彼女は毎日のように公園の片隅の生け垣のまえで過ごす。彼はそんな彼女のそばに座って趣味のバードウォッチングを語る。これだけ聞けば普通の話だが、彼女は13歳、彼は56歳。行き場を失った二人の友情を淡々と綴るこの小説は、サラ・メサにとっては3つ目の長編ということになる。
ともに名前はない。
彼女は14歳にならんとしていて、スペイン語で「ほぼ」を意味するカシというあだ名を名乗る。いっぽうの彼はスペイン語で父の代わりによく使われるエル・ビエホを名乗る。最初はビエホを警戒していたカシだったが、ほかの大人と違って子どもとみると干渉してきたりしない内気な性格に、じょじょに心を開いていく。
カシは日本でいえば中学生。
学校では女子のグループになじめず、特にマルガという金髪のお山の大将みたいな子が誰彼かまわずクラスメートにあだ名をつけたり、女子どうしで彼氏をつくる競争みたいなことが始まっているのも、面倒に感じている。マルガは丸顔のカシに「パン顔」というあだ名をつけた。カシは、どちらかといえば美男美女の両親や、9つ上でいまは外国の大学院に通っているハンサムな兄と違い、自分だけ不格好なことがとても嫌だ。たとえそれがひとつの成長過程だとしても。
カシの直面している面倒というのは、子どもであれば、特に女子であれば誰でも通るかもしれない暗路である。公園でカシが初潮を迎える切ない場面もきっちり描かれていて、女になることの鬱陶しさを彼女が全身で拒否している痛々しさが伝わってくる場面だった。
いっぽう、どう見ても働いているとは思えず、いつも同じ格好で、子ども相手に延々と鳥の話をし続けるビエホは「誰でもなり得る56歳」ではない。カシもビエホの明らかに異常な語り口をやや怖がりつつも、次第に彼の過去に関心を抱くようになっていく。二人の交流を通してビエホの生い立ちが明らかになってゆき、そこが物語を駆動させるエンジンになっている。
文体は自由間接話法のサンプルみたいな作品。地の語りに二人の発話が埋め込まれ、主語が ella と三人称化する。日本語訳をする際には直接話法の感じに戻していくところ。でもそう読みにくくもなく、これくらいのテクニックとして若いころに親しんでおけば、将来バルガス=リョサの『緑の家』みたいなものを読んだとき、ああ、あれか、と納得できるのかも。なぜこの話法を使っているかというと、カシの感じている鬱屈が少しずつビエホのそれに重なってくる様子が手に取るようにわかるから。ダッシュによる直接話法のみで話を進めてしまうとそれが台無しになる。
ビエホはある意味での破綻者。
過去にあったことはあとで明らかになるのだが、彼はその忌まわしいものも含めて、自分を変えることができなくなってしまった人間、運命に捕らわれて逃げられなくなった人間である。それは彼自身の責任ではない部分もあるのだが、彼の行動そのものは、公園で未成年の女子と昼間から過ごしているということも含めて、社会的に容認されるものではない。小学校の前にいたら職質されたとかいう場面もあって、ちょっと他人事じゃなかったりして。
いっぽうカシは急におとなになろうとしている。兄の友だちに初恋をするも、あっけなく幻滅を味わい、もう二度と恋愛などという不毛なことはしないと心に誓っている。兄にはちょっと過剰な思慕を抱いているが、終盤の事件後に外国からわざわざ保護者面して駆けつけた兄の今の姿を見て、自分の幻の実態を知る。彼女はビエホのことも冷静に観察している。しかし、そこには性に目覚めた彼女自身の困惑と欲望も入り混じる。結局、最後は、カシがひそかに書いていた日記が原因で、悲しい事件に至ってしまう。
でも、最後の邂逅の場面で、少し救われる。ハッピーエンドではないけれど、最後の一文、二人が歩いていく先の描写が見事で、この面倒で愚かしい人の一生もまあそう捨てたものではないな、という気持ちにさせてくれるのです。卒業生と私との関係みたいなもんでしょうか。彼らはまだまだこれからも「多くを忘れる」人生、私はもはや「記憶しか頼るもののない」人生。それが人の一生だから。
大人になる寸前の少女が異物と出会う、という物語類型は、ビクトル・エリセの『ミツバチのささやき』などを思い起こさせる。男の子が主人公になると、この種のイニシエーションで相対するのは、大人社会の矛盾を抱えた悪党であることが多い。ピカレスク小説からディケンズ、バルザックを経て現代に至るまで。いっぽう、女子が主人公になると、その子が抱えている肉体的な変化も含めた違和感を共有する、社会的マージナル、あるいは異形の者と相対することが多くなるような気がする。
短いながらキリっとした小説。
女子の応援歌にもなっている。
本当に綺麗な子が通る登竜門。
あとで笑って済ませられる悲劇。
Sara Mesa, Cara de pan. 2018, Anagrama, pp.137.