FUNAGENノート

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私たちの感情を支配しかねないマスコミ

2018-02-13 14:38:58 | コラム
私たちの感情を支配しかねないマスコミ
 私たちの生活に深く関わる三権(立法、行政、司法)と呼ばれる権力の他に第四の権力、マスコミは私たちの感情を支配している。マスコミは、三権に関わる人間どころか、わたしたち民間人や企業、各種団体にも、大きな影響を与えている。報道のいかんによては、個人を抹殺したり、企業や団体を存亡の危機にまで追いやる力を持っている。逆に大きく注目を受けて時の人となることもある。観光客がおしよせ、地域の経済を潤おすこともある。しかし、もちろん、それだけでなく、私たちの知る権利を代行してくれている事も否定はできない。いずれにしても、私たち現代人の心はマスコミに牛耳られているという側面は残念ながら認めざるを得ない。だからこそ、マスコミに携わるものは、気を引き締めて事にあたることが求められている。それと同時にわたしたちは、牛耳られないように心しなければならない。
 藤田省三(思想史家、政治学者)は、次のように言っている。これは1969年時点での講演の中で言っていることであるが、今でも十分通じるし、その時代以上に実感がわく言葉である。
《私たちの空間の中にある諸々の価値というものは、歴史的にさまざまな契機が合流して作られてきた多様な側面をもつ多面体であるにもかかわらず、テレビとかラジオとかいった空間上の「目」は、それらを一面化して取り扱うだけで、物事は多様な、歴史的に作られてきた側面をもつ多面体であるという認識をいよいよもって失わせるばかりなのだ。さらにその一面的なお仕着せの「目」でもあるテレビという空間は、それ自身の自己イメージで自己運動を起こして増殖し、一面性だけがいよいよ強化されてしまう。》「語る藤田省三ー現代の古典をよむということー」(竹内光浩・本堂明・武藤武実編・岩波現代文庫)
 TVによって、一億総白痴化時代が来ると言ったのは、大宅壮一氏だったが、これは、藤田省三氏の言っていることと同じだろう。(断っておくが、今は「白痴」という言葉を使うとレットカードとなることは熟知している。)
 しかも、新聞離れ、読書離れが進む中、マスコミとしてのテレビの役割はかつてより増大しているであろう。それどころか、新たな分野、SNS空間の広がりによって、一層複雑化しわれわれに襲いかかってきている。
TVは、空間を移動することは無いが、SNS空間は寄生虫のように人間とともに、移動する。そこから、別な方向に展開することとなる。
 最近、毎日新聞に報道された「ヘリ墜落事故、被害者に暴言、想像力欠き冷酷」という見出しで、《佐賀県神埼市での自衛隊ヘリ墜落事故で、家を失った住人が罵声を浴びている。沖縄で相次ぐ米軍ヘリの不時着や部品落下の事故では「それで何人死んだんだ!」と国会でやじが飛んだ。」基地のそばの不安を抱を抱え生きる人びとへ想像力が、失われかけていないか。》
 実は、被害者に対する暴言がネットの中を飛び交っているのだ。奇跡的に助かった女児(11)の父親が、「許せないですよね」というコメントが報じられると、ツイッター上に避難の投稿であふれたと言うのである。
 「何様?墜落して無くなった隊員の事考えねーのかよ」
 「わざと落ちた訳じゃないし、許せないの意味が分からん」
 「死ななかっただけいいじゃないか」などなど。
 ここで重要なことは、顔の見えないことをいいことに勝手な暴言をはいていることだ。こういう言動はツイッターという空間で、結構行われているのだ。バトルを繰り返しているのだ。ここで上げた事例だけではない。 このことは知性がなく、理性を失った反知性主義者が大勢いることを物語っている。起きている事柄の意味を吟味し双方の立場も考えることをせずに、簡単に暴言を吐いているのだ。こういうことが、広がり出すともう止められないところまで来てしまう危険性をはらんでいる。不特定多数の情報が、目に見えない権力となる恐れをはらんでいるのだ。「自身の自己イメージで自己運動を起こして増殖し、一面性だけがいよいよ強化されてしまう。」(藤田)ような人間に成り下がってしまっている。それは寄生虫のようなSNS空間によって、成り下がり方が一層増大してきている。
 多分彼らは、面と向かって暴言をはくことはないだろうが、このように顔の見えない空間では、それをいいことに実際には言えないようなことを言っているのである。一般人ばかりではなく、公職についている人、タレントの中にも結構すごいことをツイッターでつぶやいているのである。公的空間(公式であろうとなかろうと)で、もしこの話をしたら、公職からはずされるか、タレントをやめなくてはならないことになりねないことまでも、つぶやいているのだ。
 実際に、国会という場で「それで何人死んだ」とヤジを飛ばして辞任した副大臣もいるのだ。内心は感情的にそういう考えを持っているにもかかわらず、辞任の理由は、あいかわらず、議会の運営に迷惑をかけたくないということになってしまう。ホンネとタレマエをうまく使い分けているのである。このホンネが、迷うことなく平然と語られている。最近の政治家も、たぶんほとんどがツイッターを使っているだろう。その中で、勝手なことを言い出している。最近の国会の面白いのは、このツイッターの中身までが、追求のための材料となっている。
 「マスコミ」は、まだ、発信の責任の所在がはっきりしているから、間違った報道であれば、訂正や謝罪はできる。ところがこのSNS空間への広がりによって生じた「ツイッター」は、責任の所在が明確でないところが大きな問題なのだ。しかも、風向きが悪くなると、急いでその文面を消去してしまって、平然としているのである。
 いずれにしても、無責任な言動が繰り返され、それが増幅すると、世の中は困った方向に動き出すことになりかねない。
 話を自衛隊ヘリの墜落事故に戻して考えると、先のような暴言は、戦時中の軍部の横暴とかさなってしまう。当時はお国の為にがんばっているのだから、多少の事には目をつぶるという状況にあったと思う。明らかに法規に違反していても、軍部ということで許されていたことが結構あったであろう。
 自衛隊ヘリの墜落は、あってはならないことであることには間違いないのだが、その過ちを指摘したことに対して過剰なぐらいの暴言をはいている。これは、「いつかきた道」に通じる道である。
 確かに自衛隊員も亡くなられた。少女も危ない目にあった。そして家屋も破壊された。原因は、人為的ミスか、構造的ミスかはまだ不明のようだが、いずれにして事故は自衛隊ヘリの墜落で起きたことは事実である。もっと私たちは冷静に判断すべきであるが、この冷静さがなくなるところに、ツイッターのもっている怖さがある。人心を惑わす危険がある。
 このような不確かな情報が、社会をかき乱すことになる。一自衛隊ヘリの墜落事故だけの問題ではない。これは一つの事例として述べたにすぎない。テレビという空間だけでなく、SNS空間までに広がりをみせたマスメディア、そこで得た情報をどう処理するか、個々人の大事な課題である。


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