Crónica de los mudos

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バレリア・ルイセリ『道に迷った子供たち 四〇の質問形式によるエッセイ』

2018-10-24 | 北中米・カリブ

(2018-8-12)

2014年に中米三国(グアテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス)からメキシコを抜けて米国へ越境する子どもが急増したことは記憶に新しい。ラ・ベスティアと呼ばれる貨物列車に乗る命がけの旅をテーマにした映画もあった。米国が Trumplandia になって以降、この問題がどのような経緯を経てきたかは、今年になってタイムの表紙を飾った子どもの写真が象徴する通りだ。2018年10月現在は、犯罪増加と異様な失業率に荒れるホンジュラスを脱出した人々の caravana が北米全体を巻き込んだ社会問題となっていて、世界がその行方を見守っている。

 この本は、メキシコ国籍を持ち現在は米国に住むスペイン語作家のバレリア・ルイセリが、2015年、グリーンカード申請期間中にニューヨークの移民司法センターで中米から越境してきた子どもたちに行われる「40の質問」の通訳として働いた体験を基に書いた、ごく短い小説である。エッセイ、と分類されるかもしれないが、総じてみれば小説としか言いようのない語り口。

 40の質問。

 これへの回答内容に鑑みて、救済が必要な子どもには、特別なビザが出る。育った環境がマラ・サルバトゥルチャなどの麻薬マフィアによる抗争で荒れ果て、親がいなかったり、親が犯罪者だったり、親不在のままマフィアにオルグされかけたのを逃れて来たり。いろいろなケースがあるのだが、明らかな被害状況が申告できない限り在留許可は下りない。つまり取調室で「わたしは強姦された」とか「私は親に売られた」とかいう言葉を通訳が聞き出さない限り、彼らは明日にでも deportar (強制送還処分)される可能性がある。ルイセリは自分の置かれた状況を「トラックに轢かれそうになっている子どもがいるのに歩道の柵に縛られて身動きできない状態」と言っている。

 彼女は40の質問に自分なりの回答を与えていく。あるいは回答が出ないことを確認していく。ときには無力感に襲われ、ときには背景にある暴力に怯え、時にはメキシコに蔓延する市民の無気力に憤る。ただしその筆致は冷静で、かつてエッセイでブロツキーやオーウェンの詩を語っていたときと変わらない。

 結論はごくありきたりのものだが、きわめて重い。

 <子どもの移民に対する米国の姿勢が常に否定的であるとは限らない。しかし、この国のよりいっそう広い範囲で「誤解」をされている。つまり、中米からの子どもたちのそれも含め、移民とは「彼ら」―すなわち南の野蛮人―の問題だ、だったら「私たち」―すなわち北側の文明国―が泥をかぶる必要はないはずだ、と考えがちなのだ。ホンジュラスやエルサルバドルやグアテマラといった国々における社会ネットワークの破綻は「ギャングによる暴力」で荒廃した中米の問題だ、だから国境の向こう側に押しとどめておくべきだ、と考えられがちなのだ。そうした中米やメキシコに米国から大量の武器が流れている事実が指摘されることはめったにない。同じように、本当は米国が間接的に大きな役割を果たしている、すなわち、いっぽうでは武器輸出によって、もういっぽうでは麻薬の消費国として(こちらはまさしく直接的な役割を果たしていることになる)関与している「麻薬戦争」についても語られることは少ない。(p.76)>

 つまりこの中米とメキシコと米国で起きているのは西半球規模といってもいい現象であって、3か国が関与した事実上の内戦であり、子どもたちは不法移民ではなく難民であるという認識である。

 もちろん国境がある以上、話は単純では済まない。

 今日も多くの子どもたちが司法センターで40の質問を受けている。そして米国でもこうした状況に対応する英西語のできる弁護士がまだまだ少ないそうだ。

 4章の「コミュニティ」ではルイセリが教えている地元大学のスペイン語クラスの話で、ここはいかにも米国らしい、希望が持てるエピソードになっている。

Valeria Luiselli, Los niños perdidos. (Un ensayo de cuarenta preguntas). Prólogo de Jon Lee Anderson, Sexto Piso, 2016, pp.105. 

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