
まずは最終章「像と人」(307)から始めたい。
1973年9月、パリにいたエドワーズは姉のアンヘリカからの手紙でネルーダの葬儀のことや、サンクリストバルの丘にあったネルーダ邸、通称ラ・チャスコーナが軍部によって荒されたことを知った。葬儀では機関銃を構えた兵士が見守るなか、まだサンティアゴに残っていた共産党青年会のメンバーがインターナショナルを歌ったことがよく知られているが、実はそこに意外な人物がいたとエドワーズは言う。それはチリ文壇の保守派論客エルナン・ディアス・アリエタ、通称アローネで、ネルーダの死の一報に接してラ・チャスコーナにいるマティルデのもとを真っ先に訪れたものも彼だという。アローネは若かりし頃のネルーダに『黄昏詩集』の刊行資金を貸してやったという有名なエピソードがあって、その後この二人は、アローネが自らの新聞紙上でネルーダにやや悪意のある批評を書くことはあれども、比較的穏便な関係を保っていたと言われている。この人物をエドワーズが持ち出しているのは、これ以降、軍政下のチリやチリ国外の様々な文脈でネルーダが「反独裁」のイコンとして政治利用されていくことを彼が苦々しく思っていたからであろう。
1978年にチリへ帰国したエドワーズはマティルデと共に詩人の遺品の整理に当たった。そこで一枚の写真を見つける。それは詩人が生まれてすぐに亡くなっていた母ロサ・ネフタリを写したものだった。彼女を知る知人女性からそれをもらった生前のネルーダはそこで初めて生母の顔を見たわけだが、どういうわけかすぐに失くしてしまい、それがいま改めて見つかったということになる。
エドワーズはこの母ロサのか細い物静かな顔に教師の面影を、つまり文人としての血脈を見出す。そして「見えない川」というネルーダ自身が使った詩そのものの隠喩が、既存文学に大きな影響は受けていないとしばしば指摘されるネルーダのなかにも流れていて、それはスペイン語の文学全般でもあるが、やはりチリの詩であり、その原点は『ラ・アラウカーナ』なのだと言い切っている。
ま、そうも言えるかも、というレベルの話です。
1988年、ネルーダを政治利用する大々的な国際イベント<チリは創造する>が開催され、ラ・チャスコーナに壁画などが描かれ出したころ、詩人のエンリケ・リンが死んだ。その葬儀には多くの文学者や詩の愛好家が駆け付ける。それは「同志ネルーダ」を担ぐ人々とはまるで違う種類の、一見すると冷めてはいるが、詩というチリでは特殊な地位を得ている文芸を密かに愛している大勢の人々だった。そしてエドワーズはそこに二人のネルーダの姿を見出す。像、すなわち反ピノチェトのアイコンとしてのネルーダと、人、すなわち詩人としてのネルーダである。
彼はいったいネルーダをどのように見ていたのだろうか。
というわけで次は最初に戻ります。
5回くらいに分けて投稿予定。
(未了)