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川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

室戸岬小(旧津呂小)同級生各位

2007-12-10 22:22:21 | ふるさと 土佐・室戸
 11月10日の同窓会からはや1ヶ月がたちました。妻が撮ってくれた写真をお届けします。集合写真はなんとかうまくとれています。どなたの表情もいきいきしていて楽しい集いの余韻が感じられます。スナップ写真もまあまあのできですが2次会のは暗すぎたのかお届けできるものがありません。ごめんなさい。
 中学から皆さんと離れ、高知・東京と生活してきた僕が妻共々旧交を温めることができたのは本当に嬉しいことです。この際、お礼に代えて駄文を草します。

 僕を同級生とつないでくれたのは武実くんです。それまで津呂に帰っても正広くんや治雄くんと立ち話をする程度だったのですが、1978年夏に変化が起きました。 
 僕がクラス担任をしていた8人の高校生を連れて津呂に帰っていたのですが、花火大会の夜、偶然、武実くんに会ったのです。そして地区の盆踊りの見学に招待されました。
 このときから武実くんは僕が帰郷するたびに、妻共々あちこちで接待してくれました。美鈴さんのスナックで美鈴さんに、勝恵さんのスナックで勝恵さんに僕はうれしい巡り会いをすることができたのです。小学校以来ですから懐かしいには違いありませんが、はじめて《出会う》ようなものです。
 40歳近くになっていたわけですが、学校という世界しか体験したことのない僕は、武実くんたちから僕とは違った人生の話を聞きました。ずうっと疑問に思っていたことも聞きました。「小学生の頃、昼休みに僕らが家に帰って昼飯を食べているとき、遠くから通っていた君たちはどうしていたの?」
 武実くんの答えは「弁当などはなくて、学校の水道の水をのんでいたよ」。僕は20代の末ごろから差別や在日朝鮮人に対する民族差別に気づくようになり、東京の学校のなかでは比較的早く、生徒たちと共に研究するようになっていたのですが、同級生の口から証言を聞くのははじめてです。僕の研究も学校での取り組みも、こうしていくらか現実に裏付けられたものになりました。
 小学校の時、さまざまな疑問を持ちながら、遠くから通う武実くんたちの生活の現実や思いに想像が及ばなかった自分が、ようやく「人間」になり始めたのです。上級学校に進むなかで見失った大切な友人たちのかけがえのない人生と出会うことで、僕は大いにリフレッシュされたともいえます。
 87年頃から鬱傾向で悩んだことがあります。このときには室戸の海とカラオケでのひとときが大きな励ましになりました。このころには関東に住む同級生の集まりももたれるようになり、後に、武実くんが埼玉に住むお姉さんを訪ねたときには僕の家に泊まってくれ、公夫くんや政子さんとも交流することができました。
 こうして僕はすこしずつ友だちと話ができるようになっていきました。小学校の友だちといくらかでも心を通わせることができるようになったことは今や僕の大切な宝です。
 
 今回の同窓会に当たっては幸智くん、知子さん、忠成くん、武実くんなどが骨を折ってくれ、楽しい思いをさせてくれました。本当にありがとう。小学校では出会うことのなかった方々や敏明くんのお連れ合いが千葉県から参加してくれたことなどは、特に嬉しいことでした。
 小さいときから親しくしてくれた正広くん、治雄くん,利和くんなどとはもはや会うことができません。あとどのくらいの人生が僕に残されているのかわかりませんが、旅は道連れ、これからもどうぞよろしく。


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3 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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ふるさと高知 (トニー・タニ)
2007-12-12 02:21:29
啓介さん、お久しぶりです。この記事に直接関係なく投稿してスミマセン。以前も貴兄のこのブログを拝見しましたが、お父様が亡くなられた直後の記事を読み、かえって今さら何も申し上げられなくなり、黙ってブログを閉じてしまいました。ところで、私の方も先月(11月)墓参りで高知に帰ってきました。そのついでに、実家(桝形)から2~300m先に新しく建った、高知市立「坂本龍馬が生まれた町の博物館」に寄ってきました。また、生まれて初めてサバのタタキを食べてきました。サバのタタキは♪坊さんかんざし♪で有名なハリマヤ橋の袂にある、和菓子“土左日記”の店「青柳」の角を入った、「黒潮市場」で生まれて初めて食べました。次回余裕があればお訪ね下さい。土佐独特の魚介類がメニューにたくさん出ています。
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早速食べに行きます (けいすけ)
2007-12-12 05:31:24
 父の七七忌の法要のため、明日から高知・室戸にかえります。明日は入院中の姉を見舞ったあと、サンライズホテルに泊まります。近くだと思いますので早速黒潮市場にいって夕食ということにします。室戸に帰るとこのところ友人が獲ってきたばかりのサバを持ってきてくれるのですが、タタキというのは初耳です。
 枡形といえば「名護山」という食堂をご存じですか。僕の二従兄弟がやっているのでそこでサバのタタキを頼んでみようかと貴兄のHPを拝見して妻と相談していたところです。
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『流れる星は生きている』に出演して(2) (カツヨシ)
2007-12-14 16:11:21
(今回のブログの記事と直接関係ない文章で恐縮ですが、継続して議論しているところなので、ご寛恕ください)
 「声の会」の存在を知ったのは昨年の11月。リーディングドラマ上演に向けて、会員を募集していました。そのオーディションの場でぼくは言いました。
「『声の会』が目指している(らしい)ものにも、『民主的な運営』をうたった会則にも同意する。だが、1点だけ疑問がある。なぜ、今『流れる星は生きている』を取り上げるのか。原作者の藤原ていさんの講演を聞く機会があったが、ほとばしるような勢いで自分が体験した苦難と悲惨さを講釈師のように語る(自分自身に酔っているような)『名調子』に辟易した。自分の苦労話をとうとうとまくし立てるような人間にはなりたくないと、そのとき思った。そもそもなぜそのとき『満州』にいたのか。そのことの意味を歴史的に振り返ることもなく、被害者意識だけが鼻につく。これを劇化しても『戦争は嫌だね』という凡百の厭戦ドラマをもうひとつ世に送り出すだけではないか」……強い口調で言い放ったぼくに、リーダーのAさんは言葉を選びながら、「アジア・太平洋戦争の惨禍(たとえば原爆・空襲・沖縄戦・、慰安婦等々)の中で、引き揚げ問題はまだまだ十分に知られていない。(ますますキナクサクなっている時代だが)単なる厭戦ドラマでも反戦ドラマでもなく、(『声の力』と想像力を通して)これから多方面で語られ続けなければならない満州引き揚げ時の実情を、ひとつの人間ドラマとして創り出したい」と応じました。
 釈然としないものが残ったものの、オーディションでこういう発言をする応募者に、誠実に答えようとし、会に受け入れてくれたこの女性の懐ろの深さにぼくはひそかに感じ入ったのでした。
 ともあれ「なぜ、今、『流れる星……』なのか?」はその後も繰り返し発せられ、問い直される問いであり続けました。
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