私はラテンアメリカ地域のことを学生に話すとき、意図的にグローバルサウスの他地域と比較して民主主義体制が成熟しているという観点を入れるようにしている。彼らの多くが「中南米はいろいろなものが遅れた地域」という先入観を持っているからだ。たとえばインドや東南アジアの多くの国々が20世紀に至るまで植民地だったのと比較すれば、メキシコ以南の多くの国々が独立後に200年以上経過しているということは特筆すべきだろう。日本が幕藩体制から明治維新によって西欧的な政治を取り入れ、敗戦後の「実質植民地」状態を自力で(つまり独立革命によって)打開した経験を持たない奇妙な国になっていることを思えば、日本よりも自発的で先進的な政治を体験してきた地域であるとすらいえる。
もうひとつの観点はアメリカ合衆国との比較である。カリフォルニア州のGDPがエルサルバドルのそれの何千倍、とかいう経済レベルの話はともかく、やはり国の設計時に連邦制という独創的なシステムを完成させたことが、それができなかったラテンアメリカとの比較において際立つからである。なぜできなかったのかは、シモン・ボリーバルやフランシスコ・ミランダに語ってもらう。
そして、この種のラテンアメリカ的な政治風土は、この小説にも色濃く反映されているように見える。たとえば小説中におけるアウレリアーノを中心とする政治抗争には三つの勢力が絡んできて、ひとつは保守、ひとつはリベラル、そして最後が軍隊である。この地域の保守とはカトリック的価値観とそれに基づく所有関係の秩序を守るというくらいの考え方をベースとするのに対し、リベラルはその逆でカトリックの倫理観や所有関係の秩序の破壊を目指すということに結果的になってしまう。軍部という勢力はその中間で揺れ動くが、リベラルが交戦状態に入ると軍部化して、さらに権力を握るとリベラルが軍部を兼ねるという現象も起きる。この小説でもそれがこれから起きる。
マコンドを取り巻く沼地の国の内戦がいったん終わり、リベラルのただ一人の生き残り(ヘリネルド・マルケスと)となったアウレリアーノが保守派の軍勢に囚われてマコンドに護送されてくる。この状況で保守の政治家モスコテは完全に軍のグリップに失敗しているという設定だ。この護送部隊を率いていた男が「セニョール」という言葉を使うのを見てウルスラが<パラモの連中、カチャーコたち特有の陰気な言葉遣いをする(7-10)>ことに気付くという場面があるが、ここにはコロンビア特有の、首都ボゴタ=荒地=陰気、カリブ諸都市=肥沃=陽気、という地理的対立が見て取ることができる。やはりコロンビアの小説だよな~と思ってしまう場面なのである。
さて処刑を待ち受けるアウレリアーノ、彼の戦争中のエピソード、たとえば自分を殺しに来た女を気配で察する等の場面、さらには毒入りコーヒーを飲んでも死ななかったことや結局処刑を免れること等は、実は6章冒頭で予告されている。
この小説はとにかくまず予告をする。
予告された出来事の記録、と題を変えたいくらいである。
その予告が少しずつ成就される過程に私たち読者は立ち会うことになるわけだが、この話型そのものがフォークロアやフグラルと呼ばれる吟遊詩人のそれとしばしば比較されてきたことは言うまでもない。あとで詳しく話しますけど実はこういうことがあったのです、あとで詳しく話しますが20年後にはこうなります、の繰り返し。答が出てきたところで「やっぱりそうなったのか」と読み手は解放感を覚える、これもある種のカタルシスと言えるでしょうか。
さて誰もしたくないアウレリアーノの銃殺、そのお鉢が回ってきたのがロケ・カルニセーロ隊長なのだが、この隊長、兄ホセ・アルカディオの助けが入って助かったアウレリアーノにくっついて戦争に行ってしまうのである。なぜ?と思うわけですが、上に述べたようにラテンアメリカでは銃器をもった第三の勢力(麻薬マフィアも含む)は保守にもリベラルにも時機を見据えてどちらにでも加担するのであるから、まあ、らしいなあ、という、やはり「ラテンアメリカある、ある」の展開なのですね。7-32は冒頭の「氷を初めて観に行った午後」につながる名場面。カタルシスを覚えたでしょうか、皆さん。
その後はゲリラ戦でユビキタス伝説をつくるアウレリアーノ、マコンドに凱旋するも自分たちが勝っている感じがしない。彼の権力をめぐる内省は7-41に展開するのだが、このあたりのどん詰まり感、つまりリベラル的な理想を掲げたアウレリアーノが次第に自らの理想の実効性の有無に疑いを深めていく様は明らかにシモン・ボリーバルを思わせる。
ラテンアメリカ規模の連邦制という夢をミランダから受け継いで南米各地を次々に独立させていった同じ地域出身の英雄ボリーバル、その150年後にまさに同じ夢を部分的に実現させることになるフィデル・カストロ、そしてこうした独立とリベラル的な連邦制樹立の夢を抱いてそれを文章化しホセ・マルティなど「銃を持つ文学者たち」といったイメージがアウレリアーノにはすべて流れ込んでいる。
実際に詩(versos)を書いている(7-15,42)。
現実にうまくいかない夢も詩にすればうまくいくような気がする。現実世界のラテンアメリカを生きた先人のドン・キホーテたちが辿った道を彼も辿るのである。ボリーバルと同じく失意の晩年へ向かって。
この章のアウレリアーノ関係以外のハイライトは言うまでもなく2つ。
まずはホセ・アルカディオの謎の死とレベーカの隠遁であるが、ここを説明してくれた学生さんが「レベーカが旦那を殺した」とおっしゃったので、よくよく読み直してみると断定はしていない。<(注:ホセ・アルカディオは)食堂でレベーカに声をかけ、犬たちを中庭でくくりつけ、ウサギをあとで塩漬けにするために台所に吊るしてから、着替えをしに寝室に行った。後にレベーカは、夫が寝室に入ったとき自分はバスルームにこもったからまったく気付かなかったと断言した。信じがたい言い分だったが、他に信用できる言い分もなく、自分を幸せにしてくれた男をレベーカが殺す動機が誰にも思いつけなかった。これがおそらくマコンドで最後まで解明されないただひとつの謎となった。(7-38)>とあるだけである。銃声がして、その後は例の地を這う血のエピソードになるわけだが、遺体には銃で撃たれた傷もなく、ただ右耳から血が流れだしていて火薬の匂いが消そうとしても消えないだけで、誰が殺したのか、というよりなぜ死んだのかが分からない。
これがホセ・アルカディオ死亡の謎。
これだけで数多の論文が書かれているようなので、世界のラテンアメリカ文学研究者も相当暇ですよね。
ここは学生さんに考えてもらうつもりなのだが、謎解きというよりは、この死がレベーカという「囚われの女」にとってどのような意味を持つのかを考えたほうがいいのかもしれない。
この難問は少し先送りにするとして、もうひとつのハイライトは、言うまでもなく長老ホセ・アルカディオ・ブエンディーアの死。この章の最終段落がガルシア・マルケス自身の死に際しても世界中で引用されたことは記憶に新しい。人の死を表現した最も美しい文学表現のひとつであろう。