Crónica de los mudos

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カルロス・フォンセカ『ムセオ・アニマル』

2018-10-23 | 北中米・カリブ

(2018-9-10)

ファッション・デザイナー、ジョヴァンナ・ルクセンブルグから届いた小包、その端に描かれていた模様クインカンクス。ダイスの5に代表される五点形(中国語では梅花形)が小説全体の構造や複雑な人間関係のすべてに重なっていく。

 第一部、ニューヨークで博物館の学芸員をしているプエルトリカンの語り手は、1999年、若きデザイナーのジョヴァンナに呼び出され、不思議な依頼を受ける。モードの世界に飽きたというジョヴァンナは、擬態動物など様々なカムフラージュをテーマとしたコンセプチュアルアートを構想していた。情報収集のパートナーとして選ばれたのが語り手の僕だった。潔癖症で外界との接触を嫌うジョヴァンナから月に一度呼び出されて奇妙な会話を続けるうち、僕は、彼女の過去にある空白に気づいていく。それは、彼女が11歳のときに中米の密林で撮られた写真を最後に姿を消している、両親に関わるものだった。作品の構想は具体化しないまま、ジグソーパズルを前にして語り合った一夜を最後に、ジョヴァンナは僕との連絡を絶つ。その七年後、夭逝したジョヴァンナから届いた小包の中には、彼女の過去と作品の構想を知る手がかりが残されていた。僕はブロンクスのバーで夜な夜なそれを解読しにかかる。

 2007年に移行した第二部で、語り手はどこかの鉱山町で、偏屈な老人を相手に毎日のようにチェスをしている。この老人ヨアヴ・トレダーノは、ジョヴァンナ・ルクセンブルクことキャロライン・トレダーノの父親だった。セファルディの子孫トレダーノはテルアビブを出て写真家になり、米国にやってきて、ヴァージニア・マカリスターという女優と知り合い、結婚し、娘のキャロラインが生まれる。しかし、この第二部では、1979年の中米訪問時になにがあったかは謎のまま、執拗にある村のジオラマを創り続けるトレダーノの精神的破綻のみが描かれ、そしてここでもまた互いに微妙に重なり合うアネクドートが延々と繰り出されるのみである。

 2008年に移行した第三部が白眉。プエルトリコの首都サンファン、ビル全体がスラムと化した高層マンションの最上階に住んでいたひとりの米国人女性が逮捕される。このヴィヴィアナ・ルクセンブルクを名乗る自称芸術家が20年前に失踪した女優ヴァージニア・マカリスターであることが分かり、そして失踪中の彼女が、地球の方々のメディアにフェイクニュースを送ることで政治や経済を混乱に陥れていたということが分かり、しかも彼女自身がその犯罪を「芸術」だと主張し始めたことで騒動になる。

 第三部での語り手は情報の整理役に回り、プエルトリコへは行っていない。彼の代わりに筋回しを務めるのがニューヨークにおける友人であり相談相手でもある初老のジャーナリスト、タンクレードと、ヴィヴィアナ(=ヴァージニア)の依頼で弁護を務めることになったサンファンの青年ルイス・ヘラルド・エスキリン。タンクレードはヴィヴィアナが潜伏していたスラム・マンションに入り浸り、彼女の暮らしを自ら体験することで彼女の思考を知ろうと試みる。いっぽうのルイス・ヘラルドは、ヴィヴィアナが20年間に書き溜めてきた「大いなる南」という何百冊ものノートを解読しようとするあまり、周囲を心配させるほど人間が変わっていく。

 ヴィヴィアナは自らの芸術行為の正当性を述べる証人として世界中から有象無象を呼びつけていた。ヴィヴィアナは裁判になることも見越したうえで作品(=犯罪)に取り組んでいたので、誰を呼ぶかもすでに決めていたのだ。たとえば、偶像破壊行為のパフォーマンスアートで一世を風靡するも、逮捕拘禁されて拷問にあい、その後はアル中になってピエロ姿で街を放浪しているグアテマラ人女性マリア・ホセ・ピニージョス。ヴィヴィアナからの手紙に、自分の表現行為を理解してくれる人がついに現れたことを知り、なんとか酒を断ってサンファンにやってくるも、やっぱり飲んでしまってルイス・ヘラルドに迷惑ばかりをかける。

 そして、証人のひとり、カリフォルニアからきたエイギンスという男が、1979年に無政府主義者の集団がメキシコ以南のどこかにつくった五点形の村があるという情報をもたらす。そしてそこを通過していった米国出身の人物のなかに、中米のジャングルに現れた子供の預言者を求める旅に出た「使徒」なる男がいたと語る。この使徒に世界中から文明社会を捨ててきた多くの人々がついていったのだと。

 謎は謎のまま、ヴィヴィアナは有罪に。

 四部では、1979年の地獄のような旅の顛末が明かされる。

 最終五部は2014年、亡きジョヴァンナ・ルクセンブルクの遺言を基にサンファンで開かれた展覧会を、語り手が訪れる。ここで小説のすべてがつながる(らない)。

 作者のカルロス・フォンセカは1987年生まれの若干31歳。父の祖国コスタリカの首都サンホセで生まれ、10代は母の国プエルトリコのサンファンで過ごし、その後はスタンフォードで比較文学の博士号を取得、今はケンブリッジで研究員をしているという、知的に筋のいい感じの人。小説は『コロネル・ラグリマス(涙大佐)』というのを出していて、これは英訳があるらしい。本作は2作目に当たり、読んだ感じではアメリカ人が好きそうなので、英訳は進行中だろうか。

 ある事件を境に離散した家族の物語。

 しかも、その家族はみなそれぞれ、表現行為にのめり込んでいく。人の時間とは別個に地中で展開している火のイメージにとらわれ、それと地上との関係に固執し始める父。現実世界を動かしているのは目に見える事象だけではないという信念にとりつかれ、表現行為で現実を改変しようとする母。自分という虚構をカムフラージュを通して構築するという妄執に捕らわれ、死後に擬態をめぐる展覧会を企画した娘。そのあまりに孤独で空虚な営みは、それを調べようとする語り手など周りの人間をも巻き込んでいくのだが、決してそれが実のある関係性を結ぶことはない。現実というパズルはいつも「最後のピースを行方不明にしたまま」ただ時だけが過ぎ去っていく

 それは15年を経て展覧会という場で再会する語り手の僕と亡きジョバンナの関係についてもいえることだ。

 トレダーノ家の三人は、それぞれ既存の表現者にこだわりを見せる。トレダーノは写真草創期の芸術家たちに、ジョヴァンナは目だし帽というカムフラージュでひとつの人格を創りあげたサパティスタ民族解放軍のマルコス司令官に、そしてヴィヴィアナはフランシス・アリスなど、現実を改変する芸術を志向した先人たちに。そして最後、ジョヴァンナの死後展覧会では、実在するある驚異の人物が写真を介して登場する。

 こうして書いてくると面倒な哲学小説に見えるかもしれないが、ひとつひとつのアネクドートが面白すぎて飽きることはない。全体を通してみると、つながりそうで「結局つながらない」ことが多く(あらゆる表象が過去のいずれかのコピーであるが、オリジナルとは少しずつ異なり「改変されていく」という世界観が物語全体にはめ込まれている)、もちろんお涙頂戴の安易な落とし方も一切ないので、単純なカタルシスは味わいにくい知的な小説だといえようか。

 昨今のラテンアメリカ小説では、ブーム以降の重厚な小説のラインをコロンビアのフアン・ガブリエル・バスケスが担っている。私はバスケスにはあまり興味がない。フォンセカはボラーニョがつくったラインにのせていいタイプかもしれないが、ボラーニョとはやや違った主題にアートを交えて取り組んでいる。ジョヴァンナとヴィヴィアナという探求型母娘の造形には、これまでのラテンアメリカ小説にはないものがあり、それも新鮮だった。

Carlos Fonseca, Museo Animal. Anagrama, 2017, pp.431.

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