川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

「精一杯生きる」人 名取市の西城卓哉さん

2011-03-19 11:01:39 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)

大津波で妻と息子を失った市職員 「負けないで」と被災者に呼びかけ

産経新聞 3月18日(金)22時24分配信

 

大津波で妻と息子を失った市職員 「負けないで」と被災者に呼びかけ
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名取市職員の西城卓哉さんが書いたメッセージ=18日午前11時52分、宮城県名取市の名取市役所(沢野貴信撮影)(写真:産経新聞)

 「苦しいけど 負けないで! 名取市職員 S」。東日本大震災で大津波が押し寄せた宮城県名取市の市役所玄関ガラスにこんなメッセージが書かれた紙が張り付けてある。書いたのは名取市職員、西城卓哉さん(30)。津波で最愛の妻、由里子さん(28)が行方不明になり、8カ月の長男、直人くんを失った。自分と同じくかけがえのない家族を失った人たちは多い。それでも精いっぱい生きてほしい-。そんな思いを込めたという。

 3月11日。激しい揺れを感じた西城さんはすぐに、職場から由里子さんの携帯電話を鳴らした。一瞬つながったが声を聴けず、途切れた。すぐに市役所は地震で大混乱、職員としてさまざまな対応に追われ、気が付くと12日未明になっていた。ようやく自宅マンションへ戻ると、エレベーターは止まり、泥に足をとられた。部屋に入ると、2人の姿はなかった。近くの由美子さんの実家へ向かった。

 毛布、食料、紙おむつ…。寒さと飢えをしのげるよう紙袋に目一杯詰め込んで、必死に歩いた。「あとは、2人を見つけるだけ」。しかし、周辺に原形をとどめる家はほどんどなく、がれきの山だ。ひょっとしたら、がれきの下敷きになっているかも知れない…。由美子さんの実家を目指しながら、一晩中捜した。しかし、実家も建物はなくなっていた。

 翌日夜、由里子さんの母親とようやく出会えた。自衛隊のヘリコプターに救出されたのだという。憔悴しきった義母は「2人とも流された。どこにも姿がないの…」という。絶望的な気持ちになったが、わずかな望みを信じ捜索を続けた。

 しかし、直人くんとみられる遺体が安置所にあると聞き、15日夜、身元を確認した。「肌着も服もよだれかけも、妻が好んで着せる組み合わせだった」。安置所で死亡届を出すと居合わせた同僚職員が泣き崩れた。

 職場の後輩だった由里子さんと出会ったのは3年前。「誠実で信頼できる人」と一目で直感し、6月14日の由里子さんの誕生日にプロポーズした。昨年7月には直人くんが生まれた。幸せだった。デジタルカメラには、3人で迎えた最初のクリスマスの写真が保存してある。今年2月に撮影した1枚は3人で写った最後の写真。眺めていると、さまざまな思い出があふれてくる。

 それでも西城さんはメッセージを書いて、市役所玄関ガラスに貼り付けた。

 『最愛の妻と生まれたばかりの一人息子を大津波で失いました。

 いつまでも二人にとって誇れる夫、父親であり続けられるよう精一杯生きます。

 被災されたみなさん。

 苦しいけど

  負けないで!

   名取市職員 S』

 地震発生からちょうど1週間の18日午後2時46分、西城さんの職場でも黙祷を告げるサイレンが鳴り響いた。(吉田智香)

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出典●http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110318-00000691-san-soci

 

 震災から一週間が経った昨日深夜、この記事を読みました。一人、声をあげて泣いている自分に気づきました。

この大震災と大津波は人智の及ばない自然の威力を見せつけてくれましたが、人間の持つ力の大きさにも気づかされました。

西城さんという青年の存在もその一つの実例であり、心の深いところで私たちを励ましてくれます。

 こういう方が被災地のあちこちで活躍しておられるのでしょう。先日、僕に見舞い(!)の電話をくれた佐賀の山下さんが同じようなことをいっておられたのです。

 40年前の今頃、僕は29歳、結婚して2年あまり、娘が生後9ヶ月でした。

 偏見や差別の中で生きる高校生や水俣病の患者さんの思いを受け止める力を身につける入り口に立っていました。「全員5」はそういう僕をありのままに表現した行為でした。

 3月の末には義弟を誘って三陸海岸を気仙沼から六ヶ所村(下北半島)まで旅しました。『朝鮮人強制連行の記録』(朴慶植著・未来社)という本をもって、陸前高田市矢作や釜石などの村里を訪ねて本に書かれていること(「朝鮮人虐殺」)について村人の話を聞き回りました。自分なりの精一杯の学習の一環でしょう。

このころ、のほほんと生きてきた僕の、主体的な人生がようやく始まっていたのです。

僕とは違う生き方をしてきた妻の目に学んだり、日に日に「人間」になっていく娘の命の営みに感動しながら生きていました。遅まきながら僕の真の「第二の誕生」だったかもしれません。

 西城さんはこのころの僕と同じ人生のステージを生きておられます。しかし、大津波はお連れ合いと息子さんを同時に飲み込んでしまいました。

 どう生きたらよいか、僕ならどうしたのか、想像もつきません。

 西城さんのメッセージを読んで「よし、負けないぞ!」と励まされた市民が数多くいるに違いありません。

僕は被災地から離れた川越に住む一老人にすぎませんが「オレも負けないぞ」と確かに励まされたことを西城さんに伝えたくなりました。

 地震と津波で亡くなられた方々の冥福を祈ります。

 


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