goo blog サービス終了のお知らせ 

Crónica de los mudos

現代スペイン語圏文学の最新情報
スペイン・米国・ラテンアメリカ
小説からグラフィックノベルまで

ガルシア・マルケス『百年の孤独』10

2024-11-01 | 北中米・カリブ
 何年も後に死の床にいたアウレリアーノ・セグンドは自らの長男と初対面をしに寝室に入った六月の雨の日の午後を思い出すことになる。(10-1)
 この長い小説は19の題名も番号もない断章で形成されていて、この10番目の断章(これまで同様10章と呼ぶことにする)はちょうど折り返し地点といってもいい。私は自分の本でこの章の冒頭に「第二部」とメモ書きしているが、読んだ当時からここで前編と後編を分けてもいいと思ったのだろう。
 まず書き出しの文が小説冒頭と相似形である。人物はアウレリアーノ大佐から甥のセグンドに移行しているが、物語の行く末で死に直面する人物がある出来事を回想することになるという構文はまったく同じ。また、9章でアウレリアーノ大佐をめぐる物語が一段落し、第四世代のホセ・アルカディオ・セグンドやアウレリアーノ・セグンド、美少女レメディオスらが物語の中心になっていく。ちなみに第三世代のアルカディオは街のプチ独裁者になって処刑され、大佐とピラール・テルネーラのあいだに生まれたアウレリアーノ・ホセはやはり殺害され、あとは次の11章でわらわら出てくる大佐の17人の腹違いの子たちも全員殺され、第三世代は全員が殺されている。
 この小説の文体は、章レベルでも作品全体レベルでも見られる情報提示の手法を特徴としていて、まず最初に「後に詳細が明らかにされる情報」が小見出しのように開示され、ロクに紹介もされていない人物が現れたりするが、彼らが何者で、冒頭の1行がどのような経緯だったのかは章を最後まで読めば必ず分かるという、とっても読み手ラブリーなもの。メルキアデスの文書という1章で現れた情報の意味も作品結末で明かされるなど、万事がこの調子で進む。
 たとえばこの章では第三段落でアウレリアーノ・セグンドの妻フェルナンダが現れるが、彼女はここで初めて出現しているから、読者的には「誰だこいつ?」といぶかしむも、この章と次の章で彼女の造形は事細かに語られ、読者の抱いた疑問はけっこう早期に解答に遭遇する仕掛けになっている。
 小説読みのなかにはこうした解決が鼻につく向きもいよう。
 他ならぬ私もその一人である。
 時間を縦横に移動して情報を巧みに開示していくように見えるこの語り手は、しばしば文学批評の場で「全知の語り手」と呼ばれる。この全知のという形容詞はスペイン語では主として omnipotente が使用され、この語を見る限り全知というよりは「全能」である。明らかに神だ。
 神の視点の語り手。
 しかし実際にそんな存在があり得るのだろうか?
 たとえば詩を読んでいるとしばしば小説の語り手に近い文体があったりする。私たちはエリオットがロンドンを描いているの読んで、たとえば<非現実の都市 冬の夜明けの褐色の空の下 ロンドンブリッジを群衆が流れていった(『荒地』岩崎宗治訳、岩波文庫、87)>という下りを読んでこの語り手が神だなどとは思わない。なに言ってんだ、この詩人は、とは思っても。そもそも詩を批評的に読む場合は語り手という言葉すら使用されず、だいたい詩的主体 sujeto poético などという曖昧な語が用いられる。その言葉を、その声を発していると推定される(仮に生きた人間だったとしても活字になって翻訳されて私たちのもとへ届くときにはたいていの場合死んでいるわけだから)存在はプルーフロックであろうが、エリオットであろうが、そのどちらでもない神であろうが、詩の場合にそこに大して差はない。
 それが小説だと一律に分類されて、一人称の語り手だの全知の語り手だの介入する語り手だの、まるで野球のポジションのように選択できることになっているのはある意味で不思議なことだ。これに関してはジョナサン・カラーも似たようなことを言っていて、19世紀にコード化されて以来、誰もその価値を疑うことがなくなってそれこそ「全能化した」全知の語り手とは<パノプティコン的な監視とコントロールの文学的な手先であり、物語の警察的な力と結合していて、物語的なフィクションを、もともとの対話的性格から胡乱な独白的性格へと逸脱させるとされた(『文学と文学理論』折島正司訳、岩波書店、312 )>そうだ。
 職業柄、教室で日本の小説をスペイン語に訳させるということをしているのだが、それをしていてつくづく思うのは、上記のような「上から監視する全能の語り手」というポジションが極めてヨーロッパ的であるということ。特にというわけでもないが(私が好んで選んでいるせいもあって)日本の現代女性作家の文体はポジショニングについて比較的自由な気がする。出だしは全知の語り手っぽくても、平気で人物の内面にシンクロしたり、それは自由間接話法というような肩ひじ張ったものではなく、ある種の心地よい不安定さを読者にも共感させる類のもの、文体の「揺れ」のようなものだ。そしてこれを横文字にするとなると少し困った事態になる。人称や時制の選択といった、立場上きちんと教えねばならない文法上の制約が原文の日本語がもっていたそうした揺れ幅のなかにある繊細なトーンをぶち壊し、とまではいわずとも、やや損なって別のモノに変えてしまうから。
 私がバルガス・ジョサやガルシア・マルケスなどスペイン語の精巧な小説を読んでいてちょっと窮屈に思うとしたらまさにここ、語り手はもう少し自由にポジションをシフトしてもいいのにな、と感じたときで、だからこそ最近のラテンアメリカの女性作家にその種の文体が少しずつ増えてきたのは面白い。
 話を戻すと10章冒頭。
 アウレリアーノ・セグンドとフェルナンダという、まだどうして結婚したかもわからない先端時間の二人が出た直後、二人の子どもにまたもやホセ・アルカディオという名前が付けられることになり、そこからセグンドの子ども時代に話が戻っていく。まあ、こうやって、行ったり来たりをするという文体なのだ。
 3段落では名前の傾向が指摘される有名な文章が来る。
 アウレリア―ノたちが引っ込み思案だが頭脳明晰なのに対し、ホセ・アルカディオたちは衝動的で積極的だが悲劇的性格を刻印されている。(10-3)ところがそれがどっちかわからなくなったのが双子の両セグンド。でも時間が経つにつれてやはり名前の刻印を露にし、一族の孤独の空気(10-3)を漂わせ出したアウレリアーノ・セグンドは例の大叔父の作業部屋に入ってメルキアデスの手稿を発見するのだ。
 メルキアデスの手稿は随所に現れ、結末の伏線を用意する。ア・セグンドは毎週のようにメルキアデス(の亡霊?)と会い、彼の知識を授かるが、手稿の翻訳をせがむと彼から<百年経つまで誰もその意味を知ってはならない(10-9)>と諭される。百年経てば、すなわちこの小説が終わるときに羊皮紙手稿の意味が明かされるという予告がここでなされている。
 いっぽうのホセ・アルカディオ・セグンドは一族には珍しい教会への興味を示し、いかがわしい闘鶏をやっているアントニオ・イサベル神父の助手になる。このマコンドがカトリック教会と疎遠であることの意味、ブエンディーアの人々があまり信心深くない連中であることの意味はもうすでに指摘されているところだろうが、カリブに近く宗教色が濃厚な首都(書いてはいないが明らかにボゴタ)から遠い小さな町には教会の力が及んでいなくて、結果的に大佐のようなリベラル的思考の持ち主が現れる土壌にもなっている。そんななかでは珍しくホ・セグンドは教会に接近するが覚えたのは神事というよりむしろ闘鶏と獣姦だった。
 レイナルド・アレナスの回想録にも出てくるが、カトリック的風土の男の子の第二次性徴は近所の「生き物」に紐づけられることが多い。こうして大人になっていくホ・セグンドは岡場所であるカタリノの店に出入りするように。そして双子の兄弟はひとりの女と出会う。
 ペトラ・コテス。
 <彼女の名はペトラ・コテスといった。戦争の真っ只中にくじ売りを生業とする当時の夫とマコンドへやってきて、その男が死ぬと自分が仕事を引き継いだ(10-19))>。第二世代のピラール・テルネーラと同じ位置を、第四世代ではこのペトラ・コテスが占めるようになっていく。彼女には家畜の多産をうながすという超自然の力があって、これがア・セグンドにひと財産をもたらすことになって、ア・セグンドは愛人としての彼女を手放せなくなっていく。と同時にマコンドはまたもや好景気の時代を迎え、ホ・セグンドが運河を通してマコンドに外界の船を呼び込むという事業に着手、齢百を重ねてほとんど盲目になったウルスラばあさんがまたあのセリフを言う。
 <まるで時間が一回りして最初に戻ったみたいだ(10-30)>
 これはすでに述べたように小説の構造上もそうなっているから、読者も思わず彼女の言葉を聞いて「まさにそうだ」と手を打つだろう。
 こうして好景気にわくマコンドではカーニバルが盛大に催され、フランスから娼婦がやってきたり、ア・セグンドの妻となる(ことがすでに分かっている)フェルナンダが現れたりして最後は大騒ぎになるのだが、それと並行して数々の男を愛のどん底に突き落とす美少女レメディオスのエピソードと老大佐の静かな暮らしが描かれている。後者のほうに soledad という語が現れるので見ておくと<寡黙にしてもの静かで、家を震わす新たな活力の息吹にも微動だにせぬアウレリアーノ・ブエンディーア大佐は、良き老後を送る秘訣は孤独と誠実な協定を結ぶことだということをやっと理解したのだ。(10-37)>スペイン語では pacto honrado con la soledad とあるが、この孤独とは人との交わりを絶って静かに生きることくらいを指すらしい。
 この小説の題になっている孤独だが、読んでいくにつれて、全面的に否定的な意味付けがなされているわけでもないことに気付いてくる。それが最もよくわかる人物像が美少女アマランタなのだが、彼女が飛ぶのは次の次の章。たしか。
10:終わり
コメント    この記事についてブログを書く
« 明日から盆休み | トップ | エルパイス紙による2024... »

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。