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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−109(南北朝時代へ−2)

35.南北朝時代へ

35.2. 金ヶ崎城の戦い

 後醍醐天皇が吉野に行幸し、近辺の武将が馳せ参じていることが伝えられると京都は狼狽し、諸国の武将は落ち着きを失った。

 しかしこの情報は、金ヶ崎城に籠もる新田義貞たちにはすぐには届いていない。

届いたのは翌年の正月二日で、届けた者は亘理新左衛門忠景である。

 

亘新左衛門忠景

明治42年9月出版の「金崎宮参拝案内記」と「太平記」にその様子が記されている。

 

「金崎宮参拝案内記」の「亘新左衛門忠景泳渡の古跡」

 延元二年正月二日亘新左衛門忠景後醍醐天皇より新田義貞へ下し給へる勅書を髻に結び櫛川の出崎より海を泳渡り金崎城に入り勅書を新田義貞に傳へし際泳ぎ初めしは櫛川の出崎(花城山の麓の海岸にて鴎ヶ崎と相對せし出崎なるべし松原以東の陸地には敵軍充満せるが故同所より海上を泳ぎ渡りしなり)にて上陸せし地は同所と相對せる金崎城の搦手夫婦岩の海岸ならん同海岸に(鴎ヶ崎麓の海岸)亘忠景腰掛け岩と云傳る岩あればなり。

           

 

「太平記」

去程に、先帝は吉野に御座有て、近国の兵馳参る由聞へければ、京都の周章は申に不及、諸国の武士も又天下不穏と、安き心も無りけり。

此事已に一両月に及けれ共、金崎の城には出入絶たるに依て、知人も無りける処に、十一月二日(1月2日の誤りと思える)の朝暖に、櫛川の島崎より金崎を差て游者あり。

海松・和布を被く海士人か、浪に漂ふ水鳥かと、目を付て是をみれば、其には非ずして、亘理新左衛門と云ける者、吉野の帝より被成たる綸旨を、髻には結付て游ぐにてぞ有ける。城の中の人々驚て、急ぎ開て見るに、先帝潜に吉野へ臨幸成て、近国の士卒悉馳参る間、不日に京都を可被責由被載たり。

寄手は是を聞て、此際隠しつる事を、城中に早知ぬと不安思へば、城の内には助の兵共国々に出来て、今に寄手を追掃ぬと、悦の心身に余れり。

 

後の話となるが、新田義貞が討ち死にすると、この亘新左衛門忠景は他の武将と共に朝廷側の武将を頼って石見に下って来たと、云われている。

そして、歴応3年/延元4年(1339年)は南朝軍として足利方の天野兼倶の居城である市山城(江津市桜江町市山)を攻め勝利した、と云われている。

また、亘新左衛門が桜江町川越(渡)で一時過ごしたとの伝承がある。

それらについては、後述する。

 

金ヶ崎城落城

 金ヶ崎城の兵糧は日に日に尽きてゆき、城中は飢餓に襲われた。

 『太平記』は「死人の肉すら食べた」、『梅松論』は「兵糧がつきた後は馬を殺して食糧にした」「城兵達は飢えから『生きながらにして鬼となった』」と、その凄惨さを叙述している。

 3月5日から足利軍による最後の攻撃が行われ、翌6日に金ヶ崎城は陥落する。

 落城に際して、義顕や尊良親王は自害、恒良親王は捕虜となった。

義貞は、前日の夜に洞院実世らとともに脱出したと『太平記』には書かれているが、激戦の中、二人の親王を置いたまま脱出したことについては、義貞が本当にそのような行動を取ったのか、真偽を疑われている。

 また、義貞は金ヶ崎城と杣山城を往復して指揮を取っていたとも言われており、2月に金ヶ崎城を出て、杣山城にいる間に金ヶ崎城が落城してしまったのではないかという見解もある。

いずれにせよ、義貞が落城の折難を逃れて生き延びたことは事実であった。

金ヶ崎城を失った義貞は杣山城を拠点とし、四散していた新田軍と糾合して足利に対抗する。弟義助は、越前国三嶺城を拠点とし、足利軍を牽制した。

8月になると、奥州の北畠顕家が上洛の途につく。

途中、義貞の次男新田義興と、南朝に帰参した北条時行がこれに合流する。

翌延元三年、顕家は上杉憲顕などを退け、西へ破竹の勢いで進軍した。

 

後醍醐天皇は各地の南朝勢力に対し、顕家の挙兵に呼応して決起するよう促した。

杣山城の義貞は、2月に斯波高経を鯖江で破り、越前国府の攻略に成功する。

 

『太平記』ではこの報が越前中に伝わると、足利方の出城73が降伏を申し出たという。

また、伊予の大舘氏明、丹波の江田行義らも呼応して決起し、京都の足利軍を包囲して一斉攻撃により殲滅するという構想であった。

 『太平記』は、顕家が伊勢ではなく越前に向かい義貞と合流すれば勝機はあった、越前に合流しなかったのは、顕家が義貞に手柄を取られてしまうことを嫌がったからだと記述している。

 

<明治42年9月21日 建立>

新田義貞討ち死

翌延元3年/建武5年(1338年)閏7月2日、義貞は越前国藤島(福井市)の灯明寺畷にて、斯波高経が送った細川出羽守、鹿草公相の軍勢と交戦中に戦死した(藤島の戦い)。

江戸時代の明暦2年(1656年)にこの古戦場を耕作していた百姓嘉兵衛が兜を掘り出し、福井藩主松平光通に献上した。

象嵌が施された筋兜で、かなり身分が高い武将が着用したと思われ、福井藩軍法師範井原番右衛門による鑑定の結果、新田義貞着用の兜として越前松平家にて保管された。

また、万治3年(1660年)、福井藩主松平光通は兜が発見された場所に「暦応元年閏七月二日 新田義貞戦死此所」刻んだ石碑を建てた。

このことから、この地は「新田塚」と呼ばれるようになった。

義貞が討死してから兵勢は振るわず、一族諸将もそれぞれ散った。

この中の一部の武士たちが石見にやって来た、という伝説が石見の一部に残っている。

その武士たちとは新田左馬助義氏らの部将であり、五百騎ばかりで、新田源氏の再挙を計ると共に南朝への忠節を守り、海路で石見軍を頼って来たという。

 

<続く>

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