FUNAGENノート

私の考えたことや、読書から学んだことを伝えます。
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暇と退屈の現実

2017-01-04 12:57:30 | コラム
暇と退屈の現実
 以前に発表したものを、もう一度掲載します。理由は、過重労働の問題が、電通事件を中心にクローズアップされているからです。私達日本人は、ややもすると「働く」ことを美徳と考えてはいないでしょうか。人間には「遊び」というのも必要ではないでしょうか。「働く」があって「遊び」があって、ちょうど良いのが人生でしょう。人生にはめりはりが必要なのです。過重労働がそれを妨げているのです。そればかりか、一方において現在の世相が、このめりはりを妨げているという現実があります。そいうことで、少し改定して再度掲載することにしました。

 「貧乏暇なし」とか「暇をもてあそぶ」とかよく言われる。「暇はあるけれど、退屈だ」という人もいるし、「暇はないから退屈など考えたことなどない」という人もいるだろう。
 昔は、貴族階級が存在し、彼ら有閑階級は、暇を有効に使って、音楽や舞踏、絵画、優れた工芸品の収集などで、暇からぬけだし退屈を克服していた。
 ところが、二〇世紀になって世は大衆社会となり、多くの人々が暇を得ることができたが、その暇の使い方を知らなかった。そのために文化産業が「楽しいこと」を提供してくれる時代が到来した。何をしていいのかわからないという欠落感が「何かに打ち込む」ことを望むようになる。そこに文化産業がつけ込むこととなる。
 レジャー産業はその最たるものだが、多くの産業は人々の欲望を作り出してしまう。だが、決して退屈は解消されない。解消されるのは気晴らしである。
 TYやネット、あるいは広告などによって「個性」を煽り、消費者は消費によって「個性的」になることを求められる。ガルブレイスは「自分の欲望を、広告屋に教えてもらう。」と言った。
 事実、パソコンのソフトやスマフォのアプリなどが登場する。ところが新しいのがでると、今度はパソコンやスマフォの能力がついていけなくなる。新しいOSやCPU(PCの頭脳を司る)や新機種のスマフォでなければ用をたせない。だから、新機種に取り替える。
 この連鎖はいつまでも続くこととなる。それが「現代の疎外」という現象となって現れる。自分で自分を蝕むという疎外感で満ちあふれる。
 暇なき退屈はひとときの「気晴らし」とはなるが、消費と退屈の悪循環はずっと続くこととなる。まさに暇の奴隷となってしまっている。
 私たち人間は、存在の中に身を置き、そこを自由に移動している。もちろん、動物だって同じであろう。ただ人間はその存在の中を自由に移動できる能力は動物以上かもしれない。ただ他の能力は動物の方が優れていることもある。この人間の高度な移動能力が、実は考えるということを可能にしているのだ。もちろん動物だって考えているが、それは人間の高度な移動能力の中での考える力とは比べものにならない。それなのに、特権であるはずの高度な移動能力を、文化産業に命令されて移動させられている人間が多い。これでは、自分たちの高い移動能力は生かされないままだ。
 TVやネットで紹介されると人が集まり長蛇の列、何かの賞をとったら、それががぜん注目される。あっちいったりこっちいったり命令の意のまま右往左往する。
 高度な移動能力の中、存在の中に何か今までとは別な要素が入り込むと、今までの考えや感情を刺激し、別な考えや感情への変更を迫られることになる。そこで大切なのは、今までの考えや感情などと新しい考えや感情への移行の過程である。数学の公式や科学の法則は、それに数値を当てはめることではなく、その生まれた過程を読みとることだ。
 その中で、私たちは生きる術を獲得するのだ。私の存在に立ち向かい、それとの付き合い方を発見していくことが大切なのだ。それが退屈からの解放の一番の手だてである。
 文化産業が煽った存在(この存在は「私の存在」ではない)を消費するのではなく、言ってみれば自分が自分を煽る存在(これこそ「私の在」)を見つけることだ。
 今私たちは、消費社会の加熱状態から脱却することが求められてる。しかし、この大きな波は、津波のように押し寄せ、私たちの心を体をなぎ倒し、大海に投げ出されようとしている。この現状は憂うべき姿である。この世界中に広がるこの大波をどうするか。グローバル主義・新自由主義からの脱却なくして、くい止めることはできないであろう。
 次から次と出てくる商品のために、企業は設備投資がままならず、人間の労働力に頼ることとなり、非正規雇用やパートが増える結果となる。コスト削減のために人数を減らし、過重労働を強いられる。また、世界各地の人件費の安い国へ工場を移すこととなる。企業は国際的となりグローバル化する。こういう状況を少しでも減らすためには、消費社会からの脱却が必要なのだ。文化産業に踊らされないことが必要なのだ。
 そんなことを書いていると、例の「ポケモンGO」の配信と各国での問題、日本に上陸したことへの反響がTVや新聞紙上を賑わしている。ご多分にもれず、人間たちは踊らされている。しかもグローバル化によって世界中にである。
 最後に国分氏が述べていることを紹介して終わりにする。
『人々は浪費家でなく、消費者になることを強いられている。物を受け取るのでなく、終わることのない観念消費のゲームを続けている。そこでは満足は遠のき、そこに退屈が現れる。これを疎外という。人間は気晴らしという楽しみを創造する知恵をもっている。消費社会はこれを悪用して、気晴らしをすればするほど退屈が増すという構造を作り出した。』
『パンとともにバラももとめよう。人の生活がバラで飾られるようになれば、社会はかわるであろう。』「暇と退屈の倫理学」(国分功一郎著・太田出版)
 この書物に出会ったことに感謝!


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