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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−12 (柿本人麻呂伝説−1)

4. 柿本人麻呂

柿本人麻呂が作った歌は約370首あり、万葉集には長歌16首、短歌が61首載っている。

しかしこれほどの万葉の大スターでありながら、人麻呂の名は正史に全くあらわれていない。経歴や生没年は不詳(生:不詳、没:和銅元年(708年)頃)であり、残っている伝説や歌から経歴や生没を推し量るだけである。

近江、瀬戸内海、石見での歌から、人麻呂は地位はそれほど高くない官吏として四国、九州、中国等に遣わされていた、また臨終に臨んでの作などから人麻呂は石見で世を去った、ともいわれている。

一方、島根県誌(大正12年発行)、石見誌(大正14年10月31日初版発行)や邑智郡誌(昭和12年12月20日初版発行)に歴代の石見国守が列記されている。

それをみると、柿本人麿は国守として記載されており、任命年は慶雲2年(705年)頃としている。

この、石見守**、出雲守**などと国司名を名乗る制度は、江戸時代まで続く。

室町時代後期になると、この国司名は実質的な価値は無くなったが、名目的な意味で江戸時代まで使われ、明治22年(1889年)大日本帝国憲法発布によって、律令制度の廃止に伴い国司名使用も廃止された。

 

4.1. 柿本人麻呂伝説

人麻呂伝説の中で興味深いものを以下に記述する。

ところで、伝承は、遥か昔から延々と伝わったことがらであり、口承の場合が多いので、当然明確な根拠があるものは少ないし、時代錯誤つまり、時代の異なるものを混同していることもある。

また所変われば、違った内容で伝承されていることも多々ある。

現代の感覚で伝承を聞くと、辻褄の合わないことや、どうしてそんな展開になるのかと思うようなことも多いが、気にしていたら、前に進まない。

例えば、昔は猿猴の存在を信じていた人もいたし、日蝕や疫病の原因やそれに対する対策もわからないから、何かの祟りのせいにして祈るしかないこと等も、事実として認める必要がある。

これらのことを承知の上で、伝承を読み解くことが大切だと思うのである。

 

4.1.1. 二宮村史

二宮村史の中で柿本人麻呂を割と詳しく記述している。興味深い内容なので次にその要点を記載する。

(二宮村:現江津市二宮町)

<抄録>

柿本臣は、大和皇別小野臣と同組、天足彦国押人命(*第五代孝昭天皇の第1皇子)の後で、敏達天皇の御世、家門に柿の樹があったから、柿本臣と為されたという。

大和国添上郡に櫟本という地で人麻呂は生まれた。幼少のときに父に死に別れ、母に連れられて、石見国美濃郡小野の郷の親類にたよった。

人麻呂は、親に孝に、他人にも親しみ深く、人々には可愛がられたが、間もなく母にも死なれ、一人ぼっちとなってしまった。生まれつき賢く、物覚えが格段良いので、語り部として世に立ったらいいだろうということになり、この地に伝わる伝説や物語を一切覚えた。

この頃、角の郷恵良の里に国府があり、学校もあったが、入学は許されぬので、遠い道を時々来て色々質問して知識を増やしていった。

人麻呂が二十歳になった頃、清見ヶ原に居る天武天皇が、皇室や国の歴史を書き著すために、古い書物や物語をよく知っている者を集めた。人麻呂は出世の時節が来たと、喜び勇んで上京した。

しかし、その人麻呂の青雲の志は露と消えた。

それは、人麻呂が覚えた話の中の「大國王の時、こちらのもとめの煎豆に花を咲かせて来て、鬼が人間をくれよと迫った」という出雲・石見の昔語りは、朝廷の忌避に触れて、語り部としては不採用になったからである。

気落ちしていた人麻呂はある人の周旋で帳内出仕となったが、これは宮中の小使程度のものであった。しかし、遠からずして人麻呂の才学・人柄は人に知られるところとなり皇太子草壁皇子の舎人に採用された。人麻呂は殊に歌の才能を愛でられ、皇子の行啓にお供したり、持統天皇の行幸に扈従した。

人麻呂が40歳のとき、三度目の妻歌人依羅の娘子を娶った。

人麻呂は役人として筑紫へ下ったとき、依羅娘子は田舎に住むことを嫌ってか、ついて行かなかった。二、三年で都に帰り、新田部親王に仕えたが、飾り気が多く騒々しい都よりも、大自然に抱かれる田舎を好む人麻呂は、再び地方官を望んだ。

石見国府の官人に志願し、石見権守に任ぜられた。時は慶雲二年の頃である。任地の角の郷恵良の国府に赴いたが、この度も本妻依羅娘子はついて来なかった。

このことについて、口さがなき人々は「角の浦には浦潟無し」と言った。(浦潟は裏方の意味で貴人の妻のことをいう)

数年後、人麻呂は里の井上という豪族の女と結婚した。これが世にいう「恵良の媛」である。

郷里に落ち着いた人麻呂は、殖産興業に勤め、特に紙を造ることに力を入れた。後の世に石見半紙として名高い産物になったのはその賜である。

和銅二年三月十八日、人麻呂は48歳で熱病にかかってこの里で亡くなった。

熱病の治療として熱が発散しやすいように透床を作り、頭の熱を取るために冷たいすべすべした石を枕にしたという。

恵良には、四十八、透床(すいとこ)、枕石(まくらい)という地名がある。

 

JR都野津駅から2Km南方に二宮町神主地区に恵良という小集落がある。

道路脇の小高い丘に「依羅娘子生誕伝承地」という標柱が立っている。

スイトコ人麻呂終焉伝承地

君寺の歌碑

 

<続く>

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