Crónica de los mudos

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サンティアゴ・ロレンソ『むかつくやつら』

2019-06-21 | スペイン

彼は1991年マドリードで生まれた。父親は誰の目から見てもどうでもいい感じの男。同じタイプの母親は俺の元妻の姉。そういえばあいつと会わなくなってどれくらいになるだろうか。おじの俺以外、彼に親戚はない。

 たいしたもので、11歳のころから、ネットで仕事を探すような奴だった。年齢を考えれば仕事なんてあるわけないし、本当に求めていたわけじゃない。でもマヌエルはがきのころから世間での自分の居場所を思い浮かべていたんだ。

 マヌエルは偽名。でも実のところ本名は明かせない。

 彼はいまでいうところのいわゆる鍵っ子だった。両親は仕事だの社交だのでいつも家を空けていた。マヌエルは家の鍵をいつも首からぶら下げていた。学校の外では誰もかまってくれなかったからだ。一見するとさびしく辛い状況に思える。子どもというのは、こんな風に放ったらかしにされていると、やがては自傷行為に走ったり、不健全なお遊戯を始めたり、バイクで事故を起こしたり、摂食障害やネジの外れた恋愛に走ったりするものだ。

 マヌエルはそうならなかった。彼は自分が置かれた孤立状況の利点と欠点をすべて並べて考えた。彼にとって親の愛情不足は幸運以外のなにものでもなかった。父親が不在でおおいにけっこう。親父のおバカな言動に付き合わなくてすむ。空っぽの家を自分のすきにつかえる。その年で自分が一家の主になれるのだ。(9-10)>

 と語っているのは主人公マヌエルのおじ。名前は不明。俗語だらけで、しかもひとひねりもふたひねりもした文体にはやや疲れるのだが、しだいに慣れてくる。孤独な少年マヌエルはやがて大人になり、そして2013年、22歳で大学を卒業、不況下のマドリードで様々な仕事に就くも、どれもすぐにやめてしまい、最終的に2015年、24歳でスマホやPCに関する苦情を電話受付する会社にもぐりこみ、市内のマンションで暮らし始める。そこにいたのは社交的な面だけした「むかつくやつら」ばかりだった。ところがある日、街中で失業者の大規模なデモが起きていたとき、マンションの玄関ホールに警棒をもった私服警官が闖入してきた。デモを扇動していた一員と間違えられ逮捕されそうになったマヌエルはいつも身につけていた愛用のスクリュードライバーを警官の首に突き刺してしまう。マンションを逃げ出したマヌエルは、離婚後に独り暮らしをしていたおじの家に転がり込む。

 近年の法改正の結果、警官を殺傷した場合には相当な刑が予想される。おじはマヌエルを車で北へ逃れさすことにした。そこには過疎化したスペインの無人の村々が待っていた。

間違いなかった。そこは完全な廃村で、ひとっこひとりいない、いまのスペインに何百とある見捨てられた村のひとつだった。六本の車道と交差する六本の路地だけでできた村。マヌエルの希望に従い、実名の公表はできない。たんなるでたらめな思いつきだが、とりあえずサルサウリエルとでもしておこう。俺がそこを訪れるのはまだ先のことだし。(36)>

 こうして無人の廃村に住み着いたマヌエルにとって、外部との連絡手段は、おじから渡された携帯電話だけになった。この電話はおじ自身のもので探知される心配がない。まずは水だが、近所の井戸から新鮮な地下水がこんこんと湧いていることがわかる。電気は太陽光パネルを一枚改造して屋内に。食べ物など、必要最小限の必需品は、おじがスーパー・リドルの宅配サービス(無人の家に送付する場合は村の街角の電柱の下などを指定できる)で届けることになった。

 こうしてマヌエルのロビンソン・クルーソー生活が始まることになる。

 彼が住み着いた家には、以前の住人が読まずに捨てていったアウストラル文庫が大量に残っていた。アウストラル文庫とは一九三七年にオルテガの『大衆の反逆』から始まったスペイン最古の文庫シリーズで、今となっては古めかしい旧文庫の代名詞で、日本の多くの図書館でももはや利用されることも滅多にない代物。なんとなく懐かしい風合いがあって、廃屋にいかにも転がっていそうな風情もある。マヌエルは暇なときはこのアウストラル文庫を読み漁り、それ以外は屋外で果物をとったり、飯の種を探してほっつき歩くようになる。

 やがて彼はいろいろな「生きていくのに不必要なもの」を学んでいくことになる。このあたりの漂流譚が小説の中頃までじっくりと進んでいくのだが、やがて、この廃村を訪れる者があった。マヌエルが住み着いた家の隣家は、不動産屋が売買の対象にしていたのだ。

 そこを買い取ったと思しき夫人は、毎週末、金曜から日曜まで大都市に住んでいる親戚の誰かをとっかえひっかえ連れてくるようになる。マヌエルは週末に完全な隠遁生活を送らざるを得なくなる。

 こんなことをいつまでも続けるわけにはいかない。一計を案じたマヌエルは、月曜以降の数日をつかって屋敷にいろいろなものを仕掛けていく。近所に人がいるとばれないよう、時間をかけて徐々にダメージを与えるような仕掛けを隣家のそこここに仕掛けていったのだ。このあたりがコミカルで笑える。

 ところがある日、曜日を間違えたマヌエルは、金曜、自分の潜伏している家のなかで派手なもの音を立ててしまった。不審に思い駆けつけた夫人と鉢合わせしてしたマヌエルは、間違って斧を自分の太ももに刺してしまう……。

 後の展開は秘密。

 この小説はすべておじによる語り。

 孤独な中年男が、息子であってもおかしくない甥に、無償の愛を注ぐという話でもある。おじには別れた妻とのあいだに実の息子がいる。実際、小説の最後に登場する。だが彼は孤独好きなマヌエルのことだけを思い続け、そして最後にとても切ない別れが待っている。

 マヌエルが求めたのはソロー流の隠遁生活だったのだろうか。それはわからない。しかし、この世には他者との交流を断って絶対的な孤立のうちに安らぎを見出す人間もいる。そういう人間は、そういう人間にとっての「むかつくやつら」以上に、ある意味で唾棄すべき反社会的な「むかつくやつ」かもしれない。

人は誰でも「むかつくやつ」の候補だ。だが、あらゆるものに背を向け、全世界に尻を向け続けるマヌエルを見ていると、彼こそが真の純粋な「むかつくやつ」であると言ってもおかしくなかろう。多くの男や女にとったら、閉鎖的で盲目的な亡命生活に入ったマヌエルこそ、反社会的で、望ましくない人物ということになるだろう。むかつくやつがここにも、というどころか、世界でもっともむかつく男だということになるだろう。(217)>

 ひとりでいるという「反社会性」を自ら引き受けた男。そんなマヌエルに、語り手のおじは、なぜか無条件の愛情を寄せ続ける。そしてその孤独という反社会の砦をそっと見送って小説は終わるのだ。

 帯の文言。

 すべてから逃げ出せ。

 この小説を読め。

 この「すべて」とはなんだろうか。

 そこにある程度の想像が働く孤独なスペイン人がこの小説を読んでいるのだとしたら、私もその3万人の仲間入りをするにやぶさかではない。

Santiago Lorenzo, Los asquerosos. 2019, Blackie Books, pp.221.

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