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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−13 (柿本人麻呂伝説−2)

4.1.2. 戸田柿本神社旧記

益田市戸田町に戸田柿本神社がある。

社伝によれば、当地の「語家(綾部家)」の出身である柿本人麿が、老年を過ごした高角鴨山で神亀元年甲子3月18日に逝去したことから、死後に戸田村に社を建てて人麿の霊を祀ったことに始まるとされている。

この戸田柿本神社は宝永7年(1710年)津和野藩主亀井茲親によって創建され、代々綾部家が宮司を務めている。

 

『綾部氏家系』や『戸田柿本神社旧記』と、 次のような話が伝承されている。

<綾部氏家系>

「綾部氏其先、出ずる所詳ならず。 初め大和に住し、柿本氏に仕へ、氏の石見に下らるるに際し、 陪従して美濃郡小野に住し、世々語家と称し、柿本氏に仕う。 柿本某、語家の女を嬖幸して、一男を挙げられ、其児、幼にして父を喪へるを以って、語家これを養育したりき。これ柿本朝臣人麻呂なり。」

綾部氏というのは「漢部」ともいわれ、渡来系の一族ともいわれている。語家というのは、 可太良比ともいわれ、古代における語部の一種とされている。語部とは、ことばに精通し、天語(神話) を職とし、それとともに、鎮魂も主とした部族のよ うで、巫女をもって代々世襲されたものと思われる。

<戸田柿本神社旧記>

 「人麻呂おひおひ成人なし給に従ひ、学芸の道おろかなく、御名中国に高く聞こはしましぬ。その頃嘉多良比の許へ七十ばかりの老翁日毎に来り、人麻呂に書を授け、また互に歌をよみ詩を作り、或は弓馬の術を教へ、日傾けば 何処ともなく帰り去りける。」

大陸から多くの文化人が渡来するこの古代において、日本を背負う教養をもつ青年として、人麻呂さ んはこの小野の地で成長していったようである。

戸田柿本神社の宮司綾部さんのご厚意により、戸田柿本神社の宝物蔵内を見学させて頂いた。

次の写真の左上の説明書きに上記の伝承が記載されているのが見える。

 

上記の伝承以外に、「我は父母もなし、知所もなし。 ただ和歌の道のみ知れり」と言って、柿の木の下に童形の姿で出現したという伝承も、ここには残っている。

 

遺髪塚

綾部家の一角に、人麻呂さんの遺髪塚がある。 これは人麻呂さんの死後、綾部家の人がその遺髪を持ち帰り埋葬したということである。

享保10年(1725年) 綾部家改築の時、敷地の一部を掘った時に、先祖からの伝えの通り、古い骨壷が出土し、開き見た際に、神殿鳴り動き、御神体落有したので、人麻呂さんの 御廟所にまちがいないと確認したと伝えられている。

昭和52年(1977年)梅原猛氏を中心として調査が行われた。大きい備前焼の壺の中から黒い鉢の破片が出土した。この破片は奈良時代まで遡るとも推定された。

また基石の間から江戸時代の古銭等も出土し、亨保の伝承もまちがいないと確認された。

また、柿本人麻呂はこの地で誕生した、との石碑もあった。


<続く>

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