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旅日記

望洋−60(沖縄収容所)

35.沖縄収容所

1945年4月1日に沖縄本島中部へ上陸した米軍は南北に分かれて進攻し、占領地域を拡大していった。

米軍は日本軍兵士と民間人を収容するために収容所を設置する。

戦争捕虜の日本軍兵士は捕虜収容所に、民間人は民間人収容所に収容した。

その収容所は主に沖縄本島北部の各地に置かれ、日本軍の組織的戦闘が終結した45年6月末には約28万人が収容されていた。

そこでは、残っていた家屋や茅葺きの家、テントなどに大勢が生活し、マラリアや栄養失調などで亡くなった人も多くいたという。

 

沖縄の民間収容所

1945年4月1日、米軍が上陸し日本軍の北飛行場(読谷村)と中飛行場(北谷村)を占領した日から住民の収容が開始された。

北谷では、米軍はいったん住民を北谷町砂辺と桑江に集めた。

しかし4月7日までには閉鎖され、砂辺収容所の収容者は徒歩で中城村の島袋収容所に、また北谷収容所の収容者は宜野湾村の野嵩収容所に移動させられた。北谷村の住民はその後、島袋から宜野座村の福山へ、と転々と移動を強いられ、戦後も北谷村全域が基地として接収されたため、多くの人々が帰村することができなかった。

米軍の占領が進むと次々に収容所が開設され、12箇所の民間収容所ができた。
(以上ウィキペディアを参照)

<沖縄県公文書館所蔵の写真:収容所内での日本人の生活の様子、籠に入った大豆を頭に載せて運ぶ少女。>

沖縄の捕虜収容所

沖縄戦で捕虜となった兵士や軍夫は捕虜収容所に入れられた。

捕虜は尋問の後、日本人兵士、朝鮮人軍夫、沖縄人兵士、さらに将校と一般兵、それぞれに分けて収容された。

米軍資料によると、1945年6月30日の時点で軍人7,401人、軍属3,339人、合わせて10,740人が捕虜となっていた。

捕虜の数はその後も増え続け、12月30日には16,346人となっている。(以上ウィキペディアを参照)

<​​屋嘉捕虜収容所(沖縄県国頭郡金武町屋嘉):沖縄県公文書館所蔵の写真>

 

 

沖縄の戦争体験証言は数多く残されている。

その中には収容所での体験談もある。

以下に、その体験談を抜粋し記述するが、体験の内容は千差万別であり、記述する体験談はその内のひとつである。

なお、掲載した写真(沖縄県公文書館所蔵の写真)は記述の内容と直接関係はない。

 

35.1.民間収容所

首里市のKさん(当時36歳女性)

当時Kさんは首里市当蔵の龍潭池の辺に住んでおり、Kさんのご主人は読谷飛行場で軍属として働いて、家には時たま帰るだけだったという。

昭和20年4月29日、空襲が酷くなり、真壁村(糸満市)へ立ち退き命令がでた。

Kさんは、ご主人と連絡がつかぬまま、真壁村へ向かった。

苦労して真壁についたが、ここでも立ち退き命令がで、港川(浦添市)にいくことになった。

途中、具志頭で一週間いたが、戦闘が激しくなる一方ということで真壁に引き返えした。

避難壕は避難民で一杯で、傷ついた兵士もいたという。

目をえぐり取られたり、手足がなくなっている兵隊達がもたれるような格好で入っていた。

入れる避難壕を探すのに苦労した。

壕や食物だけではなく水も不足してきたので、摩文仁に足を伸ばした。

そんな中、米軍が姿を現した。

Kさんの証言

・・・・略・・・・

米軍に捕まる

ふと見るとみんなが手をあげて向こうに行くのが見えたので、私達も降参しないといけないと思い、人がやる様に手をあげて歩きました。

すぐ赤ん坊みたいにまっ赤な顔をしたアメリカ兵がやって来て、最初は肩にかけていた銃を私達の前に米た時にはかまえたので、ここで撃ち殺されるのだなと思いましたが逃げる事も出来ず、もう子供達と一緒になら殺されてもいいと思いました。

手まねでついて来いと云われ森の上までゆっくり歩いて行きましたが、途中いつ殺されるのかと恐ろしくてガタガタ震えました。

登りきったところで一休みする様に云われ持ち物の検査をされました。

非常カバンに入れてあった紙幣と金を調べられ、お金だけ取り上げられ後のものは全部返してくれました。

歩きながら缶詰もあけてくれましたが、毒が入っているかも知れないと思って食べなかったので、安心させる為アメリカ兵自身が食べてみせていました。

豆の砂糖煮でしたが、あの時の味を今も覚えています。

連れて来られた広場には、大勢の人が集められ、大けがをしている人も沢山いました。

この広場に集めて車でひき殺すつもりではないかとかいろいろ考えて不安でした。

とうとう主人にも会えないで子達も死なすのかと思うとせめて主人に会ってから死にたいなと悲愴な気持ちでした。

ここに一時間位いて、やがてトラックに乗せられて豊見城村の伊良波に連れていかれました。

そこは収容所になっており、知人も沢山いて、私達はこうだった、ああだったとお互いに苦しい数か月の話で話題はつきませんでした。

主人の姿はみえないかとあっちこっちをウロウロ探しまわりましたが 、いずれ皆ここに来るのだからもう少ししたら会えますよと知人にも励まされ、それまではどうしても生きていたいと思いました。

<投降した沖縄人のグループ。傷を負い、当惑している1945-6-25撮影>

石川収容所

その日の夕方になってトラックが何台もきて身動き出来ない位それにつめこまれ、そこをたちました。途中もう夜になっていましたが通堂では電気も明々とついて港の夜間作業が行われていました。

降されたところは石川で金武や国頭に連れていかれる人達と別れました。

もう六月も末近くになっていましたがこの石川の収容所には四月からいるという人もいて家もあちこち残っていました。

ここまできて初めて殺されるのはいつかなという不安から逃れる事が出来ました。

私達は運動場 (今の宮森小学校辺り)に降ろされそこに一週間位いました。テントも何もなかったので福木の葉をとって来て砂の上にそれを敷いて寝泊りをしました。

食事は小芋をたらいに入れて配給してくれました。たまには牛肉を炊いたものもありましたが、配給の時は我先にと手ずかみで取れるだけ取りました。

一週間後には大きなテントをもらって、五〇世帯一緒に入りました。

各世帯を箱で区切るだけのものでしたが、その頃からは一人一勺の米の配給もあり、私達は五人家族でしたので五勺ありましたが、皆が毎日食べるにはとうてい足りませんでした。

その頃から軍作業に出ていく人が多くなり、作業に出た人には大きなおにぎりがもらえてそれを食べていましたが、 うちの子供達はそのそばにじっと立って羨ましそうに見ていました。

子供達が可哀相なので私も軍作業に出ようと思いました。

軍作業の女班長

たまたま軍作業の班長をしている人と知り合いだったので、その人に頼んで入れてもらいました。

石川には軍作業の事務所があってそこから方々に作業に出ていったのですが、最初は安富祖に行かされました。

六〇名でグループを作り班長が一人いました。アメリカの隊長が「貴女は妊娠しているからなるべく坐わっていなさい 」と云って時間までごみ捨てや空薩の片づけ位の仕事しかさせませんでした。

そして翌日からは貴女が班長になりなさい云われ、女で班長しているのは誰もいないし恐くて嫉だとことわりましたが、大丈夫だからと隊長に云われ、班長になりました。

アメリカの兵隊とは言葉は知らなくても手まね足まねで結構通じました。炊事、掃除、洗濯に各二〇名ずつに分け、私はその人達のところをぐるぐるまわって監督をしていました。

当時軍作業に出ていた人は戦果としていろいろな物を持って帰ったものですが、収容所の入口で調べられ取り上げられたものです。

私の分は、隊長が取り上げない様にという書きつけをくれたお陰で取り上げられませんでた。

他の班長から文句が出たこともあり、その時もこの人の分は隊長からもらったのだからかまわないという事になり、もらった物は何でも持って帰れました。

食糧なども倉庫に連れていっていろいろな物をくれるし、着るものは網の落下傘をもらって作り、主人はスクールティチャー (一中で普道を教えていた)をしていたといえば主人に上げなさいと時計までくれました。

出産もせまってきたので、 九月から十一月の間にすっかり出産準備を整え、軍作業を辞めても心配ないだけの食糧も貯えてあったので辞めました 。

辞めてからも衣料品などをもらい、それで布団を作ったりして大いに助かりました。

思い切って軍作業に出たお陰で何もかもうまくいきましたが、気がかりなのは主人の事で した。

その頃までは主人が死んだとは思えず、人の出入りの時には必ず見に行っていましたし、トラ ックで男女別々にされ、男は屋嘉、女は石川やその他のところに収容されていたので主人もどこかの収容所にいると信じていました 。


あるいはハワイに連れて行かれているかも知れないという人もいて、こんなに長い間会えないところをみるとハワイかもしれないとも思いましたが、とうとう帰って来ませんでした。

出産後は軍の作業には行きませんでしたが、居住区域の班の班長をさせられ配給の仕事等を主にしていました。

<沖縄最大の民間人収容所のある石川市(現:うるま市)で開かれた演芸会で歌を披露する小学生1945-5撮影>


<沖縄最大の収容所のある石川市(現うるま市)で開かれた演芸会で中国風の踊りを舞う沖縄の少女1945-5撮影>


首里での生活

石川の収容所に収容された翌年 (一九四六年)の十一月に首里に戻って来ました。

ここでも暫くはテント生活をしていましたが、規格住宅をもらう為に安謝の軍作業に一か月位行き、材木などの運搬の仕事をしました。

一九四七年に民政府管轄の託児所が首里の当蔵、鳥堀、赤田の三か所に出来たので、そこに勤めさせてもらいました。師範学校の運助場跡でしたが三歳未満の子供達を対象にしていました。

俸給が二百円で一家をささえるには苦しかったので、託児所の仕事が済み次第その託児所の仲間達と一緒に知りあいの人から買ったとうもろこしをかついで糸端まで売りに行き、帰りは酒や油や小魚を買って帰り、それを母に売らせたりして生活の足しにしていましたが、往復とも識名から上間に出て豊見城を通り糸満までずっと歩き通しでした。
・・・・略・・・・

Kさんは、結局ご主人に再会することはできていない。

Kさんは、「人の話から推測して6月20日を主人の死んだ日として弔っている」

「戦後28年もたった今でも昨日のことのように思い出して主人を亡くした悲しみ一生消えないのです」

と云った。

 

次回は捕虜収容所に触れる。

 

<続く>

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