川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

不知火海の旅 備忘録(3)水俣

2008-12-29 11:32:16 | 出会いの旅
 12月19日(金)
 相思社を訪ね水俣病歴史考証館を見学する。遠藤邦夫さんが90歳の義母にもわかるようにチッソの設立から今日までの歴史を丁寧に説明してくれる。ぼくは今まで勉強していなかった野口遵(したがう)という人についてもっと知りたいと思うようになった。チッソの創立者。
 東大OBの技術者だった彼が塩田跡地を買いたたいて工場を建てたときから水俣での歴史がはじまった。戦中に昭和天皇を水俣工場に案内する得意満面の写真がある。彼は晩年にその財産の大半を寄付したという。
 朝鮮奨学会の設立も彼の寄付に基づく。今日に至るまで多くの在日コリアンがこの奨学金の世話になっている。ぼくの生徒たちも例外ではない。しかし、彼らのほとんどは植民地支配の歴史と共に「朝鮮窒素」の名は知っているかも知れないが自らが世話になった奨学会の祖・野口遵の名は知らない。水俣病との関わりで思い起こす人も少ないだろう。
 野口遵とはどんな人だったのだろう。野口町がある町である。水俣の人たちにとっては格別の存在なのだろう。そんなことを調べてみたいと思った。

 水俣病歴史考証館http://www.soshisha.org/koushoukan/koushoukan.htm
 
 柳田さんや高倉さんなど70年代に「水俣病を告発する会」で活躍し、相思社の設立にかかわった方々は今はここを離れている。「ガイア水俣」という別の組織を作り、水俣の人になりきっているようだ。相思社も世代を重ね、担う課題も少しずつかわってきているのだろう。

 午後は相思社に近い茂道(もどう)の港に行ってみた。県境が近いところなのでわざわざ鹿児島県に入り、海沿いの細い道を通った。美しい港だ。恵比寿さんが祀ってある。水俣病の患者さんの多く住むところだと聞いている。今年亡くなられた杉本栄子さんもここの方ではなかったか。もやってある漁船にその気配がある。港から見える山には甘夏柑がやわらかい日差しに輝いている。

 杉本栄子さんhttp://blog.goo.ne.jp/maxikon2006/e/adaf2e239aa9de48cc474a2f443f933a 

 村のはずれまで来ると「グリーンスポーツ水俣」という看板があった。入ってみると照葉樹の森。タブの木もありぼくの田舎と変わらない。キャンプ場がある。森の外に出てみると穏やかな海の広がり。まさに魚付きの森だ。水俣湾が豊饒の海だったことが容易に想像できる。劇症患者が多発したのは何という運命か。

 袋(ふくろ)湾から湯堂へ。ここでは港に大きな合板工場が目に付く。
坪段(つぼだん)という石積みの美しい港があるというので国道から降りてみる。海を埋め立てて大きな港をつくっているようだった。そのはずれの国道の下に古い小さな港があった。そこらに転がっている石を集めてきて丁寧に積み上げた石積みの港である。石牟礼道子さんの文章に出てくるおじいさんたちの仕事はこんな風だったのだろうか。
 犬をつれて散歩している女性が話してくれた。
 
 こどものころ、ここに住む祖父母の家に夏になると遊びに来て目の前に浮かぶ恋路島に連れて行って貰った。きれいな海岸で泳いだり、貝を採ったりした楽しい思い出は尽きない。祖父母が育てた父はめでたく会社(チッソ)にはいることが出来、私たちは町で不自由なく暮らすことが出来た。しかし、祖父母は水俣病に冒されてなくなった。

 この町にはこのような方も少なくないのであろう。大人になって水俣を離れていたが今はこの近くに住んでおられる。大切にしてくれた祖父母に対する思いは深く、美しかった海岸は忘れられない。世話になった会社という思いもある。
 50年に亘る水俣病の歴史はこの町のひとびとを引き裂いてきたに違いない。この方やこの方の家族のように我が身が割かれてきた人もいるだろう。そのときどういう生き方があったのだろう。
 
 僕らと同世代の方でぼくと同じようにあちこち旅をするのが楽しみらしい。ゆっくりお話を伺いたかったが夕暮れが迫って来てそうもいかなかった。
 
 ぼくは昔、チッソ水俣工場の第一組合の山下さん(?)の水俣病裁判での証言を授業で読みあったのを思い出す。会社の組合つぶしの攻撃の中で、患者さんの側に立とうとした社員もたしかにいたのである。その方々はお元気だろうか。

 (ネット検索で山下善寛さんであることがわかった。貴重なお話が紹介されている。是非読んでいただきたい。)http://www.southwave.co.jp/swave/8_cover/2002/cover0218.htm 


 今水俣では「もやい直し」という言葉がはやっている。元々は患者の緒方さんが使い始めた言葉だが、今では行政側が積極的に使っているらしい。分裂の歴史に終止符を打ち、新しい水俣のアイデンティティーをうち立てようとする動きを象徴している。
 ある企業が水俣の水源地帯につくろうとした産業廃棄物の最終処分場を市民の力で撃退したことが報じられている。新しい動きのひとつである。


 水俣市 産業廃棄物最終処分場問題http://www.minamatacity.jp/jpn/kankyo_etc/stop_sanpai/stop_sanpai.htm
 もやい直し http://www.soshisha.org/gonzui/49gou/gonzui_49.htm
 

 宿に着くとまもなく人吉から賀明さん紀子さん夫妻が到着し、この宿の自慢である魚料理を囲んで遅くまで語り合うしあわせな時を過ごすことが出来た。


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