第2の人生サイゴンで

1日の滞在でサイゴンに惚れて
知らぬ間に6年が経過
サイゴンの生活を
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part 1 逞しく生きる!!

2015-03-12 06:09:28 | 日記
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平成27年 西暦2015年 3月12日 木曜日

Part 1  逞しく生きる!!

昨夜今朝と逞しく明るく生きる映像や写真記事に遭遇
嬉しくなりました。


政府主催の東日本大震災の追悼式が11日午後、東京都千代田区の国立劇場であった。天皇、皇后両陛下や安倍晋三首相ら約1120人が参列。
被災3県の遺族代表が追悼のことばを述べた。なかでも菅原彩加(さやか)さん(19)。
《15歳だった私には受け入れられないような悲しみがたくさんありました》。
白菊で飾られた祭壇に向かい、読み上げた強く生きる言葉に感動でした。





生きていくことが恩返し…追悼式・宮城県代表
2015年03月11日 23時49分

 ◇宮城県代表 菅原 彩加さん(19)◇
 私は東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県石巻市大川地区で生まれ育ちました。
 小さな集落でしたが、朝学校へ行く際すれ違う人皆が「彩加ちゃん!元気にいってらっしゃい」と声をかけてくれる様な、温かい大川がとても大好きでした。
 あの日、中学校の卒業式が終わり家に帰ると大きな地震が起きました。逃げようとした時には遅く、地鳴りのような音と共に津波が一瞬にして私たち家族5人を飲み込みました。
 しばらく津波に流された後、私は運良く瓦礫の山の上に流れ着きました。その時、足下から私の名前を呼ぶ声が聞こえ、かき分けて見てみると釘や木が刺さり足は折れ変わり果てた母の姿がありました。右足が挟まって抜けず、瓦礫をよけようと頑張りましたが私一人にはどうにもならないほどの重さ、大きさでした。母の事を助けたいけれど、ここに居たら私も流されて死んでしまう。「行かないで」という母に私は「ありがとう、大好きだよ」と伝え、近くにあった小学校へと泳いで渡り、一夜を明かしました。
 そんな体験から今日で4年。
 あっという間で、そしてとても長い4年間でした。家族を思って泣いた日は数えきれない程あったし、15歳だった私には受け入れられないような悲しみが沢山ありました。全てが、今もまだ夢の様です。
 しかし私は震災後、沢山の「諦めない、人々の姿」を見てきました。震災で甚大な被害を受けたのにも関わらず、東北には沢山の人々の笑顔があります。「皆でがんばっぺな」と声を掛け合い復興へ向かって頑張る人たちが居ます。日本中、世界中から東北復興の為に助けの手を差し伸べてくださる人たちが居ます。そんなふるさと東北の人々の姿を見ていると「私も震災に負けないで頑張らなきゃ」という気持ちにいつもなる事が出来ます。
 震災で失った物はもう戻ってくる事はありません。被災した方々の心から震災の悲しみが消える事も無いと思います。しかしながらこれから得ていく物は自分の行動や気持ち次第でいくらにでも増やしていける物だと私は思います。前向きに頑張って生きていく事こそが、亡くなった家族への恩返しだと思い、震災で失った物と同じくらいの物を私の人生を通して得て行けるように、しっかりと前を向いて生きていきたいと思います。
 最後に、東日本大震災に伴い被災地に沢山の支援をしてくださった皆様、本当にどうもありがとうございました。また、お亡くなりになった沢山の方々にご冥福をお祈りし追悼の言葉とさせていただきます。


昨夜から鑑賞を始めた
ゴーイング マイ ホームも第4話まで見てしまいました。

長野県の伊那市や上伊那郡内、長野県内で大掛かりな
撮影の行われているって。懐かしい大好き長野県です。伊那谷です。




第3回 2012年10月30日放送 あらすじ

良多、母には言えぬ父の秘密を知る

良多(阿部寛)は森で見つけた小さな赤い三角帽子が気になって仕方がない。沙江(山口智子)には「萌江(蒔田彩珠)がクーナ探しに夢中だ」と言いながらも、こっそり1人で手がかりを探そうと「クーナ事務局」を訪れるが、そこで治(西田敏行)に見つかり歯の治療をされるはめに。治は「クーナはいない」と改めて否定し、良多の父・栄輔(夏八木勲)のクーナ探しもお金目当てだったのだろうと言う。
そんな中、良多は表紙に「クーナ」と書かれた古いノートを見つける。そこには栄輔の字で、良多が森で拾ったものとそっくりな赤い帽子のイラストが描かれ、見覚えのない空き地の写真が1枚はさまっていた。クーナにまつわる詳細な記述を頼りに、神社や廃墟など父の来たであろう道を歩く良多。やがてノートの中に父と治と、「久実」という見知らぬ女性の名前を見つけ、驚いてふと顔を上げると、目の前に菜穂(宮あおい)が現れ…。
その頃、治は、ひとりでやってきた萌江から、「おじさんは見たの?クーナ」と問われる。わずかな沈黙のあと、「見たよ」と素直に認めた治は、さらには「探してみるか?探してみなくちゃ、いるかいないかわからないからな…」と萌江にやさしくほほ笑む。良多に対してとはまったく異なる態度をみせる治の心のうちは…。


第4回 2012年11月6日放送 あらすじ

妻と娘よりも大切な女

父・栄輔(夏八木勲)の意識が戻った。母・敏子(吉行和子)、姉・多希子(YOU)、姉の夫・健次(安田顕)、そして良多(阿部寛)と娘の萌江(蒔田彩珠)が集まり、沙江(山口智子)もついに病院に向かう。まだもうろうとしている栄輔を囲んで「名前言ってごらんなさいよ」などと皆で質問攻めにするが、栄輔は良多の名前しか思い出せない。落ち込む多希子に敏子は「苦労かけた子は忘れないっていうから」と慰めるが、良多はどうにも肩身が狭い。
そんな中、菜穂(宮あおい)と息子の大地(大西利空)が見舞いにやって来る。栄輔の愛人とも疑われた菜穂との初対面にざわつく敏子と多希子。しかし、栄輔は、虚ろな意識の中で「くみ…」と別の女性の名前を口走り、病室には微妙な空気が漂う。
その頃、治(西田敏行)は、かつてクーナを見た森をひとり訪れ、何かに話しかけるように「とりあえず目覚めたって。よかったよかった」とつぶやいていた。するとその背後に人影のようなものが現れて…?


 













1回目の休憩
午前10時55分


「生きていくことが家族への恩返し」 19歳の遺族代表
中林加南子、吉浜織恵2015年3月12日05時47分

宮城県の遺族代表の菅原彩加さん



 政府主催の東日本大震災の追悼式が11日午後、東京都千代田区の国立劇場であった。天皇、皇后両陛下や安倍晋三首相ら約1120人が参列。被災3県の遺族代表が追悼のことばを述べた。なかでも菅原彩加(さやか)さん(19)。《15歳だった私には受け入れられないような悲しみがたくさんありました》。白菊で飾られた祭壇に向かい、読み上げた強く生きる言葉に感動でした。

宮城代表 菅原さんのことば
特集:3.11 震災・復興
 宮城県代表は、母(当時35)と祖母(同64)、曽祖母(同83)の3人を津波に奪われた菅原彩加(さやか)さん(19)。《15歳だった私には受け入れられないような悲しみがたくさんありました》。白菊で飾られた祭壇に向かい、読み上げた。

 中学の卒業式から戻った後だった。石巻市大川地区の自宅で大きな揺れに襲われた。家族は、買ったばかりのテレビが倒れることを心配していた。その矢先。濁流にのまれた。気づくとがれきの山の上だった。足元から低い声が聞こえた。「さやー」。母の理子(りこ)さんだった。

 《釘や木が刺さり、足は折れ、変わり果てた母の姿がありました。がれきをよけようと頑張りましたが、私一人にはどうにもならないほどの重さ、大きさでした。母のことを助けたいけれど、ここにいたら私も流されて死んでしまう。「行かないで」という母に、私は「ありがとう、大好きだよ」と伝え、近くにあった小学校へと泳いで渡り、一夜を明かしました》。声をふるわせた。

 高校入学後、60回近く体験を語ってきた。でも可哀想と思ってほしくないという。あの時の判断を問われると「仕方がなかった」と答えてきた。

 仮設暮らしの祖父、秀幸さん(64)は、ふびんに思って声をかけた時の答えが忘れられない。「自分は不幸じゃない」。彩加さんは泣いて抗議したという。明るい性格の孫が理不尽な境遇を懸命に生きているように、秀幸さんには見えた。

 それでも彩加さんには、母を思って涙がこみ上げることがある。片付けをせずに怒られたこと、一緒に洋服を選んだこと。浮かぶのは「あの日」ではなく、家族が一緒だった日常だ。

 《失ったものは、もう戻ってくることはありません。悲しみが消えることもないと思います。しかし前向きに頑張って生きていくことが、亡くなった家族への恩返しだと思い、生きていきたい》

 春からは神奈川県の大学に進み、防災学をまなぶ。(中林加南子、吉浜織恵)


生きていくことが恩返し…追悼式・宮城県代表
2015年03月11日 23時49分
大震災
 ◇宮城県代表 菅原 彩加さん(19)◇
 私は東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県石巻市大川地区で生まれ育ちました。
 小さな集落でしたが、朝学校へ行く際すれ違う人皆が「彩加ちゃん!元気にいってらっしゃい」と声をかけてくれる様な、温かい大川がとても大好きでした。
 あの日、中学校の卒業式が終わり家に帰ると大きな地震が起きました。逃げようとした時には遅く、地鳴りのような音と共に津波が一瞬にして私たち家族5人を飲み込みました。
 しばらく津波に流された後、私は運良く瓦礫の山の上に流れ着きました。その時、足下から私の名前を呼ぶ声が聞こえ、かき分けて見てみると釘や木が刺さり足は折れ変わり果てた母の姿がありました。右足が挟まって抜けず、瓦礫をよけようと頑張りましたが私一人にはどうにもならないほどの重さ、大きさでした。母の事を助けたいけれど、ここに居たら私も流されて死んでしまう。「行かないで」という母に私は「ありがとう、大好きだよ」と伝え、近くにあった小学校へと泳いで渡り、一夜を明かしました。
 そんな体験から今日で4年。
 あっという間で、そしてとても長い4年間でした。家族を思って泣いた日は数えきれない程あったし、15歳だった私には受け入れられないような悲しみが沢山ありました。全てが、今もまだ夢の様です。
 しかし私は震災後、沢山の「諦めない、人々の姿」を見てきました。震災で甚大な被害を受けたのにも関わらず、東北には沢山の人々の笑顔があります。「皆でがんばっぺな」と声を掛け合い復興へ向かって頑張る人たちが居ます。日本中、世界中から東北復興の為に助けの手を差し伸べてくださる人たちが居ます。そんなふるさと東北の人々の姿を見ていると「私も震災に負けないで頑張らなきゃ」という気持ちにいつもなる事が出来ます。
 震災で失った物はもう戻ってくる事はありません。被災した方々の心から震災の悲しみが消える事も無いと思います。しかしながらこれから得ていく物は自分の行動や気持ち次第でいくらにでも増やしていける物だと私は思います。前向きに頑張って生きていく事こそが、亡くなった家族への恩返しだと思い、震災で失った物と同じくらいの物を私の人生を通して得て行けるように、しっかりと前を向いて生きていきたいと思います。
 最後に、東日本大震災に伴い被災地に沢山の支援をしてくださった皆様、本当にどうもありがとうございました。また、お亡くなりになった沢山の方々にご冥福をお祈りし追悼の言葉とさせていただきます。
2015年03月11日 23時49分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
一歩ずつ努力、改めて誓う…追悼式・福島県代表
2015年03月11日 23時49分
大震災
 ◇福島県代表 鈴木 幸江さん(32)◇
 私の住んでいた福島県浪江町は、人口約1万9000人の、山と川と海の豊かな自然に囲まれた、心温かな方々が住むのどかな町でした。
 その町で穏やかな生活を送っていたところ、平成23年3月11日、突如発生した大地震と大津波により、父、母、そして弟を失いました。
 私の大切な家族の命を奪ったあの凄まじい光景は、今でも忘れることができません。
 そして、大震災発生から4年経った今でも、原子力発電所の事故による放射能の問題のために町に戻れない状態が続いており、将来の展開がなかなか見通せないことについて、やりきれなさを感じています。
 大震災から丸4年が過ぎようとする今、残された私たちがなすべきことは何かと考えた時、多くの尊い命が犠牲になったことを教訓として、二度とこのようなことを繰り返さないために、そしてこの大震災を風化させないために、この経験を次の世代に伝えていくことではないかと思います。
 また、自衛隊、警察、消防をはじめとする多くの皆様が、身の危険も顧みず救命・救助活動に当たっていただいたことや、全国の皆様から物心両面でご支援いただいたことに対しまして、改めて心より深く感謝を申し上げます。
 最後に、復興に向けては、放射能の問題、住宅の再建、農地の復旧など、まだまだ課題が山積しておりますが、ひるむことなく、みんなで力を合わせて一歩ずつ努力していくことを、大震災の犠牲となられた方々に改めてお誓い申し上げ、遺族代表のことばといたします。






2015.3.12 06:00
【阿比留瑠比の極言御免】
憲法、東京裁判批判、ようやく当たり前のことを言える時代になった…風向き変わり萎縮する左派言論人
【阿比留瑠比の極言御免】
 ようやく当たり前のことを当たり前に言える時代になってきた。最近、しみじみそう感じている。
 「事実を述べたものにすぎず、首相として事実を述べてはならないということではない」
 安倍晋三首相は6日の衆院予算委員会でこう明言した。過去に産経新聞のインタビューで現行憲法について「連合国軍総司令部(GHQ)の憲法も国際法も全くの素人の人たちが、たった8日間で作り上げた代物だ」と語ったことについて、民主党の逢坂誠二氏の追及を受けてのことだ。
 翌日の在京各紙で、この発言を特に問題視したところはなかった。一昔前ならば、地位ある政治家が憲法が米国製の即席産物であるという「本当のこと」を指摘したならば、右翼だの反動だのとメディアの批判にさらされ、袋だたきに遭っていただろう。
 また、2月26日の記者会見で東京裁判の法律的問題点について言及した自民党の稲田朋美政調会長はその後、産経新聞の取材に「以前は東京裁判を批判するなどあり得ない、という状況だった」と振り返った。


 文芸評論家の江藤淳氏のいう戦後日本を長く覆ってきた「閉された言語空間」はほころび、自由闊達(かったつ)な議論がかなりの程度、可能になってきたようだ。


かつて「国益」も忌避
 慰安婦問題もそうだ。かつては「従軍慰安婦」という言葉が戦後の造語であることを指摘するだけで、「慰安婦の存在を否定する人たち」と偏見に満ちたレッテルを貼られた。
 軍や官憲による強制連行の証拠は見つかっていないという事実を述べると、元慰安婦の人権を無視する暴論だと反発された。平成8年に早大学園祭のシンポジウムを取材した際には、同様の趣旨を述べた藤岡信勝東大教授(当時)に学生らが「元慰安婦の前でも同じことが言えるのか」「教授の感性が許せない」などと罵声を浴びせ、議論にならなかったことが強く印象に残っている。
 さらに現在では、野党議員も含めて国会で普通に外交上の「国益」が論じられているが、これも以前は利己的で自己中心的な用語として忌避されていた。
 「国益を考えない援助はあるのか。ODA(政府開発援助)政策の中に国益の視点があるのは当然だ」


 15年6月の参院決算委員会で、小泉純一郎首相(当時)が中国へのODA見直しに関してこう述べた際には永田町界隈で話題を呼んだ。それまでは国益を堂々と追求することについて、どこかうしろめたく思う風潮があったからだろう。


検閲後遺症から回復
 戦後の占領期、GHQはメディアに(1)東京裁判(2)GHQが憲法を起草したこと(3)中国-などへの批判や、「占領軍兵士と日本女性との交渉」などへの言及を禁じ、厳しく検閲していた。
 この検閲の後遺症と身に染みついた自己規制から、日本社会は少しずつ回復してきた。ちょっと前までは特に保守系の言論に対し、甚だ不寛容な空気が支配的だったが、随分と自由度が増し、風通しがよくなったものだと実感している。
 ところが逆に、左派系言論人、ジャーナリストらがこのところ「政権批判を自粛する空気が広がっている」などと盛んに吹聴している。政権を批判したら、ネット上で激しくバッシングされるのだそうだ。
 彼らは、ちょっと風向きが変われば萎縮する程度の覚悟で、これまで言論活動をしてきたのかと少々驚いた。(政治部編集委員)

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