)したところで「太平記」は完結している。

この物語では、この三人の死去については、今までその死没日を述べただけであった。

南北朝時代の最後の節として、「太平記」の記事を引用し、この三人の死去について記述する。

 

43.1.後醍醐天皇崩御

巻第二十一 先帝崩御事

南朝の年号延元三年八月九日より、吉野の主上御不予の御事有けるが、次第に重らせ給。

医王善逝の誓約も、祈に其験なく、耆婆扁鵲が霊薬も、施すに其験をはしまさず。

玉体日々に消て、晏駕の期遠からじと見へ給ければ、大塔忠雲僧正、御枕に近付奉て、泪を押て申されけるは、

「神路山の花二たび開る春を待、石清水の流れ遂に澄べき時あらば、さりとも仏神三宝も捨進せらるゝ事はよも候はじとこそ存候つるに、御脈已に替せ給て候由、典薬頭驚申候へば、今は偏に十善の天位を捨て、三明の覚路に趣せ給ふべき御事をのみ、思召被定候べし。

さても最期の一念に依て三界に生を引と、経文に説れて候へば、万歳の後の御事、万づ叡慮に懸り候はん事をば、悉く仰置れ候て、後生善所の望をのみ、叡心に懸られ候べし。」

と申されたりければ、主上苦げなる御息を吐せ給て、

「妻子珍宝及王位、臨命終時不随者、是如来の金言にして、平生朕が心に有し事なれば、秦穆公が三良を埋み、始皇帝の宝玉を随へし事、一も朕が心に取ず。

只生々世々の妄念ともなるべきは、朝敵を悉亡して、四海を令泰平と思計也。

朕則早世の後は、第七の宮を天子の位に即奉て、賢士忠臣事を謀り、義貞義助が忠功を賞して、子孫不義の行なくば、股肱の臣として天下を鎮べし。思之故に、玉骨は縦南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕の天を望んと思ふ。若命を背義を軽ぜば、君も継体の君に非ず、臣も忠烈の臣に非じ。」

と、委細に綸言を残されて、左の御手に法華経の五巻を持せ給、右の御手には御剣を按て、八月十六日の丑剋に、遂に崩御成にけり。

・・・・(略)・・・・

葬礼の御事、兼て遺勅有しかば、御終焉の御形を改めず、棺槨を厚し御坐を正して、吉野山の麓、蔵王堂の艮なる林の奥に、円丘を高く築て、北向に奉葬。寂寞たる空山の裏、鳥啼日已暮ぬ。

土墳数尺の草、一経涙尽て愁未尽。旧臣后妃泣々鼎湖(中国の地名)の雲を瞻望して、恨を天辺の月に添へ、覇陵の風に夙夜して、別を夢裡の花に慕ふ。

哀なりし御事也。

・・・・(略)・・・・

 

南朝の年号延元3年(1338年)(注:史実は延元4年)8月9日から、後醍醐天皇はご病気になり、次第に重くなっていった。

薬師如来の霊験に願ってもその効果はなく、どんな名医の薬を飲んでも効き目がない。

体は日々痩せていって、崩御の時も遠くないだろうと思われた。

そこで、天台宗門の忠運僧正が御枕元に寄って、涙を抑えて後醍醐天皇に言った。

「神路山(三重県伊勢市伊勢神宮内宮の神苑の山)の桜が再び咲く春を待ち、石清水の流れがいつか澄みきる時があるならば、まだ仏神や三宝も見放されることは決してないだろうと信じてきました。

しかし、御脈に変化がおありだということを主治医が驚いて申しておりますので、今となっては、どうかご退位になって過去の宿命や現在未来の煩悩をお捨てになることだけをお考えになって下さい。

ともかく最期の一念に応じて、来世においての世界が決まると経文に説かれておりますから、御崩御の後の事を、いろいろお心に懸けていらっしゃる事を、すべてお話し置き下さって、来世に浄土へ赴かれますことだけをお心におかけ下さい」

すると、天皇は苦しそうな息をついて、

「『妻子珍宝及王位、臨命終時不随者』、これは如来の尊いお言葉で、普段私が心に掛けていた事だから、秦の穆公が三人の賢臣を殉死させ、始皇帝が宝玉を一緒に埋めさせたようなことは、私はしようと思っていない。

ただ心残りなのは、これはもう生まれ変わっても妄念となるだろうが、朝敵を全て滅ぼして天下を太平の世にしようと思うばかりである。

私がまもなく亡くなった後は、第七の宮(第8皇子義良親王)を天子の位に即けて、賢臣忠臣らが皆で助けてくれ。

そして、(新田)義貞、義助の忠功を称え、その子孫に不義の事がなければ忠節な臣下として、天下を鎮めて欲しい。

こう考えるので、私の骨はたとえ吉野の苔に埋もれるとしても、魂は常に北(京の方向)の宮殿の空を見ていようと思う。

もしこの命に背いて正義を軽んずるならば、その君主は代を継ぐべき君主ではなく、家臣も忠節の家臣ではないだろう」

と細かく言葉を残して、左の手に法華経の五の巻を持って、右の手には御剣を取って、8月16日の午前二時頃に、御崩御になったのだった。

・・・・(略)・・・・

葬礼の事はかねて遺言があったので、終焉の姿をそのまま変えないで、棺を厚く作って、きちんと座ったままの姿で、吉野山の麓、蔵王堂の東北にある林の奥に、円形の塚を高く築いて、北向きに埋葬した。

静寂な枯れ木の山の中は、鳥が鳴いて日は暮れようとしていた。

塚にはもう背の高い草が生え、小道をたどっている間に涙は尽きたが、悲しみは尽きない。

旧臣や后妃は泣きながら帝が昇天された空の雲を眺め、天上の月を仰いで嘆き恨み、御陵の風に朝から夜まで、夢の中の花を惜しむように偲んだ。

悲しい事である。

・・・・(略)・・・・

 

<後醍醐天皇稜>

43.2.足利尊氏薨去

巻第三十三 将軍御逝去事

同年(暦応2年/延元4年(1339年))四月二十日、尊氏卿背に癰瘡出て、心地不例御坐ければ、本道・外科の医師数を尽して参集る。

倉公・華他が術を尽し、君臣佐使の薬を施し奉れ共更無験。陰陽頭・有験の高僧集て、鬼見・太山府君・星供・冥道供・薬師の十二神将法・愛染明王・一字文殊・不動慈救延命の法、種々の懇祈を致せ共、病日に随て重くなり、時を添て憑少く見へ給ひしかば、御所中の男女機を呑み、近習の従者涙を押へて、日夜寝食を忘たり。

懸りし程に、身体次第に衰へて、同二十九日寅刻、春秋五十四歳にて遂に逝去し給けり。

さらぬ別の悲さはさる事ながら、国家の柱石摧けぬれば、天下今も如何とて、歎き悲む事無限。

さて可有非ずとて、中一日有て、衣笠山の麓等持院に葬し奉る。

鎖龕は天竜寺の竜山和尚、起龕は南禅寺の平田和尚、奠茶は建仁寺の無徳和尚、奠湯は東福寺の鑑翁和尚、下火は等持院の東陵和尚にてぞをはしける。

哀なる哉、武将に備て二十五年、向ふ処は必順ふといへ共、無常の敵の来るをば防ぐに其兵なし。

悲哉、天下を治て六十余州、命に随ふ者多しといへ共、有為の境を辞するには伴て行く人もなし。身は忽に化して暮天数片の煙と立上り、骨は空く留て卵塔一掬の塵と成にけり。

別れの泪掻暮て、是さへとまらぬ月日哉。

五旬無程過ければ、日野左中弁忠光朝臣を勅使にて、従一位左大臣の官を贈らる。

宰相中将義詮朝臣、宣旨を啓て三度拝せられけるが、涙を押へて、帰べき道しなければ位山上るに付てぬるゝ袖かなと被詠けるを、勅使も哀なる事に聞て、有の侭に奏聞しければ、君無限叡感有て、新千載集を被撰けるに、委細の事書を載られて、哀傷の部にぞ被入ける。勅賞の至り、誠に忝かりし事共なり。

その年4月20日、尊氏卿の背中に出来物ができて重病の床についた。

内科外科の医師が数多く集まり参上した。

倉公(前漢初期の名医)や華陀(後漢末期の名医)のような秘術を医師が尽くし、さまざまな種類の薬を施したけれども、一向に効き目がなかった。

陰陽寮の長官や効験のある高僧が集まって、鬼見、太山府君、星供、冥道供、薬師如来の眷属十二神将の法、愛染明王、一字文殊、不動慈救、延命の法と数々の祈祷をしたが、病は日に日に重くなり、時が経つにつれて見た目にも頼りげがなくなっていった。

御所中の誰もが息を潜め、側近の従者は涙を押さえて、日夜寝食を忘れた。

こうしているうちに体が次第に衰えて、その月29日の午前四時頃、御年54歳でついに亡くなった。

死別の悲しみは当然のことながら、国家の柱石が亡くなったので、天下は今にもどうにかなるのではないかと嘆き悲しく事この上ない。

何もしないでいることはできないので、中一日おいて衣笠山の麓、等持院に埋葬した。

棺を閉じるのは天龍寺の龍山和尚、出棺は南禅寺の平田和尚、霊前に茶をお供えするのは建仁寺の無徳和尚、お湯を供えるのは東福寺の鑑翁和尚、火葬の火を点じるのは等持院の東陵和尚であった。

悲しいことに、将軍になって25年間、向かった相手は必ずしたがったと言っても、無常の敵が来るのを防ぐ兵はいなかった。

悲しいことに、天下を治めて六十余州、その命令に従う者は多いと言っても、この世を去る時には伴って行く人もいない。

身は瞬く間に変じて夕暮れの空の幾片かの煙となって立ちのぼり、骨は空しくこの世に留まって墓碑の下の一握りの塵となってしまった。

別れの涙にかき暮れて、涙とともに月日もまた留まることのないことである。

五十日が忽ちに過ぎたところ、日野左中弁忠光朝臣を勅使として、従一位左大臣の官を贈られる。

宰相中将義詮朝臣は、宣旨を開いて三度拝み、涙を抑えて、

帰るべき道しなければ位山上るにつけてぬるる袖かな

と詠んだ。

勅使も心打たれることだと聞いて、ありのままに奏聞したところ、帝(後光厳天皇)はこの上なく心打たれて、新千載集の編集の際に、その和歌を選び、詳しく詞書きを載せて哀傷の部に載録した。

帝のその賞賛はまことに畏れ多いことであった。

<当時院の庭園にある 足利尊氏の墓>

 

<続く>

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