
手前にはチリを象徴する木アローカリアが。様々な鳥たちの家になっていた。(2019.9.10.)
9.11の前日、記憶展示の代表である国立スタジアムの見学ツアーに参加してきた。今回の調査の一環でもある。ここはクーデター直後に3ヶ月ほど逮捕者が拘束された場所として知られ、現在は(未確認だが2015年以降と聞く)収容施設の一部が展示保存され、そこであった出来事を解説する資料なども添えてある。
国立スタジアムという名称はスタジアムを指すのではない。この白い建物はサッカーもできる総合競技場で、これを含む敷地全体を称してスタジアムという。長居公園全体がスタジアムと命名されているようなもの。

地下鉄6線国立スタジアム前駅。アンデスが雲に隠れている。
サンティアゴは地下鉄とバス網が発達している。それをすべてビップという一枚のカードで乗ることができるので、タクシーに頼る必要がほとんどない。地下鉄もバスも、どこまで行ってもすべて約100円。鉄道もなく渋滞だらけのリマに比べると移動に便利な都市である。地下鉄の駅を上がってすぐに巨大な公園が視界に。迷うかなと思っていたら、平日だったのでひと気もなく、すぐに目的の場所を見つけることができた。

「国民の記憶」見学ツアーの受付事務所。下は看板。なかには展示も。

ツアーの受付事務所は閑散としていた。約1時間のツアーが一日3回。私は12時のツアーに申し込んだ。すでに数名の名があったので5~6人になるのかな、と、このときは思った。代金は千ペソ、約150円。
チリ各地に点在する収容所の詳細を記した展示があったので、しばらくそれを見てメモを取った。首都圏以外で知られているのは北部のチャカブーコとピサグア、そしてパタゴニアのドーソン島で、これら以外にもまだ見つかっていないフォサ・コムン、共同墓地と訳すことが多いが、実質上の集団遺棄場が複数あるという。
時間までにスタジアム(競技場本体)を一周してみた。この日はよく晴れていたのでアンデスがくっきりと見えた。写真ではわからないと思うが、大阪平野に育った人間にはかなり異様な光景だ。まさに巨大な壁である。正直、少し、いや、かなりこわい。スペイン語ではコルディジェラと呼び、クーデター後の恐怖をテーマにしたラウル・スリータの詩に執拗に現れるイメージでもある。

実際には空の半分を山が占めているように見える。
時間になり、集合場所の受付事務所前に行くと、ガイドのパブロさんが待っていた。聞くと、リストにあった5人(ブラジル人とフランス人)は11時の予約で、12時はハポン人の私だけとのこと。ただし、地元の学校の社会見学ご一行様がいるので同道するとのことだった。
その子たちを待つこと20分。バスに乗って到着した子たちを女性の先生方が「ちゃんとしなさい!」と手懐ける光景、世界のどこでも同じですね。サンティアゴのレコレータ地区にあるエスクエラ・エスパーニャの生徒たち約60名。名前はスペインとなんの関係もないのですって。

中央の青いシャツがガイドのパブロ。
早速、パブロのガイドが始まった。
パブロは学校の先生っぽい感じで、はい注目、ほら、そこの君、こっちを見なさい、と手慣れたものである。今日は外国の方がおひとりご一緒されます、ハポンから来た、えっと……お名前は?と言われて、頭かきながら、ケンジです、と自己紹介、子どもたちがいっせいに「ケンジ、ケンジ」「カンジ、カンジュ」とか呟いて。訊くと11歳から12歳、日本で言うと小6か中1。私が30代で普通に結婚していれば、いてもおかしくない息子や娘たち。
寄って来た奴らに「英語はできるのか?」とか「ピカチュウに詳しいか?」とか「マルチャン!」とか懐かれつつ(触るな、とか内心で思いながら)パブロの話に耳を傾けた。
彼はここで1973年にあったことを知っているか、とまず尋ねた。子どもたちは全員頷いた。そのうえで、彼は、これから見ることを理解するために、話をコンテクストゥアリサールしよう、と言った。彼は、子どもにはやや難しい言葉を使うと、すぐに「どういう意味かわかるかな?」と尋ねていた。すると聡明そうな女子がすぐ「当時の状況、コンテクストを確認したうえでいまのことを理解しなおす」と答えて、おじさん、頭いいねえ、と思わず目を細めましたね。10代から20代までの同い年は概して女子が聡明、というのは万国共通のよう。
パブロは冷戦の話から始めた。
これ、とても大事と思う。
直近の歴史はこうして口伝えで若者に受け継いでいかねばならない。そんなこと常識でしょ、とか頭のいい人たちが言っているあいだに、過去を否定する連中に国民の大半が洗脳されつつある国もあるようだし(冗談にならなくなってきましたが)。
冷戦のさなか、ラテンアメリカ全域で左派が力を持ったが、選挙ではじめて社会主義政権ができたのがチリであると、そのあたりまでは生徒たちも、もう知ってるよ、という感じで聞いている。
そして話はクーデターへ。

私語はやめなさい~。
ここでパブロはプラン・セタの話をしはじめた。これを知っている生徒はいなかった。私も名前をうっすら聞いていた程度。いちおうウィキペディアがあります。アジェンデ社会主義政権がキューバなど外国勢力の援助を得て自主クーデターを計画しているという陰謀論で、いまではCIAも絡んだガセネタ、すなわち今風に言えばフェイク拡散戦略だった。と、パブロが言っていたのをそのまま採録。
パブロはこう言った。
当時のメディアはラジオとテレビと新聞だけ。いまのようなネットワークもない時代だった。そして、ラジオとテレビと新聞を押さえていたのは、当時の支配階級オリガルキーだった。
彼は、資源オリガルキーという言葉も、事前に子どもたちと確認している。20世紀の歴史を、おそらく日本でなら「政治的偏向」とかゴチャゴチャ言われそうな言葉も敢えて用いてきちんと子どもに説明していた。子どもを子どもと馬鹿にしていない。
パブロはこう続けた。
情報源が3つしかない以上、嘘を本当と思わせるのはけっこう簡単だ。フェイクもしつこく聞かされるうちに本当と思うようになる。人間とは残念ながらそういう生き物でもある。みんなも気をつけよう。
私はハポン人として「情報源が増えても人間って簡単にフェイクに誘導されるみたいですよ」と言いそうになったが黙っていた。
フェイク拡散戦略の目的は何か。
もちろん軍事クーデターとその後の独裁を正当化することだ。

ここが1973年当時の男子着替え室。いまは展示施設。
スタジアム内にはプールがあり、現在は立派な屋内施設になっている。もちろん着替え室や休憩室完備のモダンな施設だ。しかし1973年時点ではまだ屋外プールだった。そして、このプールの南北には、男女の着替え室があった。北が男子、南が女子。
そして北の男子着替え室が女子監獄になった。
クーデター後、混乱のなかで、軍に拘束されてスタジアムに集められた人は大きく5種類いたという。
1:工科大学の学生。左派の根城だった。
2:公務員と教員。主として労組関係者。
3:共産党員と企業労組関係者。
4:疑わしき表現者。
5:疑わしき外国人。
人数が多すぎて警察の施設には収容しきれず、そこで選ばれたのがスタジアムだった。9月。まだ寒い。彼らは毛布一枚だけを渡され、スタジアム内の選手控え室や観客席に押し込められた。そして、女性だけがプールの着替え室に集められた。

スタジアムに収容された人々の名を刻んだ銅版。銅はアジェンデ政権による国有化政策のシンボルでもある。

着替えボックス。女性の収容者はここにひとりずつ隔離された。拷問は別の場所で行なわれた。
着替え室のなかに入らない子どもが数名いた。すかさずパブロが「怖いかもしれないが、幽霊なんかはいないから入ろう。君たちはここを見なくてはならない」と励まし、たまたま後ろにいた私がその子らの背中をおしていっしょに入りました。ごめんね。
ここでなにがあったか。
パブロはリアリズムで語り始めた。
兵士による拷問、性的暴力の数々。
マチスモという病。
性の目覚めもまだみたいな男子にこそこの話は辛いかもな、むしろ彼が語りかけているのは女子なのだろう、と思って聞いていたら実際そのとおりで、彼はこう言った。
ここであった暴力をこれ以上くわしく語るつもりはない。それを知ることは大切だが、もっと大切なのは、ここを生きた女性たちが苦難の状況にあってこそ連帯の精神を示したということだ。たしかに彼女らは凄惨な拷問を受けた。しかしフェミニズムの薫陶を経ているみんなはよく知っているだろう。女性は男性の何倍も苦痛に耐えられる(この辺で男子がそわそわし始める)。今日、とくに女子の皆さんに学んでほしいのは、人間の尊厳という言葉だ。もっとも困難な状況でそれを守り抜いた先人たちの顔を見に行こう。
と言って次の部屋へ誘導するのである。
収容所の食事は、嫌がらせだろう、腐ったマメが出されていた。しかし女性の収容者たちはこれに反発、軍人のなかのマトモそうな相手を選んで交渉を重ね、少なくともマトモな飯は出させた。最悪の環境で、小さなことから、少しずつ希望を見出していった。と、パブロは子どもたちに語った。

着替え室の奥の間は収容所から生還した女性たちの写真と証言がパネル展示されている。彼女たちをここへ帰還させ、こうした施設をつくるのに協力をしてもらうだけでも長年の努力を要した。

どこで、どういう状況で、どんな立場で拉致され収容され、そしていつ釈放されたのかなどが記されている。こうした展示のスタイルはカルロス・アルタミラーノらアーティストも踏襲している。
続いて競技場へ。
日本の場合は学徒動員の映像でなんとなく思い出す神宮の競技場が、政治犯収容所になったと思っていただければ、話が早いと思う。
ちなみにクーデター直後の12日に急造収容所となったのはチリ・スタジアムで、こことは違う場所である。16日、そこで歌手のビクトル・ハラが殺害された。遺体は道路際に野ざらしにされ、市民に対し「政権を批判するものはこうなる」という見せしめとして機能した。と、パブロが子どもたちに言っていました。
その後、人数が増えすぎて、こちらの新しいスタジアムに移動してきたというわけだ。
駅から続く大通り沿いにある正門は、スタジアムの中央入り口に続いている。その入り口の鉄柵は当時のものがいまもそのまま使用されているという。その前でパブロが当時の状況を語ってくれた。

政治犯たちはこのフェンスの向こう側で正門のほうにいる家族の顔を探し求めた。

子どもたちもなかへ。
収容者たちがいたのは観客席の下部にあるいくつかの控え室、甲子園球場で言うと(という喩えに汎用性があるのか自信はありませんが)ホットドッグとか売っている屋内の一画にあたる。ただ、収容当初はグランド内に兵士を配置し、観客席に立たせていたという。よく見る写真のとおりなのだ。
ここでの政治犯拘束は実質3ヶ月。
このあいだになにがあったか。
軍事政権はなにを狙ったのか。
それはコントロールだ、とパブロは言う。
秩序の掌握。
そのためにはなにが必要か。
ひとを意のままに操るには。
子どもがいくつか答えた。お金? それなら俺でも意のままに動くよ、と、苦笑しながらパブロ。原爆? あの~ここにハポン人いるんですけど、と内心で私。しばらく沈黙があってパブロが言った。
ミエド。
恐怖。
恐怖こそが人を短期間でもっとも効率的に従わせることのできる道具なのだ、と軍事政権は考えた。
ただ殺すのではない。
ただいたぶるのではない。
怖がらせる。
それこそが最大の目的だった。

収容者たちは壁に文字を刻んだ。
私はヨーロッパ体験が観光を除いてほとんどなく、ホロコーストの現場にも行ったことがない。数年前にユダヤ人の書いた小説を訳していた際にしばしばホロコーストの話題になり、関係する本を読んだりして、しばらく関心を抱いていた。ホロコーストと南米の独裁下における強制拘禁は似ているようでなにかが違う。比べるべくもない現象なのだが、単純で機械的な殲滅が意図された施設と、恐怖の拡散が巧妙に、というより期せずして意図された施設を同じにはできないだろう。ロベルト・ボラーニョの小説にしばしば現れる恐怖表象は、彼が実際に拘束された体験を有するか否かはともかくとして、そのとき私の目の前にいた子どもたちが、近い人々、なかには体験者もいるかもしれない、祖父や祖母の語りを聞きつつ、ある種のイメージ喚起力の強い子なら特に、自分で勝手に「わがこと」として内面化してしまう感情なのかもしれない。
競技場のこの入り口エリアは、国民の記憶として展示化されるにあたって、その後の改修工事で塗装された表面を改めてスクラッチし、収容者の書き残した様々な文字を訪れる者に見せてくれる。
家族の名を記した者。
遺書をしたためた者。
この期に及んで党や組合のスローガンを書いた者。
生還した者も行方不明になった者も、ここでみながある同じ体験を味わった。それが恐怖だ。

収容者のなかには死亡が確認された人、失踪のままいまにいたる人も。生存者のパネルの前に移動したパブロは、この人たちが語ってくれたからこそ私達はいまここにいる、この人たちに感謝をしよう、と語った。
多少サッカーの話もしよう、とパブロは言って、私たちをようやくスタジアムの観客席へと案内してくれた。スタジアム見学なら、バルセロナのカンプノウをはじめ世界各地のサッカー大国でふつうにある観光だが、チリのそれは少し複雑である。もちろんサッカーの話も含めて。

陸上競技場とサッカー場の兼用スタジアム。とっても綺麗。
クーデター後、世界はチリでなにが起きているのか、実はまだよくわかっていなかった。それはそうだろうと思う。これだけ情報が飛び交う現在、たとえば私たちはシリアでなにが起きているのかどれだけ知っているだろうか。アジア辺境の二カ国が、20世紀中ごろのホンジュラスとエルサルバドル間の紛争より低俗な揉め事で盛り上がっているが、その当事者の皆さんはブラジルの熱帯雨林やベネズエラで起きていることをどれだけ知っているだろうか。
人は自分の知りたいことしか知ろうとしない。と、パブロは子どもたちに言っていた。このとき世界がチリについて知りたかったことは、その「世界」を生きる人々にとって必ずしも優先順位の高いものではなかった。なにか事件が起きているらしい、という程度。
であれば情報操作は簡単。
クーデターから2ヵ月後の11月、この競技場であるサッカーの試合が行なわれた。1974年のFIFAワールドカップ西ドイツ大会の予選である。各地域グループ予選がほぼ終了、次点の国どうしで地域を越えた最終枠の奪い合いが始まった。そして対戦が決まったのがヨーロッパのソ連と、南米のチリ。
第一試合は9月26日、すなわちクーデターの15日後のモスクワで、報道陣を排した厳戒態勢で行なわれた。チリ代表ものんきにプレーしていたわけではない。代表のなかには、すでに逮捕されている者もいた。選手団をのせたプダウェル空港へ移動するバスは、その選手のいる刑務所に立ち寄り、政府側をけん制しているようだ。また、同じく代表でメキシコのリーグでプレーしていたGKは、アジェンデ政権支持を表明していたことから、亡命を恐れたメキシコのクラブによって参加を禁じられた。モスクワに着いた選手団はソ連当局から冷たい待遇を受けた。いっぽうすでに亡命していたチリ共産党の大物で作家のボロディア・テイテルボイムが選手団に接近し、また、他にもチリから亡命していた学生が選手に「少しでもアジェンデ政権へのシンパシーを表明していた選手は帰国せずに亡命したほうがいい」と進言したとの報告もある。
試合は0対0の引き分け。
舞台はサンティアゴへ。
クーデターからすでに一月、いくらなんでもチリの現状は世界に伝わりつつあった。ソ連からの抗議を受け、FIFAはチリ側が会場に指定していた国立スタジアムの査察に乗り出す。政治犯収容所になっていることは、すでに写真報道を介して世界が知っていた。
ピノチェト政権は査察日に合わせて収容者たちをアタカマ砂漠のチャカブーコ収容所に移送、スタジアムを急追改装させる。FIFAが下した決断は「開催可能」だった。
ソ連側は7千人の収容者の失踪を指摘、チリで進む人権侵害を理由に試合を拒否する。FIFAには「チリの愛国者の血で汚された競技場ではプレーできない」という主旨の書簡が送られた。すでに出場を決めていた東ドイツもボイコットをにおわし始めていた。
試合当日、スタジアムにソ連選手の姿はなかった。
FIFAはこの試合をチリの不戦勝(規則で2-0)と裁定したが、実際には30分だけ試合は実施された。金を払った観客が1万人以上もいたからだ。開始直後、フォアードの選手が放ったキックが、無人のゴールに突き刺さる。パブロはそれを「恥のゴール」と呼んだ。

木のベンチのエリアが「国民の記憶」展示。収容所当時の観覧席を復元している。
現在、国際試合があると、チリ側応援団が陣取るこのゴール裏のエリアは、どんな試合でも立ち入り禁止になっている。ここは三千人以上いる失踪者の特等席なのだ。生きていれば彼らが座っていたかもしれない席。見るたびに彼らを思い出さねばならない不在の空間。
ここだけは1973年の観覧席が再現されている。ツアーの参加者は、おそらく収容者の多くが触れたのであろう木製のベンチに座ることができる。
思い出そう、とパブロは言う。
こういう空間があるのはなぜか。
なぜ私たちはここにいるのか。
過去を記憶し、いまに活かすためだ。
異なる意見をもつ人間を排除することが二度とあってはならないからだ。外国人や肌の色が違う(といって私を指差さなくても!)からといって「向こう側」に追いやったりすることが二度とあってはならないからだ。人を動かす効率のいい方法が恐怖だなどと考える人間が二度と出現してはならないからだ。
ここが晴れの舞台だからこそ大事だ。
国を挙げてなにかで盛り上がるときは必ず思い出そう。国を挙げた熱狂のなかで消えていった人々のことを。同じこの場で声をあげることができなかった人々のことを。
今日のお話はこれでおしまい。
なんてすてきな演説でしょうか。

上から二段目の向こう側にいる太っちょの男の子が前の女子の髪の毛をずっと触っていた。
生徒たちからハードな質問も。
拷問した兵士の処罰は?
これはチリのポスト軍政の核心に迫る質問。子どもって怖いですね。パブロは「裁判にかけられた人もいるが、なんの咎めも受けていない人も多い。和解プロセスの様々な交渉で、そこには踏み込まない形で、いろいろな譲歩を勝ち取ってきた。正義がすべて実現しないのは、残念だが、私達の大陸の限界でもある。この問題はこれからいっしょに考えていこう」と大人の対応。
それでもなお、子どもが「刑務所に入れられた軍の人はいますか?」と尋ねるので、いることはいる、とパブロが言うと、それまでスマホをいじくっていたグラサン姿の先生がはき捨てるように「贅沢な刑務所にね」と言った。
別の子が「収容者を救おうとした人はいますか?」と尋ねた。
これについて、パブロは、ビカリーアと呼ばれるカトリックの人道的活動に触れ、映画があるのでぜひ見るといい、と勧めると、これまたスマホをいじくりまわしていたグラサンの彼女が「うちにDVDがあるから今度見ましょう、必須よ」と合いの手を。
最後に、みんな振り返れ、とパブロが言った。
そこにはこんな文字が。

記憶をもたない国民には

未来もない
どこかの国の内閣に見ていただきたい文言。
ツアーはこれで終了。
スタジアムの外に出るとほっとする。
本来は解放感あふれるはずの場所が、なんだか息苦しい空間になっていたことに改めて気がついた。
外の芝生で、スクールバスが戻ってくるあいだ、集まってきた女の子たちと少し話をした。
おじさんはこんなところでいったい何をしているのか、と尋ねられたので、正直に、こういうチリの現代をテーマにした文学作品をハポンの大学で研究しているのだ、今日はとてもいい勉強になった、と答えた。
他愛もない話のあとで、ふとひとりの子が、ハポンにもこういう過去を記録して共有する場があるの?と尋ねてきた。
遠い山並みを見ながらまごついた。
とりあえず大東亜戦争の話をかいつまんでしておいた。彼女らも知っているヒロシマの話も。そうやってぼんやり話しながら、頭のなかでは実は違うことも考えていた。
日本人に記憶なんてないのかも。
ここ数ヶ月のジーサン向け大衆誌の新聞広告(隣国ヘイトと死ぬまでセックス持続が二本柱)などを見ている限り、私と同年輩か、それより上の戦後生まれの世代に、20世紀の自国の歴史の正しい記憶なんてまるで共有されていないようだ。小学生の子どもを連れて皇居前まで行き、あそこにいる人のおじいさんが過去に何をしたか考えましょう、なんて教育を私たちはひとりも受けていない。戦争被害の記憶共有はそれなりにやってきたかもしれないが、いっぽうで加害の記憶はどんどんないがしろにされているし、それ以上にひどいのが前線で野垂れ死にしていった兵士たちの名誉回復がまるで進んでいないことだ。私たちが無駄に飢え死にしていった人々の顔すら見ていないことだ。一体どうすればいいのだろう。
最後の一言だけ口にすると、ひとりの子が、こんなことを提案した。
アジアの人が争って死んだ場所に、それぞれの国の子孫が集まって「なにがあったか」を確認すればいいのでは? 朝鮮半島で、中国で、東南アジアで、そして米国人とハワイでヒロシマで。
ハポンの20世紀史がアジアを巻き込んだ人災であったにせよ、その後始末は当事者の子孫が協力してすべきではないか。ハポネスが加害者の自覚があるのなら、おじさんたちが率先して動くべきではないか。チリでもまだこんなだから難しいとは思うけれど。
そうだね。
その通りかもしれない。
そんなこと、実は、なんにもしてこなかったんだよね。私たちは。私もそういうことを自分の責務と思ったことはない。
結果として私たちが選んだ代議士たちは「昔のことで文句を言い続けるお前らが悪い」とか「過去を忘れると言った約束は守れ」とかガキの喧嘩みたいなことを言い始めているわけだからね。
とはヤヤコシ過ぎて言えなかったが、そうかもしれないね、解決方法は案外単純なのかもね、ありがとう、おじさんも帰国したらもう一度考えてみるわ、と言い残し、三人の聡明なレディに握手をして別れてきた。
なんだかおなかが減った。
子どもといるとおなかが減る。
ホテルの近所の食堂で遅いランチにした。

ロモ・ア・ロ・ポブレ。エスクードはチリを代表するセルベサ。
ロモはサーロインステーキのこと。300グラムくらいでしょうか。ア・ロ・ポブレとは庶民風くらいの意味で、ペルーやチリでは肉料理の付けあわせを意味し、たいていはフライドポテトと目玉焼きである。この店は目玉焼きとフライドポテトのあいだにオニオンソテーが隠れていて嬉しかった。
南米ではステーキは「よく焼き」。
スペイン語でコシードが基本。
アルゼンチンみたいな直火焼きの店は少なく、ここも鉄板焼きですけど、なかまでしっかり火が通って、しかもジューシーという、きちんとした由緒正しい南米のステーキでした。

赤い色は残るが火は通っている。なのに肉汁がたっぷり。これが南米ステーキ。
あ、先日、岡山のスロウな本屋で、店主の小倉さんから、松本さんと外大の同級だったと伺いました。世間はせまいです。
南米旅行、お気をつけて。レポート楽しみにしております。
今回はダークツーリズムのようになってしまいましたが、チリはいい国、人もすてきです。いつか観光でいったらもう少し明るい報告もしたいと思います。
年末と言えばベートーヴェンの第9、ということで、いろいろな国の第9をYoutubeで見ていたところ、つい先週行われた、チリ国立スタジアムでの野外コンサートを見つけました。そして、スタジアムの壁に示された言葉を自動翻訳にかけてみて、はっとして検索したところ、こちらのブログをにたどりつきました。詳しいお話を読ませていただき、やはりこの場所でこの曲、というのは何か重い意味があるのだろうか、などと想像しています。ありがとうございました。
https://www.youtube.com/live/XcMhwKCVbww?si=8k60T94rHK9XN5Pd