バルガス・リョサが今年3月に刊行したエッセイ集で、彼が近年愛読してきた7人の思想家に寄せる思いを、なかば自伝風になかば伝記風に語ったもの。順に面子を挙げてみるとアダム・スミス、ホセ・オルテガ・イ・ガセー、フリードリヒ・フォン・ハイエク、カール・ポパー、レイモン・アーロン、アイザイア・バーリン、ジャン・フランソワ・ルヴェル。バルガス・リョサ自身はリベラリズムの系譜だと言っているが、リベラルはリベラルでも、今日でいうところのリバタリアンの系譜に文学系の保守主義をトッピングした路線、と言っていいだろう。ハイエクなどは息子のアルバロにすすめられて傾倒したらしく、本書全般に息子の新自由主義的な思想の影響が感じられる。
題名は、いまだ世界から消えることのない野蛮な掛け声、すなわち「こう進めば世界はよくなる!」というユートピア思想全般を指す。特に20世紀の共産主義思想が強く意識されている。
本書でバルガス・リョサが目指したのは一種の悪魔祓いだ。それは共産主義という名の悪魔であり、キューバという名の贋ユートピアであり、サルトルという名のサタンであり、カストロという名のヒールである。
冒頭のプロローグに彼自身の思想的来歴が語られていて、そこで改めて私は納得した。バルガス・リョサにおける「サルトルの呪い」というものを。
彼は「背中から刺されたような気分だった」と述べる。
それは新聞のインタビューでサルトルが放った発言「アフリカの作家は文学より先に、文学が可能になるような環境をつくる革命をすべきである」というもの。この発言が、アフリカ同様の第三世界ペルー出身だったバルガス・リョサに、どれほどの恨みとわだかまりを残したか、前々から気づいてはいたが、ご老齢になってこんな本まで書かねば憤懣が鎮まらなかったとは、ある意味、同情を禁じ得ない。
そのサルトルを完全に葬り去ったかに見えるのが、サルトルの論敵だったアーロンの言説に仮託した章。バルガス・リョサは、(アーロンはそんなことは言ってないけど)占領下のパリにおけるサルトルの振る舞いに言及し、マルローやカミュと違って雄々しく戦った体験を持たなかったことがサルトルのコンプレックスとなり、戦後に闘士として先鋭化したのだろう、と結論付ける。あの妥協なき排他的姿勢の背景に隠れていたのは、対独戦に加われなかった過去を隠そうとする絶望した一ブルジョワの姿なのだと。こういう人間観察は文学者特有のもので、小説などを読む限りは面白いだけなのだが、これは現実に存在した人間をめぐる観察。読んでいて、ちょっと辛いものがあった。
サルトル以外にも、バルガス・リョサが怒りの矛先を向け続けてきたものを列挙するのは、もはやプロローグを読まずとも、私にはたやすいことだ。
革命キューバ、パディージャ事件後もキューバを支持した昔の仲間たち、ベラスコ・アルバラードの軍事政権、パリの五月革命、学生運動全般、それらを支持した偽物の思想家たち、センデロ・ルミノソ、それを裏付ける形となったマリアテギ以降のペルーにおける左翼思想、ラテンアメリカ全域に寄生する左翼アカデミシャン、アルベルト・フジモリ、ウゴ・チャベス、その後継のギャングども、ニカラグア、21世紀の社会主義、社会主義全般、中国、ポストモダン思想の旗手たち、ボードリヤール、ラカン、文章が明瞭でないデタラメ野郎ども、ハリポタ、ゴミ文学、ネット社会、ジル・リポベツキー、フェイスブック、ゲーマー。
本書全般を貫いているソ連型共産主義への憎悪は、私たちの世代にとっては、ましてや学生諸君にとっては共有すら難しい。憎悪すべきほどの存在感すら「あらかじめない」時代に生まれているのだから。しかしながら、ある種の設計主義、一部のエリートによる歴史構築主義に対する警戒感として読み替えるなら、バルガス・リョサの思いも、どこかで分からないわけではない。そういう共感は随所で覚えた。また、バーリンやポパーの章でバルガス・リョサが指摘する、自分が忌み嫌う立場や思想をもつ人間のことを優先的に理解しようと試みるのが真のリベラル、という主張もよくわかる。
いっぽうで、本書がリベラリズムの最前線についての系譜学だ、と本人が言う割りに、まったく無視されているのがジョン・ロールズの格差原理に代表されるケインズ的な分配政治のリアリズムをめぐる言説である。
バルガス・リョサの世界像は1988年で永久にストップしてしまったのか、ちょっとでも分配のシステムに話が移行すると、すぐにキューバやソ連やベネズエラの独裁に話を持っていく。
私が知りたいのはそういうことではなく、仮にアダム・スミス以降のリバタリアンの系譜があったとして、そこにケインズ以降の分派調整型の系譜がどう絡んでいくのか、そして特にペルーのような激しい格差を残した国にあって、彼がいう「それさえあればすべてが解決する経済活動の発展」という目標は、今日の先進国が抱えている問題を視野に入れつつ、どのような形で実現すればいいのか、というリアリズムだった。ところがまるでそういう話はなく、彼の論調には、とにかく新自由主義的な路線が正しく、それ以外のすべてはソ連かキューバ、という壁がそびえたつ。語らないことが多すぎる。
また、これもゼミで気が付いたことだが、個人の自由とかいう話をするわりにはアダム・スミスの周囲の女たちの内助の功だの、バーリンを支えた(知り合いから奪い取ったかたちの)知的な妻だの、女性全般を「正しく生きた男を支えた人間」としか捉えてない節があり、リベラルを語る人間としてフェミニズムに目が向いていないのも、今日の常識からすれば少し痛々しい。
さらに、バーリンが『自由論』で展開した積極的自由と消極的自由の二項対立について、バルガス・リョサはこう整理していた。自己実現の自由を重視する積極的自由はアファーマティブアクションに代表される弱者優遇の分配政策につながり、それは政府主導の均質型社会を目指すもので、現時点でそれが強力に推進された国は社会主義独裁が多い。理想は、(他者による拘束がない状態を目指す)消極的自由と積極的自由の両立である。それが望ましいことは自明の理であるが、現状は難しい、であるならば消極的自由の実現を今は目指すしかない、と。
こういうロジック、いったん両論併記という形で理想を述べたうえで、その理想の実現が無理である以上、いまはこういう形の現状維持で…という話の進め方が目立った。大人だな、とは思うけれど、故国ペルーをはじめとする第三世界が辿ってきた歴史的現実に関しては、もはやどうでもいいのだろうか。いみじくもレイモン・アーロンの章で、本人が「アーロンは第三世界はどうしようもないと思っていたのだろうか…」と寂しそうに呟いている。私はアーロンじゃなくあなたの口からその話を聞きたいよ。
あと気になったのは、オルテガなどを語りつつ、強欲資本主義の暴走を防ぐには(アダム・スミス流の禁欲主義は無理にしても)主流文化が教育を通してしっかり市民に共有されることが大事、みもふたもない言い方をすれば、最先端の(わけのわからない)贋アカデミズムではなく、ちゃんとした文学などの教養が必要だとでも言わんばかりの論調で、これは前著『スペクタクルの文明』から彼がずっと述べ続けていること。ゴミ文学でもフェイスブックでもなく、まともな文学が民主主義と健全な資本主義を根底で支える、というもの。
でも、仮にペルー人が全員『都会と犬ども』を読んだところで、ペルー社会の格差は消滅しはしないし、経済活動にかかわるペルー人全員が高潔な理想を胸に秘めて資本の再分配を試みるとも思えない。詩を愛読する殺人者もいる。シェイクスピアを暗唱できる独裁者もいる。デカルトを諳んじているファシストもいる。文化的な活動と人間の欲望の解放とは相関関係にない、というのは、バルガス・リョサ自身がノーベル賞の受賞演説で熱く語っていたじゃないか。遅れた野蛮な環境で文学などあり得ない、というサルトルの心無い一言を逆手に取り、どんなに野蛮な状況でも人々は文化を求めた、でなければ古今東西の文学などずっと昔に滅びている、と言ってたのに。
今期のゼミで、学生諸君と今日まで通読してきたのだが、読み終えてみて、私は少し複雑な気持ちだ。
好きな人だし、論理が破綻することもないのだが、この世代の人にも「語らないこと」や「語れないこと」があるという事実を突きつけられたような気がする。また、いわゆる左翼思想の暗部への眼差しというものが、21世紀に子供時代を送っている若い世代にとってはかなり理解しにくい「歴史的文脈」になっている事実も、学生諸君と話し合うなかで改めて実感した。
もちろん、バルガス・リョサは基本的には文学者。理屈を優先して、だからこうすべきだ、という議論は絶対にしない。その時々で熱く共感した言論に自分の言葉を徹底して絡めていく。そのあたりの、よく言えばすがすがしさ、悪く言えば大人げなさ、というものが、80を越してなお意気軒高なこの人の魅力でもあるのだろう。
余談になるが、バルガス・リョサはバーリンやポパーやアーロンやルヴェルについて、スペイン語でなかなか読めない、サルトルなどのスターに比べて読まれにくい人たちだ、と盛んに述べていたが、学生たちと調べるなかで邦訳がまあ、あるわ、あるわ。日本語では全員が「アクセス可能な」作家でした。こういうこともバルガス・リョサには知ってもらいたいなあ。
20世紀人の怨念、は感じた。
だが私が聞きたいのは21世紀のこと。
もはやノア・ハラリにでも聞くしかないか。
Mario Vargas Llosa, La llamada de la tribu. 2018, Alfaguara, pp.313.